ホームへ戻る
日本の競馬マスター----------------------------------------------------------
日本の競馬を築いた生産者、馬主、調教師、騎手、競走馬、種牡馬などを紹介します。
ここでは、彼らのことを「マスター=達人」と呼ぶことにします。
(文中敬称略)
MASTER003
--------------------------------------------------------------------------
■騎手 福永洋一(天才、変幻自在の騎乗、オッズを変える男)
5086戦982勝 勝率0.193 連対率0.345
福永洋一は、1948年、高知県生まれ。名門・武田文吾厩舎所属。
1968年から1979年まで騎乗。
1979年3月4日の毎日杯のレース中に落馬、引退を余儀なくされました。
一時期は危篤となり、懸命の治療で一命をとりとめ、現在もリハビリを続けているそうです。
1970年から落馬事故となる前年の1978年まで9年連続リーディングジョッキー、1971年から1978年まで年間100勝以上で、落馬事故の前々年の1977年には、JRAの年間最多勝記録を更新(126勝)、さらに落馬事故の前年には、自らの年間最多勝記録を更新(131勝)しています。
まさに絶頂のさなかの事故だったのです。
(なお、現在、子息が同じJRAの騎手として活躍しています。)
福永洋一は、関東の名手・岡部幸雄、柴田政人と同期で、「花の15期生」と呼ばれていましたが、その中にあっても、福永洋一は、ダントツの戦績と光を放っていました。
福永洋一のエピソードをいくつか紹介します。
福永洋一が「天才」と呼ばれるきっかけとなったレースが、1971年の菊花賞でニホンピロムーテーでの騎乗です。それまで後方から追い込む競馬をしていたニホンピロムーテーで弱冠22歳の福永洋一は、レースがスローであることから、突如逃げの競馬をしたのです。
そして、まんまと逃げ切ってしまいます。
福永洋一が好きな馬にあげていたエリモジョージは、稀代のクセ馬で「気まぐれジョージ」といわれていました。
1976年、天皇賞・春、不良馬場の中、12番人気のエリモジョージは、逃げ切ってしまいます。
さすがの天才・福永洋一も常に「気まぐれジョージ」を掌握とはいかなかったようですが、この天皇賞・春の逃げ粘りと2年後の宝塚記念の圧勝は、福永洋一でなければ、なし得なかったと思います。
「気まぐれジョージ」を巧みに操った福永洋一の好騎乗ぶりがうかがえるレースでした。
福永洋一の「凄み」を感じさせる騎乗が、1977年の皐月賞のハードバージでの騎乗です。直線で内埒のわずかの隙間いっぱいを鋭く追い込んだ福永洋一騎乗のハードバージは、伊藤正徳騎乗のラッキールーラを差し切って勝ちました。
敗れた伊藤正徳は、「馬が埒を走ってきたのか」(凄い!!)と思ったそうです。
福永洋一の技術と勝負への執念が感じられます。
福永洋一は、いわゆる「走らない馬」でも走らせたといわれます。他の騎手が乗っても走らない馬を福永洋一が乗るとなぜか走ったといいます。
その理由は、名手といわれた田原成貴、的場均らも「わからなかった」という主旨の発言を異口同音にしています。
しかし、とにかく「走った」のです。
「馬券が分からなければ(福永)洋一から買え」といわれたといいます。
そのため、福永洋一騎乗の馬は人気となり、他の騎手が乗る時よりもオッズ(馬券の倍率)が下がるため、「オッズを変える男」といわれました。
福永洋一の騎乗は、臨機応変、柔軟性に富んでいました。逃げ、先行、差し、追い込みとまさに「変幻自在の騎乗」で勝利を重ねていったのです。
そして、「歩く競馬四季報」とよばれるほど競馬に取り組む人一倍の研究熱心さをもつ努力家でもあったといわれます。
福永洋一は、走らない馬でも走らせ、変幻自在の騎乗と人一倍の研究熱心さがあったからこそ、リーディングジョッキーに君臨し続け、「天才」と呼ばれたのだと思います。
競馬の殿堂(顕彰馬・顕彰者)の調教師と騎手の顕彰者選考基準で、調教師が「中央競馬における通算勝利数が1000勝以上・・・」と明記されているのに対し、騎手は「通算勝利数が概ね1000勝以上・・・」と幅を持たせているのは、通算勝利数が983勝であった福永洋一の存在があったからだと思います。
--------------------------------------------------------------------------
■競走馬 エルコンドルパサー(世界最高峰に最も近づいたコンドルの翼)
