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ベーブ・ルース
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■スポーツの超人<海外編>INDEX■■■■■

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テッド・ウィリアムズ ベーブ・ルース R・ホーンスビー R・ヘンダーソン
その他−参照2

■ベーブ・ルース■野球選手■ホームラン時代を作った野球の神様

左投左打

身長約188センチ、体重約97.5キロ

1895年2月6日−1948年8月16日

「野球の神様」といわれ、アメリカの国民的ヒーロー・・・

ポジションは最初は投手で後に外野手です。

投手としても一定の活躍をしましたが、外野手になってから大活躍しました。

シーズン50本塁打以上を始めて達成した選手・・・

ホームランの少ない時代からホームランの魅力を知らしめたいわゆる「ホームラン時代」を作った選手・・・

1927年に記録したシーズン60本塁打は、1961年にロジャー・マリス(61本塁打)(参照)によって破られるまでの34年間の大リーグ記録・・・

通算714本塁打も1974年にハンク・アーロン(通算755本塁打)(参照)に破られるまでの39年間の大リーグ記録・・・

豪快なホームランの連発で、野球をアメリカ屈指の人気スポーツとした最大の功労者・・・

「ベーブ」のニックネームの由来は、子供のように無邪気、顔が童顔で赤ちゃんのようだから・・・など

(参照)
ロジャー・マリス
右投左打
身長183センチ、体重89.5キロ
1934年9月10日−1985年12月14日
外野手
ミネソタ州ヒビング出身
ベーブ・ルースのシーズン本塁打60本の大リーグ記録を破った男・・・
1957年にクリーブランド・インデアンスで大リーグデビュー・・・
1958年のシーズン途中でカンザスシティ・アスレチックスに移籍・・・
1960年にニューヨーク・ヤンキースに移籍・・・
この年に112打点で打点王・・・
1961年には、ベーブ・ルースのシーズン本塁打60本の当時の大リーグ記録を更新する61本塁打(現在=2015年9月4日現在のシーズン本塁打の大リーグ記録はバリー・ボンズ(参照)の73本塁打)・142打点で、本塁打王・打点王・・・
1962年にワールドシリーズ制覇・・・
1967年にセントルス・カージナルスに移籍・・・
1967年・1968年のカージナルスのリーグ制覇に貢献・・・
1968年はワールドシリーズ制覇・・・
1968年で現役引退・・・
1984年にヤンキースは彼の背番号「9」を永久欠番・・・
1985年に死去・・・

打撃成績
通算12年、1463試合、5105打数1325安打、275本塁打、851打点、終身打率2割6分0厘

首位打者2回(1956年・1959年)
本塁打王1回(1961年)
打点王2回(1960年・1961年)

MVP2回(1960年・1961年)
ゴールドグラブ賞1回(1960年)

(参照)
ハンク・アーロン
右投右打
身長183センチ、体重81.5キロ
1934年2月5日−
外野手、一塁手
アメリカ・アラバマ州モービル出身
大リーグを代表する打者のひとり・・・
ハンク・アーロンことヘンリー・ルイス・アーロンは1934年2月5日に生まれます・・・
1954年に大リーグ昇格し、1957年にワールドシリーズ制覇・・・
1974年にベーブ・ルースの通算本塁打714本の大リーグ記録(当時)に並び、追い越します・・・
その年のオフに、来日し、王貞治と交流・・・イベントなどにも参加・・・
1975年、現役引退・・・
通算本塁打は755本で、引退した当時は大リーグ記録で、現在=2015年9月2日現在でも大リーグ2位・・・
ミルウォーキー・ブルワーズの背番号「44」は、永久欠番・・・
1982年、アメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算23年、3298試合、12364打数3771安打、755本塁打、2279打点、終身打率3割0分5厘

首位打者2回(1956年・1959年)
本塁打王4回(1957年・1963年・1966年・1967年)
打点王4回(1957年・1960年・1963年・1966年)

MVP1回(1957年)
ゴールドグラブ賞3回(1958年−1960年)

