北の湖敏満 |
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■北の湖敏満■不沈艦、モンスター (RANKING 12位) |
北の湖 敏満(きたのうみ としみつ) |
本名・小畑敏満〜出身地・北海道〜身長179cm、体重169kg |
生没年月日・1953年5月16日−2015年11月20日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
北の湖敏満は、「憎らしいほど強い」といわれた横綱です。 優勝回数や連勝記録は驚く記録ではありませんが、強さのインパクトのあった横綱です。 横綱昇進の最年少記録などを持ち、晩年になるまではケガにも強い横綱でしたが、晩年はケガが多くなります。 「不沈艦」「モンスター」などといわれました。 □北の湖敏満を知るおすすめ作品 ▼履歴 ▽入門まで 北の湖敏満は、1953年5月16日に北海道で生まれます。 小学校6年で身長160センチ、60キロほどだったのが、中学1年で身長173センチ、体重100キロほどに成長します。 ただの巨漢ではなく、スポーツ万能で特に柔道が強く、好きなスポーツは野球でした。 ▽現役時代 「怪童あり」の噂で、多くの相撲部屋から誘われますが、女将の手編みの手袋が決め手となり、三保ヶ関部屋に入門します。 1967年1月に初土俵を踏みます。(同部屋の増位山太志郎とは同期) 四股名の「北の湖」は、地元・北海道の洞爺湖からで、湖を「うみ」と読ませたのは、水上勉の小説「湖の琴」(うみのこと)からです。 改名の多い角界で初土俵から引退まで1度も四股名を変えたことのない珍しい力士です。 スポーツ万能で恵まれた体格を生かし年少記録を次々と塗り替え、スピード出世していきます。 (中学在学中から角界に入ったこともあり、年少記録を次々と塗り替えましたが、今は角界に入るのが、義務教育の終了する中学卒業後で、北の湖の年少記録を塗り替えていくのは大変です) (義務教育の終了(中学卒業)後に入門することになってから貴乃花光司がいくつか北の湖の年少記録を塗り替えましたが、貴乃花はもちろん中学卒業後の入門であり、北の湖の年少記録をいくつか塗り替えたのはたいしたものです) 1972年1月に新入幕。 新入幕では5勝10敗で十両に陥落しますが、すぐに再入幕し、1973年には小結に昇進します。 1974年1月に関脇で初優勝し、大関昇進。 同年5月に2回目の優勝をし、同年7月に本割、優勝決定戦と輪島に連敗し、優勝を逃しますが、場所後に最年少で横綱に昇進します。 昇進が決まると、師匠(三保ヶ関・・・増位山大志郎)の後援会が(師匠の現役時代に)横綱を期待し用意しながら、使われなかった三つ揃いの化粧回しを弟子の北の湖が使うことになります。 輪島と「輪湖(りんこ)時代」を築き、やがて北の湖時代となりますが、さらに千代の富士時代と変わっていきます。 輪島とは輪島の引退まで好敵手、ライバルでした。 輪島との対戦成績は北の湖の21勝23敗でした。 一時は北の湖時代を築きますが、やがて晩成の千代の富士らの時代となり、この頃には衰えとケガとの戦いとなります。 全盛期には「憎らしいほど強い」、子供の嫌いなものを並べた「江川・ピーマン・北の湖」という言葉まで生みましたが、なかなか優勝できなくなり、1983年5月に24回目の優勝を全勝で飾ります。 これが自身最後の優勝でした。 1985年1月に自身も念願だった両国国技館のこれら落としの土俵に立ち、初日から2連敗し、翌日は不戦敗となり、現役引退します。 晩年は全盛期の強さがなくなり、新しい両国国技館の土俵に立つためのみで現役を続けたようでした。 現役引退後に協会より抜群の功績により一代年寄「北の湖」を授与されています。 ▽現役引退後 一代年寄「北の湖」を襲名し、北の湖部屋を興します。 引退相撲直後に、三保ヶ関と北の湖の父を相次いで亡くしますが、親戚中に手紙を出し、父の葬儀を欠席し、「親以上の存在」だった師匠の三保ヶ関の葬儀に出席します。 師匠としては複数の関取を輩出しています。 角界の主流派・出羽一門であることから「王道」「帝王学」を学び、2002年に協会のトップである理事長に就任します。 理事長としては、協会自主興行巡業の復活や公傷制度の廃止、ファンサービスの向上などを掲げますが、暴力事件などで2008年に理事長を辞任、後任理事長は武蔵川。 2010年に再び理事長に立候補するも放駒に敗れる。 2011年に八百長問題で降格。 2012年に再び理事長に立候補し、当選。再び理事長に・・・。 2013年5月16日に還暦土俵入り(太刀持ち・九重(千代の富士)、露払い・貴乃花(貴乃花)) 2014年は互選で再び理事長に・・・。(公益法人移行後初の理事長) ファンサービスの充実などを掲げています。 協会側にどちらかと言えば主導権を残す形態を保持したとされています。 (財団法人時代の色彩が強く残る) 今のところ「安定政権」です。 2015年11月20日、理事長在職中に死去。62歳。 2015年12月22日、協会葬が行われました。 ▽純粋な相撲人 中学在学中から角界にいるせいかいい意味でも悪い意味でも「純粋な相撲人」で、手編みの手袋で三保ヶ関入門を決めたのは純粋な現われです。 倒した相手には(お互い勝負師として)失礼だから手を貸さない(この見解はうなづけるところもある、この見解から誠実な力士とも・・・)、20歳の時「これから酒は控える」といったとか・・・など角界ならではの一般とは違う見識・意見などを持つ ▽せっかちと勝負強さ せっかちであり、全ての動作においてスピーディであわただしささえ感じます。 優勝決定戦を4連敗し、勝負弱さを指摘されましたが、その後3連勝し、このことを払拭しかけますが、最後の8回目の優勝決定戦に敗れ、通算では3勝5敗でした。 ▽抜群の記憶力 現役時代の自身の取り組みを完全に記憶しており、周囲から驚かれるほどの抜群の記憶力の持ち主。 ▽取り口と評価 立ち合いに手をつかず、中腰で低い重心から立合いかちあげるか、右上手を引いて、相手を吹き飛ばすかのように土俵外へ出すのが代表的な取り口。 左四つに組み止めての右上手投げには威力があった。 両廻しを充分に引きつけ、腰をよく落としての怒涛の寄り、巨腹に乗せた吊りも得意とし、地力の強さは際立った。 また意外に器用で、巨体ながら巻き替えが早い。 この器用さが北の湖の強さにつながっているとの指摘もあります。 優勝回数や連勝などの記録面の数字は驚くほどではないが、「強さ」のインパクトや印象では雷電為右エ門や太刀山峰右エ門らと並ぶ強烈さがありました。 とにかく「強い」との印象がある「勝つ相撲」の具現者となりえる横綱でした。 そのため、強さのインパクト、両者(北の湖・千代の富士)と戦ったことのある力士たちの証言などで、北の湖が上との意見も多いようで、優勝回数、連勝などで記録面では千代の富士が上位ながらRANKINGでは、北の湖を千代の富士より上位としました。 ▼ライバル 北の湖のライバルとして輪島大士を挙げます。 (対戦成績は北の湖から見たものです) 輪島大士 石川県出身、身長186cm、体重132kg 幕内通算成績 62場所 620勝213敗85休 勝率7割4分4厘 優勝14回 殊勲賞3回、敢闘賞2回 最高位・横綱 輪島は天才型の力士で、角界の常識やタブーなどを次々と破りました。 「黄金の左」といわれた強烈な下手投げがあり、左を際立たれる右のしぼりやおっつけも強烈でした。 また本名のまま横綱になった初の力士であり、初の学士横綱。 詳細は史上最強力士RANKING(RANKIG外の強豪力士)内の輪島大士を参照 対戦成績21勝23敗 ●●○●●●●●○○●●●●●○○○●●●●○●○○●○●○○○●○○●●○○○○○●○ (上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に優勝決定戦が北の湖の1勝1敗) □北の湖敏満を知るおすすめ作品 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
