キュリー夫人 |
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■キュリー夫人■科学者■ノーベル賞を2度受賞した女性科学者 ▼ノーベル賞を2度受賞した女性科学者 マリア・スクウォドフスカ・キュリー 1867年11月7日−1934年7月4日 (現在のポーランド出身の科学者(物理学者・化学者)) フランス語名はマリ・キュリー(マリー・キュリーとも) キュリー夫人として有名 マリー・キュリー―フラスコの中の闇と光 (グレート・ディスカバリーズ) いわゆる「リケジョ」の先駆者だったマリー・キュリーの女性科学者としての苦悩と格闘に迫っている □キュリー夫人を知るおすすめ作品 ワルシャワ生まれで、放射線の研究で、1903年にノーベル物理学賞、1911年にノーベル化学賞受賞 パリ大学初の女性教授 1909年に、アンリ・ド・ロチルド(ロチルドはフランス語読みで、英語読みはロスチャイルド)からキュリー研究所を与えられた 放射能(radioactivity)という用語は彼女の発案による 生涯(ミニ略史) 1867年11月7日生まれ・・・生誕時の名前は、マリア・サロメア・スクウォドフスカ(スクロドフスカ) マリは、5人兄弟の末っ子で、幼少時から聡明であった マリ6歳の時、父が政治的な関係で職と住居を失う さらに、母が体をこわし、投機の失敗も重なり、貧窮の一家は、移り住んだ家で小さな寄宿学校を開いたが、1874年に、生徒からチフスがうつり、姉が死去 1878年には、母が結核で死去 1883年6月に、ギムナジウムを優秀な成績で卒業 父はマリを田舎などで過ごさせた その後、ワルシャワに戻り、チューターなどを務めたが、教師の紹介で、非合法の「さまよえる大学(ワルシャワ移動大学)で学ぶ機会を得る その後、姉のパリ大学進学のため、マリは働くことに 1885年から家庭教師を始め、やがてゾフラスキ家の家庭教師に ゾフラスキ家の長男と恋仲になるが、結婚を社会的地位の違いを理由に反対される 彼女は失意のまま契約の2年間を終えると、ソポトの町に住むフックス家でさらに2年間家庭教師 1890年3月に、結婚した姉に一緒に住むようすすめられるが、これを断り、家庭教師の傍ら、農工博物館の実験室で、科学研究の技能習得に努める 1891年秋に、密かに連絡を取り合っていたゾフラスキ家の長男と喧嘩別れし、フランス行きを決意 1891年10月に、マリは、フランス・パリへ パリ大学で、物理、化学、数学を学ぶ アパートの屋根裏を借り、昼は学び、夕方はチューターを務める日々 生活費に事欠き、食事もろくにせず、暖房もないので、服を全て着込む生活をしながら勉学に打ち込む 1893年に物理学の学士資格 この年、貯蓄が底をついたが、学友が彼女のために奨学金を申請し勉学を続けられた 学士を取得後、それまでの蓄えに頼る生活からフランス工業振興会の受託研究で、収入を得るように 相変わらずの屋根裏での貧窮は続いたが、その中で貯蓄し、奨学金を全額返済 後に夫となるピエール・キュリーとは、研究の場所提供で知り合い、マリの貧窮ながら勉学・研究に打ち込む真摯な姿勢にひかれ、ピエールは求愛を続け、1895年7月に、マリはプロポーズを受諾 1895年7月26日に結婚 その後、新婚旅行へ グラシエール通りのアパートで新生活が始まり、マリは、夫も教職で務めるパリ市立工業理化学高等専門大学(ESPCI)で研究を続けながら、家事をこなした 収入を得るため、中・高等教育教授の資格を取得 1897年9月12日、長女誕生 同年末には、鉄鋼の磁化についての研究論文を仕上げる マリは夫と話し合い、博士号取得へ ピエールが確保した「粗末」な実験室で、研究を続け、放射能、ポロニウム、ラジウムなどと研究を深めた 1903年12月に、ピエールとマリ、アンリ・ベクレルの3人にノーベル物理学賞 