エルコンドルパサーは、1995年、アメリカ生まれ、父キングマンボ母サドラーズギャル(父サドラーズウェルズ)、2〜4歳時11戦8勝、サンクルー大賞典、ジャパンカップ優勝、凱旋門賞2着。
アメリカで生まれ、日本へ輸入されたため、エルコンドルパサーには、クラシック3冠(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)に出る権利がありませんでした。(現在は、規制緩和で出走権が与えられています)
世界制覇へ挑んだ軌跡を追ってみます。
1997年(2歳)・・・・・・・・・・
デビュー戦、ダート1600メートルを楽勝します。
1998年(3歳)・・・・・・・・・・
年明けの条件戦、ダート1800メートルを楽勝し、初の重賞・共同通信杯に挑みます。しかし、芝1800メートルで行われるはずの共同通信杯は、雪と大雨の影響で、ダート1600メートルに変更となってしまいます。
レースは楽勝だったものの、エルコンドルパサーの芝適正は、次のニュージーランドトロフィーまでお預けとなりました。
同期に同じアメリカ生まれで日本へ輸入され、2歳王者となった怪物的強さのグラスワンダーがおり、エルコンドルパサーとの対決が期待されましたが、グラスワンダーは、骨折で戦線を離脱してしまいます。
グラスワンダーのいないニュージーランドトロフィーを楽勝、春の大目標・NHK杯マイルも危なげなく勝ったエルコンドルパサーは、秋に備え休養に入ります。
秋緒戦・毎日王冠は、初の古馬(4歳以上)との対決、そして、骨折から復活した怪物・グラスワンダーとの無敗同士の初対決で話題を集めました。レースは、宝塚記念を勝った快速・サイレンススズカの逃げ切り勝ちとなり、エルコンドルパサーは2着、グラスワンダーは5着でした。
エルコンドルパサーは、次に世界の強豪が集まるジャパンカップに挑みます。ここで女帝・エアグルーヴ、同期の日本ダービー馬・スペシャルウィーク以下に楽勝したエルコンドルパサーは、日本競馬の頂点に立ちました。
(ちなみに毎日王冠でエルコンドルパサーに先着したサイレンススズカは、次走の天皇賞・秋でレース中に故障し、その命に終止符をうってしまいました)
1999年(4歳)・・・・・・・・・・
エルコンドルパサーは、ヨーロッパ遠征へ飛びます。フランスに滞在し、世界最高峰レースの一つ・凱旋門賞に挑むことになります。
フランスでの緒戦・イスパーン賞でクロコルージュの2着に惜敗。
しかし、次のサンクルー大賞典でタイガーヒル以下に快勝しました。
そして、凱旋門賞の前哨戦・フォア賞で、ボルジア、クロコルージュ以下に快勝しました。
エルコンドルパサーは、仏ダービーなどを勝ったモンジューとともに凱旋門賞の最有力候補となっていました。
凱旋門賞当日は、雨の影響で泥んこの不良馬場となってしまいますが、エルコンドルパサーは、果敢に逃げ、モンジューにわずか半馬身の2着と粘りました。世界制覇にあと1歩の惜しい敗戦でした。
エルコンドルパサーは、凱旋門賞を最後に引退。引退式は、帰国したジャパンカップ当日の東京競馬場で行われました。
そして、フランスでの活躍が評価され、この年の年度代表馬となりました。
競走馬引退後・・・・・・・・・・
種牡馬としても期待されましたが、2002年、わずか3世代の産駒を残し、急死。早すぎる死が惜しまれます。
エルコンドルパサーは、いろいろな意味で、エポックメイキングな名馬です。
自ら競馬関係者の評価を打ち破る・・・・・・・・・・
・デビューから3戦までは、「強いダート馬」の評価をされていました。
・ニュージーランドトロフィー、NHKマイルを制覇し、芝への適正を証明すると、「芝も強いマイラー(1600メートルを適正距離とする馬)」といわれました。
・毎日王冠に臨む時にエルコンドルパサーとグラスワンダーの主戦騎手が的場均で、的場均は、グラスワンダーを選びました。(レース結果は、1着サイレンススズカ、2着エルコンドルパサー、5着グラスワンダー)
※的場均の選択を批評するものではなく、選択した結果のみを紹介しています。
・ジャパンカップに挑む時に、エルコンドルパサーは、「マイラーだから(ジャパンカップの)2400メートルは距離が長すぎる」といわれました。
そして、ヨーロッパ遠征、凱旋門賞への挑戦も過去の日本馬の大敗の歴史から疑問視されたといわれます。
しかし、エルコンドルパサーは自らの力で競馬関係者の評価を覆してきました。
年度代表馬論争・・・・・・・・・・
1999年の年度代表馬に選ばれたエルコンドルパサーですが、この選考について、いろいろな論議が巻き起こりました。
「年度代表馬選考」