アメリカ野球殿堂入り(1982年)
2279打点
6856塁打

トリプルスリー(シーズンで打率3割・30本塁打・30盗塁以上)(1963年)ちなみに通算盗塁は240

(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
バリー・ボンズ
左投左打
身長188センチ、体重109キロ
1964年7月24日−
外野手
カリフォルニア州リバーサイド出身
大リーグを代表する打者のひとり・・・
500本塁打・500盗塁のマルチプレーヤー・・・
シーズン30本塁打・30盗塁を5回、打率3割・30本塁打・30盗塁を3回、打率3割・40本塁打・40盗塁を1回・・・
キャリア後期は、守備・走塁が衰え、打撃が突出・・・
1986年に大リーグ昇格・・・
打撃無冠ながら毎年30本塁打前後・30盗塁前後の数字をあげる・・・
その後も本塁打は30本以上だが、盗塁が1999年・15盗塁、2000年・11盗塁に落ち込む・・・
2001年にマーク・マグアイワ(参照)のシーズン70本の大リーグ記録を更新する73本塁打・・・
盗塁は最後の2桁の13盗塁で、以後は1桁盗塁・・・
2002年は打率3割7分0厘で首位打者・・・
2004年に打率3割6分2厘で首位打者・・・
2000年から2004年まで5年連続40本塁打(49・73・46・45・45)・・・
2005年は故障でシーズンの大半欠場・・・14試合で5本塁打・・・
2006年・26本塁打、2007年・23本塁打・・・
2007年に現役引退・・・
通算本塁打762本は大リーグ記録・・・
薬物疑惑(筋肉増強剤のステロイド使用など)でアメリカ野球殿堂入り見送り・・・

打撃成績
通算22年、2986試合、9847打数2935安打、762本塁打、1996打点、終身打率2割9分8厘(514盗塁)

首位打者2回(2002年・2004年)
本塁打王4回(1993年・2001年)
打点王1回(1993年)

MVP7回(1990年・1992年・1993年、2001年−2004年)
ゴールドグラブ賞8回(1990年−1994年、1996年−1998年)

シーズン73本塁打(2001年)
シーズン長打率.863(2001年)
シーズン出塁率.609
シーズンOPS1.422
シーズン四死球232(2004年)
シーズン敬遠120(2004年)
通算762本塁打
通算2558四球
通算688敬遠


(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
マーク・マグワイア
右投右打
身長195.5センチ、体重113.5キロ
1963年10月1日−
一塁手

カリフォルニア州ボナモ出身
1984年にオークランド・アスレチックス入団・・・
1986年8月に大リーグ昇格し、1987年に大リーグの新人本塁打記録の49本で本塁打王・・・文句なしの新人王(ナ・リーグ)・・・
1996年から1999年まで4年連続50本塁打(52・58・70・65・)・・・
1996年に52本塁打で本塁打王・・・
1997年のシーズン途中からセントルイス・カージナルス移籍・・・
1997年は移籍前34本、移籍後24本のシーズン58本塁打で本塁打王に認定されず・・・
1998年はロジャー・マリスのシーズン61本塁打の大リーグ記録を更新するシーズン70本塁打・・・
この時は、サミー・ソーサ(参照)との本塁打争いが話題に・・・
その後、当時は大リーグでは禁止されていなかった薬物をやめ(五輪では禁止)、1999年も65本塁打・・・
1999年は65本塁打・147打点で本塁打王と打点王・・・
本塁打量産は薬物によろものと認識される・・・
2000年・2001年は故障もあり、32本塁打・29本塁打に激減・・・
2001年で現役引退・・・
その後はセントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャースでコーチ・・・
薬物使用でアメリカ野球殿堂入りが困難に・・・

打撃成績
通算16年、1874試合、6187打数1626安打、583本塁打、1414打点、終身打率2割6分3厘

本塁打王4回(1987年・1996年・1998年・1999年)
打点王1回(1999年)

新人王(1987年)
ゴールドグラブ賞1回(1990年)

(参照)
サミー・ソーサ
右投右打
身長183センチ、体重102キロ
1968年11月12日−
外野手、指名打者
ドミニカ共和国出身
シーズン60本塁打3回は大リーグ記録・・・
1985年にテキサス・レンジャーズ入団・・・
1989年に大リーグ昇格・・・
シーズン途中ににシカゴ・ホワイトソックスへ移籍・・・
1992年にシカゴ・カブスに移籍・・・
1993年から1997年まで5年続けてシーズン20本塁打(33・25・36・40・36)・・・
1998年にマーク・マグワイアと本塁打争いをし、66本塁打もマグアイアの70本塁打に敗れる・・・158打点で打点王・・・
1999年も62本塁打もマグワイアの65本塁打に敗れる・・・
2000年に50本塁打で本塁打王・・・
2001年は64本塁打もバリー・ボンズの73本塁打に敗れる・・・160打点で打点王・・・
2002年は49本塁打で本塁打王・・・
2003年にコルク入りバット疑惑・・・、同年に薬物疑惑・・・
2005年にボルチモア・オリオールズに移籍・・・
2006年は所属なし・・・
2007年テキサス・レンジャーズ復帰・・・
この年で現役引退・・・