マリは女性初のノーベル物理学賞 1906年4月19日、ピエールが馬車にひかれ死去 マリは夫の死後も誹謗中傷にあいながら、研究を続け、1911年にノーベル化学賞受賞 異なる分野での受賞(物理学と化学賞)で、2度目のノーベル賞受賞 第一次世界大戦を経て、1921年と1929年に、アメリカ訪問 1932年頃から体調不良が続いたが、1934年7月4日に、マリはパリにて死去 マリは、長期間の放射能被爆で、再生不良貧血が死因とされている マリは、長期間の放射能被爆で、さまざまな病気にかかったとされる (当時は、放射能被爆対策がとられなかった) キュリー夫人の呼称 マリは、「キュリー夫人」との呼称を夫に従属する妻の意味でなく、自身が中学時代の友人に婚約を知らせる手紙で「次に会う時は、姓が変わっています」「キュリー夫人。これが私の新しい姓です」と自ら使っている 優れた発想 ロバート・リードは、マリの優れた発想を指摘している 業績 ・受賞歴 1889年、1900年、1902年 グーグネル賞 1903年 ノーベル物理学賞(ピエール・キュリーおよびアンリ・ベクレルと同時受賞) 1904年 オリシス賞 1907年 アクトニアン賞 1911年 ノーベル化学賞 1921年 エレン・リシャール賞 1924年 1923年度アルジャントゥイユ侯爵大賞 1931年 キャメロン賞 ・受賞メダル 1903年 ベルトロー賞メダル、パリ市名誉賞メダル、デービーメダル(ピエールとともに) 1904年 マテウチメダル(ピエールとともに) 1908年 クーマン賞大金メダル 1909年 エリオット・クレッソンメダル 1910年 アルパート賞メダル 1919年 スペイン・アルフォンソ12世文官勲章大十字勲章 1921年 ベンジャミン・フランクリン賞メダル、ジャン・スコット賞メダル、国立社会科学学会賞金メダル、ウィリアム・ギブス賞メダル 1922年 北アメリカ放射線学協会金メダル 1924年 ルーマニア政府第一級功労賞メダル 1929年 ニューヨーク婦人クラブ連合会金メダル 1931年 アメリカ放射線学会金メダル ・称号 在命中だけでも、マリの各国の科学アカデミー名誉会員など受けた称号は100を超える・・・ ・栄誉辞退 マリ・キュリーは、1902年に夫とともに、1910年に単独で、フランスからレジオンドヌール勲章を贈られるが、どちらも辞退 マリ・キュリーの周囲をめぐる名前 ・原子番号96のキュリウムは、キュリー夫妻から ・鉱物のキュリー石、スクロドフスカ石、銅スクロドフスカ石は、彼女の名前に由来 ・ポロニウムは、祖国ポーランドから 他に、肖像がお金、切手などに使われたり、名前が偉大な科学者として挙げられたリ、機関、団体名、大学などに多く使われる キュリー夫人伝 キュリー夫人の伝記 著者はキュリー夫人の次女 評価 マリ・キュリーは、女性初のノーベル賞受賞者で、かつ初の2度のノーベル賞受賞者 物理学賞と化学賞の両方を受賞した唯一の人物(2017年10月28日現在) マリ・キュリーは、恋多き女性で、夫がいたにもかかわらず、研究室で若い男性研究員と恋仲になり、不倫をしていた 不倫はいけないと思いますが、この不倫も研究のエネルギーとなったのかも・・・ 前述のように、当時は、放射能被爆の知識がなく、放射能被爆対策がとられておらず、放射能被爆によりマリ自身も様々な病気に・・・ 鉱物から目的の元素を精製するのは、大量の鉱物が必要で、長時間に渡り、重い鉱物を精製し、苛酷で重労働な作業だった 苦学生から2度のノーベル賞に輝いたキュリー夫人の生涯は「キュリー夫人伝」「キュリー夫人−はじめてノーベル賞をとった女性科学者」で知ることが出来ます 「リケジョ」(理系女子)のはしり、先駆者、先駆け □キュリー夫人を知るおすすめ作品 |
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