JRA(日本中央競馬会)の年度代表馬選考の投票は、1位・スペシャルウィーク、2位・エルコンドルパサー、3位・グラスワンダーという結果でしたが、スペシャルウィークが過半数に達していなかったために、スペシャルウィークとエルコンドルパサーの決戦投票となり、その結果、エルコンドルパサーが年度代表馬となりました。
しかし、この結果は大きな波紋となって広がりました。選考の上位3頭をめぐって・・・
エルコンドルパサーは、1年間フランスに滞在し、フランスでレースをし、日本(JRA)の競馬に1戦も出走していない
スペシャルウィークは、ジャパンカップ、天皇賞・春、天皇賞・秋を制し、年間を通じて日本(JRA)の競馬で活躍した
グラスワンダーは、スペシャルウィークに2戦2勝(有馬記念、宝塚記念)である
このことは、世界の競馬に挑戦し活躍したエルコンドルパサーを評価するのか、日本の競馬で最も活躍したスペシャルウィークを評価するのか、そのスペシャルウィークに直接対決で勝っているグラスワンダーを評価するのかということです。
この波紋のひとつは、エルコンドルパサーのフランスでの活躍がなければ起こりえなかったことで、「日本の競馬国際化」を考える契機となりました。
日本競馬史上最強馬とは・・・・・・・・・・
エルコンドルパサーのサンクルー大賞典とジャパンカップ優勝、凱旋門賞2着という戦績は、日本競馬最強馬の1頭に評価される価値があると思います。
実際にヨーロッパでの評価は過去の日本馬としては最高です。
しかし、日本での評価は、戦績よりも低い感じがします。
おそらく以下の理由からと思われます。
日本でのエルコンドルパサーのチャンピオンホースとしてのパフォーマンスがジャパンカップの1戦のみである
日本でエルコンドルパサーが走ったレースが関東だけであったため、関西では、なじみが薄かった
そして、エルコンドルパサーの最大のパフォーマンスである世界最高峰のレースの一つ・凱旋門賞での2着が日本国内ではなかった
「3強」のライバル・スペシャルウィーク、グラスワンダーと各々1戦しかしていない
このことは、エルコンドルパサーが過去の日本のいかなる名馬とも違う規格外のパフォーマンス(凱旋門賞2着)を成し遂げた、ある意味で代償であったかもしれません。
最強世代・・・・・・・・・・
エルコンドルパサーの世代は、上記に挙げたスペシャルウィーク、グラスワンダーというチャンピオンクラスがいました。
世代がずれていれば、各々が世代の最強馬として君臨していたでしょう。
エルコンドルパサーは、それぞれ1戦のみながらスペシャルウィーク(ジャパンカップ、1着エルコンドルパサー、3着スペシャルウィーク)、グラスワンダー(毎日王冠、2着エルコンドルパサー、5着)に先着しています。
それにしても豪華な「3強」ですね。
エルコンドルパサーに先着した馬・・・・・・・・・
日本馬で唯一エルコンドルパサーに先着したサイレンススズカの毎日王冠でのパフォーマンスは圧巻でした。宝塚記念も勝っており、稀代の快速馬として語り継がれるでしょう。
天皇賞・秋での不幸(レース中に故障し、その命を絶たれた)がなければ、エルコンドルパサーとのジャパンカップでの再戦もあっただけに残念です。
実現していたら、私の主観ながら、距離適正でエルコンドルパサーが雪辱していた可能性があったと思うのですが。
フランスでの緒戦、イスパーン賞でエルコンドルパサーに先着したクロコルージュは、他にリュパン賞も勝ち、仏ダービー2着した強豪です。
エルコンドルパサーは、その後、フォア賞、凱旋門賞でクロコルージュに先着しています。
凱旋門賞でエルコンドルパサーに先着したモンジューは、仏ダービー、愛ダービー、キングジョージY&クイーンエリザベスステークスなどを制した名馬です。
凱旋門賞の後、ジャパンカップに参戦しスペシャルウィークの4着に敗れています。
エルコンドルパサーは、芝、ダート、距離、馬場状態、環境の変化とあらゆる条件に適応しました。
異論があることを承知で、エルコンドルパサーは、日本競馬史上最強馬に列せられると思います。世界最高峰のレースの一つ・凱旋門賞2着のパフォーマンスは、過去のいかなる名馬もなし得なかった偉業です。
そして、この偉業に対しては、異論がほとんどないと思います。
欧米の大レースで勝ち負けすることの難しさは、歴史が証明しています。
--------------------------------------------------------------------------
当ホームページの内容は、私の知識と記憶をベースに、各種の参考資料で内容の肉付けと裏付けを行い、作成しました。お問い合わせは、メールにてお願いします。
(文中敬称略)
←ホームへ戻る
|