打撃成績
通算18年、2354試合、8813打数2408安打、609本塁打、1667打点、終身打率2割7分3厘

本塁打王2回(2000年・2002年)
打点王2回(1998年・2001年)

MVP1回(1998年)
シーズン60本塁打以上3回(1998年・1999年・2001年)

(注)赤太字は大リーグ記録

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■履歴
▼幼少時代
ベーブ・ルースことジョージ・ハーマン・ルース・ジュニアは、1895年2月6日にアメリカで生まれます。

ルースは、腕白に育ち、喧嘩や万引き、飲酒や喫煙などあらゆる非行をします。

7歳になった頃には、両親の手に負えず、「セント・メアリー少年工業学校」という全寮制の矯正学校兼孤児院に送られます。
(この学校で12年間過ごすことになる)

そこでルースは、神父のブラザー・マシアス・バウトラーと出逢い、野球を教わったことがルースの人生に大きな影響力をもたらします。

マシアスは美男で、身長約198センチ・体重約113キロの美丈夫で、打球の飛距離もすごかったようです。

ルースは、生涯マシアスを尊敬することになりますが、マシアスの癖であった歩く時に内股で足を引きずる癖があったが、ルースはこれを真似し、その癖は生涯治らなかったといわれます。

ルースの父は、ルースが23歳の時に、酒場の喧嘩に巻き込まれ、亡くなっており、ルースにとっては、多感な幼少時代を共に過ごしたマシアスこそが「実質的な父(実際には血縁関係はありませんが)」でした。

▼ボルチモア・オリオールズ時代
1913年、ルースの活躍は、ワシントン・セネターズの投手だったジョー・エンジェルの目に留まり、ボルチモア・オリオールズ(現在のオリオールズとは無関係、当時はマイナー・リーグのチーム)と契約します。

この頃に「ベーブ・ルース」と呼ばれるようになります。

ルースは、結局、1914年7月9日にボストン・レッドソックスとの交渉を成立させます。

▼大リーグ時代
大リーグデビューの1914年は5試合に出場し、そのうち4試合を投手として登板・・・

しかし、その後マイナーへ・・・

シーズン終了後にの同年10月17日にヘレン・ウッドフォードと結婚・・・

1915年は、ルースは18勝8敗でチームのリーグ優勝に貢献・・・打撃でも打率3割1分5厘、4本塁打・・・

チームはワールドシリーズを制したが、ルースに登板の機会はなく、唯一の打席も内野ゴロでした。

1916年は、23勝12敗、防御率1・75、9完封で、防御率と完封数はリーグトップ・・・

チームはワールドシリーズに進出し・・・

ルースは14イニング無失点で、4勝1敗で昨年に続き「世界一」に・・・

1917年も24勝13敗・防御率2.01、打者としても打率3割2分5厘と活躍したが、シカゴ・ホワイトソックスの2位・・・
(なお、6月23日のワシントン・セネタース戦で、先発したルースは先頭打者に四球を与え、怒って審判を殴り、10試合の出場停止・・・
代わって登板したアーニー・ショウアが9回を投げ抜き、継投でのノーヒットノーラン・・・
7月11日に完封勝利・・・)

1918年は、13勝7敗・防御率2.22で、打者でも11本塁打で「シーズン10勝かつ10本塁打」を記録・・・
この年右翼への打球がサヨナラ三塁打と当時のルールで認定されており、現行のルールではルースの通算本塁打は1本多い715本塁打となる・・・
チームはワールドシリーズに進出し第1戦と第4戦の先発を任され17回で自責点2・防御率1.06の2勝・・・
ワールドシリーズでの連続無失点29回2/3は、1961年にホワイティー・フォード(参照)に破られるまでの大リーグ記録・・・
(この年以降は主に外野手として起用されます)

(1914年〜1917年にかけてルースが投手以外で起用されたのは、たったの44試合・・・)

