中村誠 |
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■中村誠■空手(極真)■世界大会2連覇の重戦車 □中村誠を知るおすすめ作品 中村誠(なかむら・まこと) 1952年(昭和27年)6月20日− 身長183センチ、体重120キロ 中村誠は、極真空手の世界大会において2連覇しています。 そのため、中村誠は「KING OF KYOKUSHIN」ともいわれています。 極真会館の関西地区本部長兼兵庫・大阪南支部長。 極真会館(松井派)を離れ、国際空手道連盟極真会館中村誠道場総帥 ■履歴 中村誠は、幼少期より極真空手に入門します。 1977年(昭和52)4月にハワイで、極真空手の「日本代表対ハワイ代表」の対抗戦がありました。 日本代表は、中村誠の他に、東孝、俳優の千葉真一なども参戦しました。 この対抗戦で、中村誠は、対戦相手をパンチで2メートル飛ばし、その存在を注目されます。 その年の第9回全日本選手権で3位入賞をします。(全日本は初出場) 翌年の1978年(昭和53)の第9回全日本選手権も3位入賞します。 しかし、期待の大きかった大山倍達(当時の極真会館館長)は、3位入賞に満足せず、中村誠を当時の最高師範だった大山茂の下に武者修行に出します。 大山茂の下で武者修行をした中村誠・・・ 1979年(昭和54)5月の第11回全日本選手権で初優勝をします。 (決勝の対戦相手は三瓶啓二) その年の8月に百人組手に挑戦しますが、35人で断念しています。 同じ年の11月に第2回世界大会が行われ、この大会で優勝し、世界王者となっています。 (決勝の対戦相手は三瓶啓二) 翌年の1980年(昭和55)の第12回全日本選手権と続く年の1981年(昭和56)の第13回全日本選手権は、決勝で三瓶啓二に体重と試し割り判定で敗れ、準優勝となっています。 三瓶啓二との相次ぐ熱戦で、「三誠時代」といわれました。 中村誠は、大きな体格から「重戦車」といわれました。 一方で、1981年(昭和56)に、大山倍達の許可を得て、兵庫県支部を開設し、支部長となり、芦屋に最初の道場を開設、発足から2年後に、尼崎市に道場を開設しました。 1982年(昭和57年)の第14回全日本選手権での4回戦で、アデミール・ダ・コスタに判定で敗れます。 第14回全日本選手権後に引退を表明し、1983年(昭和58年)の第15回全日本選手権は出場せず、指導者に専念しだし、結婚式を挙げ、このまま引退と思われました。 しかし、結婚式で大山倍達から出場の進言、推薦もあり、1984年(昭和54)の第3回世界大会に出場します。 この第3回世界大会で、中村誠は優勝、世界大会連覇の偉業を達成します。 第3回世界大会を制し、選手を引退した中村誠は、指導者として、多くの弟子を育成しています。 中村誠は、体格からパワー空手だけと思われがちだが、なかなか器用で、あらゆるテクニックやコンビネーションの併せ持ちます。 人間性は、組手同様に、豪快さの中に繊細さを併せ持ち、周囲を魅了しています。 また食事の量も半端でなく、食べ放題の店をいくつか潰しているとも・・・ 第2回世界大会優勝後に、プロレスからの勧誘もあったようですが、断っています。 阪神・淡路大震災での復興作業優先で、極真会館の分裂騒動には巻き込まれず、大山倍達から「不満もあるだろうが、松井章圭を応援してほしい」との主旨もいわれたようで、松井圭章を館長とする極真会館に残りました。 酒席で、「垂木切り」で知られる中村日出夫氏と関係のある空手家の倉本成春ともめたともいわれています。 (真偽や詳細は詳しくわかりませんが、この「場外戦」で、中村誠は打ち負かされたとも・・・) 極真の世界大会は、極真の大会としては最高峰で、その大会で連覇をしている中村誠は、すごいと思います。 中村誠の現役は、引退となった最後の大会である第3回世界大会で「生」で見ましたが、当時は体格の大きな選手という印象だけ強かったですが、あとで世界大会連覇などの偉業を考えると、すごい選手だったのだなと思います。 前述のように、その後、極真会館(松井派)を離れ、国際空手道連盟極真会館中村誠道場の総帥に・・・ □中村誠を知るおすすめ作品 |
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