昭和47(1972)年1月 | 西前12 | 5勝10敗 | ●●●●●●●○○●●○○○● | ||
昭和47(1972)年5月 | 西前11 | 9勝6敗 | ●●○○○○○●○○●○●○● | ||
昭和47(1972)年7月 | 東前7 | 9勝6敗 | ●○○●○○○○○●○●●●○ | ||
昭和47(1972)年9月 | 東前3 | 6勝9敗 | ○○○○●●●●●●○○●●● | ||
昭和47(1972)年11月 | 西前6 | 10勝5敗 | ○○○○●●●○○○●○○○● | ||
昭和48(1973)年1月 | 東小結 | 4勝11敗 | ○●●●○●●●●○●●○●● | ||
昭和48(1973)年3月 | 西前5 | 9勝6敗 | ○○●○●○○○○●●●○○● | 敢 | |
昭和48(1973)年5月 | 西前1 | 6勝9敗 | ●○●●●●○●○○●○●●○ | 金 | |
昭和48(1973)年7月 | 東前4 | 8勝7敗 | ○○○●○●●●●●●○○○○ | ||
昭和48(1973)年9月 | 東小結 | 8勝7敗 | ○○●●●●○●○○●○●○○ | ||
昭和48(1973)年11月 | 東関脇 | 10勝5敗 | ○●○○●○○○○○○●●●○ | 殊 | |
昭和49(1974)年1月 | 東関脇 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○●○○○○ | 1 | 殊 |
昭和49(1974)年3月 | 東大関 | 10勝5敗 | ○○○●●○○○○●○○●●○ | ||
昭和49(1974)年5月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○●○○○○○● | 2 | |
昭和49(1974)年7月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○○●○○● | 決 | |
昭和49(1974)年9月 | 西横綱 | 11勝4敗 | ●○○○○○○○○●○○○●● | ||
昭和49(1974)年11月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○●○○○○●○○○○○○○● | 決 | |
昭和50(1975)年1月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○○○○●●○● | 3 | |
昭和50(1975)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ●○○○○○○○○○○○○●○ | 決 | |
昭和50(1975)年5月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○●○○○○○○○○○○● | 4 | |
昭和50(1975)年7月 | 東横綱 | 9勝6敗 | ○○●○●□●○○●○○●○● | ||
昭和50(1975)年9月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○●●○○○○○●○○○ | 決 | |
昭和50(1975)年11月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○●●○○○○●○○ | ||
昭和51(1976)年1月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○●○○●○○○○○○○○ | 5 | |
昭和51(1976)年3月 | 東横綱 | 10勝5敗 | ○○○●●○○○○○○●●○● | ||
昭和51(1976)年5月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○●○○○○○○○● | 6 | 決 |
昭和51(1976)年7月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○●○●○○○○○○● | ||
昭和51(1976)年9月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○●○○○○○○○○●●●○● | ||
昭和51(1976)年11月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○●○○○○○○○○○○ | 7 | |
昭和52(1977)年1月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○○○○●○●● | ||
昭和52(1977)年3月 | 西横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 8 | |
昭和52(1977)年5月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○●○○○●●○○ | ||
昭和52(1977)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○●○○○○○○○● | ||
昭和52(1977)年9月 | 西横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 9 | |
昭和52(1977)年11月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○●○○○○○○○○○○● | ||
昭和53(1978)年1月 | 西横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 10 | |