ルースが外野に起用される機会が増えたのは1918年からです。
1918年は打率3割0分0厘で、レギュラー野手としては圧倒的に少ない317打席で11本塁打を打っています。

1919年は、130試合に出場もたった17試合の登板で、この年の29本塁打は当時の大リーグ記録でした。
(当時は二桁本塁打で相当な長距離打者であり、29本塁打は驚異的数字でした)

このルースの派手な本塁打で「ホームラン時代」は作られます。

1919年12月26日、ルースはニューヨーク・ヤンキースへ金銭トレード・・・

ヤンキースへ移籍後のルースは、完全に投手から野手へ・・・

1920年、ルースは打率3割7分6厘・54本塁打・・・
特に54本塁打は当時は驚異の数字でした。

1921年、ルースはさらに進化し打率3割7分8厘・59本塁打・・・
(もっとも現行のルールなら、1921年は104本塁打との研究もある)
1921年のヤンキースは、ワールドシリーズに進出するものの、ニューヨーク・ジャイアンツに敗れる・・・
ルースは第2戦でケガをし残りの試合は欠場・・・最終戦のみ代打出場・・・
ちなみにこのワールドシリーズでルースは打率3割1分6厘・1本塁打・5打点・・・
ルースはワールドシリーズ後に、地方巡業に参加したが、当時はシリーズ出場選手が商業試合に出場することは禁止されており、ルースは、1922年の最初の6週間は出場停止・・・

なお、この年(1922年)はコロンビア大学のルースの打撃の研究でルースの超人的計測結果をはじき出します。
1922年は110試合で打率3割1分5厘・35本塁打・99打点・・・
ワールドシリーズに進出するものの、再びニューヨーク・ジャイアンツに敗れ、ルースは17打席で2安打のスランプでシリーズを終えました。

1923年にヤンキースは本拠地をヤンキース・スタジアムに移転・・・
ヤンキース・スタジアムは「ルースの建てた家」といわれています。
1923年は打率3割9分3厘・41本塁打・・・
ワールドシリーズに進出し、3度目のニューヨーク・ジャイアンツと対戦・・・、ルースはこのシリーズで打率3割6分8厘・3本塁打と活躍し、ワールドシリーズを制覇・・・

1924年、打率3割7分8厘で自身唯一の首位打者・46本塁打で本塁打王、打点は8点差の2位の121・・・
チームはワシントン・セネターズの2位・・・

1925年は自身にとっていままでで最悪で、打率2割9分0厘・25本塁打・・・
チームも負け越し(69勝85敗)ます・・・

1926年、打率3割7分2厘・42本塁打・146打点・・・
ワールドシリーズに進出するものの、3勝4敗でセントルイス・カージナルスに敗れる・・・
ルースは第4戦で3本塁打するも、走塁ミスでチームに迷惑をかけてしまいます。
この1926年のワールドシリーズでは病床の少年に本塁打を約束し、実際に打っています。

1927年、ヤンキースは歴史的強さでリーグ優勝・・・
ワールドシリーズでもピッバーグ・パイレーツに4連勝でワールドシリーズ制覇・・・
3番・ルースの後の4番・ルー・ゲーリックの成長も大きく、打率3割5分6厘・60本塁打・164打点・・・

1928年、チームはリーグ優勝で、ルースは打率3割2分3厘・54本塁打・・・
ワールドシリーズでも、セントルイス・カージナルスを4連勝で下し、ワールドシリーズ制覇・・・
ルースも打率6割2分5厘(ワールドシリーズ史上2位)、第4戦で3本塁打の活躍・・・
ゲーリックも打率5割4分5厘の活躍でした。

1929年はヤンキースはワールドシリーズ進出を逃しますが、ルースは1929年から1931年にかけ本塁打王・・・

1932年、ヤンキースはリーグ優勝・・・
ルースは打率3割4分1厘・41本塁打・137打点・・・
ワールドシリーズでもヤンキースはカブスに4連勝でワールドシリーズ制覇・・・
このシリーズの第3戦では球史で有名な「予告ホームラン」・・・

1933年、打率3割0分1厘・34本塁打・103打点・・・

1934年、打率2割8分8厘・22本塁打・・・
この後、ルースは大リーグ選抜で極東遠征・・・
ほとんどが日本開催で、沢村栄治の大リーグ選抜との対戦での快投もこの時です。
ルースの晩年だったのですね・・・

