ピカソ |
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■ピカソ■画家・素描家・彫刻家■変化し挑戦し続けた芸術の巨人 □ピカソを知るおすすめ作品 変化し挑戦し続けた芸術の巨人 ■概要 パブロ・ピカソ 1881年10月25日−1973年4月8日 もっと知りたいピカソ改訂版(アート・ビギナーズ・コレクション) スペインで生まれ、フランスで活動した画家、素描家、彫刻家 「ジョルジュ・ブラック」(注1)とともに、「キュビスム」(注2)の創始者として知られる 生涯におよそ1万3400点の油絵と素描、10万点の版画、3万4000点の挿絵、300点の彫刻と陶器を製作し、最も多作な芸術家として「ギネスブック」に記載 (注1) ジョルジュ・ブラック フランスの画家、ピカソとともにキュビズムの創始者の一人 (注2) キュビスム いろいろな角度から見た形を一つの画面に収める フルネームは「パブロ・ディエゴ・ホセ・フランシスコ・デ・パウラ・ホアン・ネポセーノ・マリア・デ・ロス・レメディオス・シプリアノ・デ・ラ・サンティッシマ・トリニダット・ルイス・イ・ピカソ」 一般的には長すぎるのでパブロ・ピカソで知られる ピカソは多作であり、最も知られた芸術家の一人です。 アバンギャルドな作風で知られていますが、作品を見たことはあっても、その作品をじっくり観察したことは少ないかも デッサンが上手く、最初期は写実的でいわゆる「画力」のある作品を描いていたピカソ その後、作風は目まぐるしく変わる 彼の作品は「もっと知りたいピカソ改訂版(アート・ビギナーズ・コレクション)」で知ることが出来ます ■生誕から死去までのミニ略史 ピカソは、1881年10月25日にマラガ市に生まれる 1891年、ラ・コルーニャに移住 1892年、ラ・コルーニャの美術学校に入学 1895年、バルセロナに移住・・・美術学校に入学 1897年、マドリードの国展で佳作を受賞 同年秋に、マドリードの王立の美術アカデミーに入学するも中退 1894年、春猩紅熱にかかりオルタ・デ・エブロで療養 1899年、バルセロナに戻る 1900年、パリへ 1901年、「青の時代」始まる 1905年、「ばら色の時代」又は「桃色の時代」始まる(〜1907年) 1907年、「アピニヨンの娘たち」制作 1911年9月、ルーヴル美術館にある「モナ・リザ」が盗まれ、容疑者として逮捕も1週間後に釈放 1912年、モンパルナスへ移る 1918年、オルガと結婚 1921年、息子パウロ誕生 1935年、娘マハ誕生 1937年、「ゲルニカ」制作 1947年、息子クロード誕生 1949年、娘パロマ誕生 1961年、ジャクリーヌと結婚 1973年4月8日死去 ■作風 ピカソは、作風を目まぐるしく変化させた (一般的にに○○の時代と呼ぶ) 「青の時代」(1901年〜1904年) 「ばら色の時代」(1904年〜1907年) 「アフリカ彫刻の時代」(1907年〜1908年) 「セザンヌ的キュビスムの時代」(1909年) 「分析的キュビスムの時代」(1909年〜1912年) 「総合的キュビスムの時代」(1912年〜1918年) 「新古典主義の時代」(1918年〜1925年) 「シュルレアリスム(超現実主義)の時代(1925年〜1936年) 「ゲルニカの時代」(19737年) 「晩年の時代」(1968年〜1973年) ■私生活 ピカソは、仕事をしているとき以外は、一人でいることが出来なかった ・多くの人との交流あり ・女性についても、正式な妻以外に多くの愛人を作り、2回結婚し、3人との女性の間に4人の子供 ■評価 ピカソは、多作で知られる芸術家であり、作風を変化し挑戦し続けた 20世紀最高の芸術家であり、作品の評価、価格なども高い いわゆるアバンギャルドな作風で知られているが、アバンギャルドな作風になる前の作品は描写が細かく写実的だった いわゆる「デッサンや絵画の上手い画家」 カメラや写真に対抗するため立体的描写・多角的角度から見たものを一つの画面に収めるキュビスムなどを考え創造したとされる 個人的には大作「ゲルニカ」はピカソの最高傑作の一つ □ピカソを知るおすすめ作品 |
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