昭和53(1978)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○●○○○○○○○○○○○○● | 11 | 決 |
昭和53(1978)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○●○ | 12 | 決 |
昭和53(1978)年7月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 13 | |
昭和53(1978)年9月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○●○○○○○○ | 14 | |
昭和53(1978)年11月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ●○○○○○○○○○○○●●● | ||
昭和54(1979)年1月 | 東張横 | 14勝1敗 | ○○○○○○●○○○○○○○○ | 15 | |
昭和54(1979)年3月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 16 | |
昭和54(1979)年5月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○●○○○●○ | ||
昭和54(1979)年7月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○●○○○○○○○○○○●●○ | ||
昭和54(1979)年9月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○●○○○●○○○○○○○ | 17 | |
昭和54(1979)年11月 | 東横綱 | 10勝5敗 | ○○○○●○○○●○○●●○● | ||
昭和55(1980)年1月 | 東張横 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○●○●○●○○ | ||
昭和55(1980)年3月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○●○○○● | 18 | |
昭和55(1980)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○●○○○○○○ | 19 | |
昭和55(1980)年7月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 20 | |
昭和55(1980)年9月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○●●○○○○○○○●○● | ||
昭和55(1980)年11月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○●○○○○○●○○○○●○○ | ||
昭和56(1981)年1月 | 東張横 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○●○○○○○ | 決 | |
昭和56(1981)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ●○○○○○●○○○○○○○○ | 21 | |
昭和56(1981)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○●○○○○○○○ | 22 | |
昭和56(1981)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○○○○●● | ||
昭和56(1981)年9月 | 東横大 | 10勝5敗 | ○○○○○○●●○○●○○●● | ||
昭和56(1981)年11月 | 西横綱 | 5勝4敗6休 | ○●●○○○○●■休休休休休休 | ||
昭和57(1982)年1月 | 西横大 | 13勝2敗 | ●○○●○○○○○○○○○○○ | 23 | |
昭和57(1982)年3月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○○●○○○●○○●● | ||
昭和57(1982)年5月 | 西横綱 | 9勝4敗2休 | ○○○●○●○○○○●○■休休 | ||
昭和57(1982)年7月 | 東張横 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和57(1982)年9月 | 東張横 | 10勝5敗 | ●○○○○○○○●○●●○●○ | ||
昭和57(1982)年11月 | 東張横 | 9勝3敗3休 | ●○○○○○○○○○●■休休休 | ||
昭和58(1983)年1月 | 西横綱 | 5勝4敗6休 | ○○○●○○●●■休休休休休休 | ||
昭和58(1983)年3月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和58(1983)年5月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和58(1983)年7月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和58(1983)年9月 | 東張横 | 4勝1敗10休 | ○○○○■休休休休休休休休休休 | ||
昭和58(1983)年11月 | 東張横 | 11勝4敗 | ○○○○○●○○○○○○●●● | ||
昭和59(1984)年1月 | 東張横 | 8勝7敗 | ○●○□○●○●○○○●●●● | ||
昭和59(1984)年3月 | 東張横 | 10勝5敗 | ○○○○●○○●○○○●○●● | ||
昭和59(1984)年5月 | 西横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 24 | |
昭和59(1984)年7月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○●○●○○○○●○● | ||
昭和59(1984)年9月 | 東横綱 | 3敗12休 | ●●■休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和59(1984)年11月 | 東張横 | 3勝4敗8休 | ●○●○○●■休休休休休休休休 | ||
昭和60(1985)年1月 | 西横綱 | 3敗 | ●●■ | ||
幕内通算成績 78場所 804勝247敗107休 勝率7割6分5厘 優勝24回 殊勲賞2回、敢闘賞1回、金星1個 |
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