1935年、ルースはボストン・ブレーブスへ移籍・・・
ルースは打率1割8分1厘・6本塁打・・・
(72打数と打数が少ないにしては6本塁打を記録しています)
5月30日のフィリーズ戦で途中交代・・・
これがルースの現役最後となります。
6月1日に現役引退を表明・・・

▼現役引退後
現役引退後、ヤンキースの背番号「3」は永久欠番・・・
ルースは1936年にタイ・カッブらとともに最初のアメリカ野球殿堂入り・・・
1938年、ドジャースの一塁コーチ就任・・・
わずか1年で辞任・・・
1943年、チャリティゲームの代打(四球)・・・
1946年、病気発見・・・
1947年、退役軍人の会であるアメリカン・リージョンの少年野球プログラムの担当に就任・・・

1947年4月27日、「ベーブ・ルース・デー」開催・・・
1948年6月13日、ヤンキース・スタジアム開場25周年」のイベントに参加・・・
(バットを杖代わりにするほどルースは衰えていたという・・・)
1948年7月26日、ルースは自伝映画の試写会に参加・・・
(これがルースが公に姿を見せた最後といわれています・・・)
1948年8月16日、53歳で死去。
埋葬されたゲイト・オブ・ヘブン墓地・・・
同所のルースの墓には今でも献花が絶えないといわれます。

(参照)
ホワイティー・フォード
左投左打
1928年10月21日−
投手
ニューヨーク州ニューヨーク市出身・・・
1947年にニューヨーク・ヤンキースと契約・・・
1950年7月に大リーグ昇格・・・
3戦目の初勝利から9連勝するが、惜しくも新人王を逃す・・・(9勝1敗1セーブ)
1951年から1952年に朝鮮戦争の兵役・・・
1953年に復帰し18勝6敗・・・
1955年は18勝で最多勝・・・
1956年は19勝6敗・防御率2.47で最優秀防御率・・・
1958年は14勝7敗・防御率2.01で最優秀防御率・・・
1961年は25勝、1963年は24勝で最多勝・・・
ワールドシリーズでベーブ・ルースの29回1/3連続無失点の大リーグ記録を上回る33回2/3(33回との記録も・・・)連続無失点・・・
無失点記録中の1961年はワールドシリーズMVP・・・同年のサイ・ヤング賞も受賞・・・
1967年に現役引退・・・
1974年、アメリカ野球殿堂入り・・・・
同年はフォードの背番号「16」が永久欠番・・・

投手成績
通算16年、236勝106敗10セーブ、3170回1/3、1956奪三振、防御率2.75

最優秀防御率3回(1956年・1958年)
最多勝3回(1955年・1961年・1963年)

ワールドシリーズMVP1回(1961年)
サイ・ヤング賞(1961年)

・ワールドシリーズの記録
33回2/3連続無失点
通算22先発
通算10勝
通算146投球回数
通算94奪三振


アメリカ野球殿堂入り(1974年)

■家族
ルースは、1914年にヘレン・ウッドフォードと結婚するも、1926年頃から別居生活をし、1929年に火災によりヘレンは焼死・・・

その後、ルースは、クレア・メリット・ホジゾンと再婚・・・

ルースの二人の娘・ドロシーとジュリアは二人とも養女・・・

ドロシーは、ルースとヘレンの養女(ルースのガールフレンドとの間に生まれた実子であるとドロシーは主張)であるが、ジュリアはクリア・メリット・ホジゾンの連れ子・・・

■子供好き
ルースは子供好きで知られ、ファンサービスに熱心だったといわれます。

ルースの打った打球が子供の抱いていた犬に当たりその犬を見舞ったり、病床の少年にホームランの約束をしたり、子供との交流ではさまざまなエピソードがあります。

ルースは有名人などでも、大きな態度で接したが、荒れた生活で成績が不振の時、「子供がこの体たらくを悲しむよ」との主旨の発言に、すぐに反省し、生活態度を改め、練習に打ち込んだといわれます。

■野球
タイ・カッブはルースとは野球に対する考えなどで大きな違いがありました。

タイ・カッブのヒット狙いの打法に対し、ルースは「あんたみたいな打ち方なら、俺なら6割はいけるだろうな。でも、客は俺のけちなシングルヒットじゃなくて、ホームランを見に来ているのさ」とコメントしたといわれます。
本塁打を量産しつつ、4割近い打率を残したルース・・・
これにはカッブもルースを認めざるをえませんでした。
カッブもこのことが影響したのか、ルースを意識したのか、マスコミなどを前に狙って本塁打を打ったことがあります。

ルースは、四球ばかりで勝負を避けられるので、自分の後を打つ強打者(勝負を避けられないために・・・)を育てようとルー・ゲーリックを指導し、強打者に成長させています。
3番・ルース、4番・ゲーリックは大リーグ屈指の強打者コンビとなりました。

■日本遠征
1934年のベーブ・ルースなどを中心とする大リーグ選抜の極東遠征(ほとんどが日本遠征)で来日しています。

ルースは、日本各地でショーマンシップ、ファンサービスをし、遠征も好評だったといわれます。

この遠征で沢村栄治(9奪三振1失点で日本の0−1)の球史に残る快投が行われたわけで、1失点のルー・ゲーリック(参照)の本塁打は、沢村がカーブを投げる時に口を曲げる癖があることを見抜いたルースが「カーブ狙い」を指示したことによるものだといわれています。

(参照)
ルー・ゲーリック
左投左打
身長183センチ、体重91キロ
1903年6月19日−1941年6月2日
一塁手
ニューヨーク州ニューヨーク出身
大リーグを代表する打者のひとり・・・
1923年の途中からヤンキースに入り、ベーブ・ルースの直接指導もあり、1925年にはレギュラーに・・・
順調に打撃成績を上げます・・・
1927年には、打率3割7分3厘・47本塁打・175打点で打点王・・・
ベーブ・ルースとのコンビは、「殺人打線」として他チームから恐れられます。
1934年に、打撃三冠王・・・
その後もヤンキースの主力として活躍します・・・
1934年の大リーグ選抜で、沢村栄治の快投の中で本塁打を打っています。
(試合は、1−0で大リーグ選抜の勝ち、ルー・ゲーリックの本塁打が両チーム唯一の得点)
打撃成績も素晴らしいが、頑丈で、「鉄の馬」「静かなる英雄」などといわれました・・・
2130試合連続出場をしますが、1939年に体調不良を訴え、自ら欠場を申し入れ、記録は途絶えます・・・
ゲーリックは、筋萎縮性側索硬化症を発症しており、引退を決意します。
ゲーリックの背番号「4」は、ヤンキースの永久欠番・・・
1939年、アメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算17年、2164試合、8001打数2721安打、493本塁打、1995打点、終身打率3割4分0厘

首位打者1回(1934年)
本塁打王3回(1931年・1934年・1936年)
打点王5回(1927年・1928年・1930年・1931年・1934年)

打撃三冠王1回(1934年)

MVP2回(1927年・1936年)

アメリカ野球殿堂入り(1939年)
通算満塁本塁打 23本
2130試合連続出場

■その他
ルースは、40歳になるまで、自分の生年月日を1894年2月7日と思っていました。

ルースは、左投げ左打ちだが、文字を書くときは右利きでした。

78回転のレコードプレーヤーにかけられたレコード盤のタイトルが読めるほど優れた動体視力の持ち主・・・

セント・メアリーに入れられた当初は読み書きができなかったが、マシアスの助言もあり、努力し、翌年には習字で賞をもらうまでになりました。

ルースは仕立て屋を目指していただけあり、仕立ての技術があったといわれます。

ルースは、エレベーターに乗ることが好きで、エレベーターに挟まれ、死にかけたことがあります。

ルースは、少年時代から自転車に憧れ、プロ入り後に初めての給料で自転車を購入しました。
(自動車を購入しても、おかしくない年齢なのに・・・その後、高級自動車を購入したが、自転車を購入した時のうれしさはなかったそうです)

自動車の運転は滅茶苦茶で、自動車を大破させたことがあります。

ルースは、前述のようにマシアスを生涯にわたり、尊敬し、そのマシアスが亡くなった後、「自分の人生で最も悲しかったことは、母の死とマシアス先生の死だ」との主旨の発言をしています。

■打撃・投手

□主な打撃タイトル
首位打者1回(1924年)
本塁打王6年連続含む12回(1918年−1921年、1923年、1924年、1926年−1931年)
打点王6回(1919年ー1921年、1923年、1926年、1928年)


□主な投手タイトル
最優秀防御率1回(1916年)

□表彰(現役時代)
MVP1回(1923年)

□主な記録

最高長打率 7年連続含む13回(1918年−1924年、1926年−1928年)
最高OPS(出塁率と長打率を足し合わせた数値) 7年連続含む13回(1918年−1924年、1926年−1928年)

最多四球 11回(1920年、1921年、1923年、1924年、1926年−1928年、1930年−1933年)
通算長打率 6割9分0厘
通算OPS 1.1164
最多得点 177(1922年)
最多塁打 457(1922年)
通算サヨナラ本塁打 12本
通算満塁本塁打 16本
通算ランニング本塁打 10本

(注)赤太字は大リーグ記録

□特記事項
アメリカ野球殿堂入り(1936年)

■年度別打撃成績
球団 試合  打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率 
1914 BOS 10 0・0 .200
1915 BOS 42 92 16 29 10 21 9・0 23 .315
1916 BOS 67 136 18 37 15 10・0 54 .272
1917 BOS 52 123 14 40 12 12・0 18 .325
1918 BOS 95 317 50 95 26 11 11 66 58・2 58 .300
1919 BOS 130 432 103 139 34 12 29 114 ※1 58 .322
1920 NYY 142 457 158 172 36 54 137 14 ※2 80 .376
1921 NYY 152 540 177 204 44 16 59 171 17 ※3 81 .378
1922 NYY 110 406 94 128 24 35 99 84・1 80 .315
1923 NYY 152 522 151 205 45 13 41 131 17 ※4 93 .393
1924 NYY 153 529 143 200 39 46 121 ※5 81 .378
1925 NYY 98 359 61 104 12 25 66 59・2 68 .290
1926 NYY 152 495 139 184 30 47 150 11 ※6 76 .372
1927 NYY 151 540 158 192 29 60 164 ※7 89 .356
1928 NYY 154 536 163 173 29 54 142 ※8 87 .323
1929 NYY 135 499 121 172 26 46 154 72・3 60 .345
1930 NYY 145 518 150 186 28 49 153 10 ※9 61 .359
1931 NYY 145 534 149 199 31 46 163 ※10 51 .373
1932 NYY 133 457 120 156 13 41 137 ※11 62 .341
1933 NYY 137 459 97 138 21 34 103 ※12 90 .341
1934 NYY 125 365 78 105 17 22 84 ※13 63 .288
1935 BSN 28 72 13 13 12 20・0 24 .181
  2503 8398 2174 2873 506 136 714 2217 123 ※14 1330 .357
(注)通算22年
(注)球団のBOSはボストン・レッドソックス、NYYはニューヨーク・ヤンキース、BSNはボストン・ブレーブス
(注)年度の黒太字はリーグ1位、年度での赤太字は大リーグ1位
(注)四死球は、四球数・死球数
※1 101四球・6死球
※2 150四球・3死球
※3 145四球・4死球
※4 170四球・4死球
※5 142四球・4死球
※6 144四球・3死球
※7 137四球・0死球
※8 137四球・3死球
※9 136四球・1死球
※10 128四球・1死球
※11 130四球・2死球
※12 114四球・2死球
※13 104四球・2死球

※14 2062四球・43死球

■年度別投手成績

球団 登板 勝利 敗戦 S  勝率  被安打 与四死球 奪三振 失点 自責点 防御率
1914 BOS .667 23 21 7・0 12 10 3.91
1915 BOS 32 18 .692 217.2 166 85・6 112 80 59 2.44
1916 BOS 44 23 12 .657 323.2 230 118・8 170 83 63 1.75
1917 BOS 41 24 13 .649 326.1 244 108・11 128 91 73 2.01
1918 BOS 20 13 .650 166.1 125 49・2 40 51 41 2.22
1919 BOS 17 .643 133・1 148 58・2 30 59 44 2.97
1920 NYY 1.000 2・0 4.50
1921 NYY 1.000 14 9・0 10 9.00
1930 NYY 1.000 11 2・0 3.00
1931 NYY 1.000 12 3・0 5.00
  163 94 46 .671 321.1 974 441・29 488 398 306 2.28
(注)通算10年
(注)球団のBOSはボストン・レッドソックス、NYYはニューヨーク・ヤンキース
(注)Sはセーブ、Hはホールド
(注)回の少数点の1は1/3、2は2/3
(注)与四死球は、四球数・死球数
(注)年度の黒太字はリーグ1位

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