田淵幸一 |
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■田淵幸一■野球選手■王の連続本塁打王を阻止 右投右打 身長186センチ、体重90キロ 1946年9月24日− 田淵幸一(たぶち・こういち)は、1975年には長く続いた王貞治の本塁打王独占(13年連続)を止めました。 現役時代は、阪神の主砲、3代目ミスタータイガースとも 1979年に移籍した西武では、2年連続日本一に貢献 「ホームランアーチスト」として活躍 現役引退後は、ダイエー監督、阪神・楽天のコーチ、また北京五輪野球日本代表のヘッドコーチ兼打撃コーチ ■履歴 ▼プロ入り前 中学在学中に野球を始める 法政大第一高校に進学 高校時代に甲子園出場ならず 法大経済学部進学 1965年、1年春からリーグ戦に出場し、同年にマニラで開催された第6回アジア野球炎主権大会日本代表に選出され、日本の優勝に貢献 この時は、レギュラーでなかったが、2年後の同大会では、中心打者として完全優勝に貢献 在学中3度のリーグ優勝 リーグ戦通算97試合出場、342打数34安打、打率2割7分5厘、78打点で、3度ベストナインに選出 (4年秋は、ベストナイン特別賞) 山本浩二(当時は浩司)、富田勝とともに、「法大三羽烏」と呼ばれ、3年春にそれまでの長嶋茂雄の本塁打リーグ通算記録の8本を更新し、結局22本塁打まで記録を伸ばした (1997年に慶大(後にプロ野球・巨人)の高橋由伸に23本塁打で更新される) 1968年のドラフトは、巨人入りが有力だったが、阪神にドラフト1位指名され、阪神入団 ▼プロ 阪神入りした田淵は、強肩、強打の捕手として1年目の1969年からレギュラーに定着し、22本塁打を放ち、捕手として初の新人王を受賞 2年目の1970年に頭部に死球を受け、病院に緊急搬送 これがきっかけで、ヘルメットの耳あてが誕生 この時のケガは、「田淵の体質が変わった」ほどで、スマートな体形がどんどん太り始めたといわれる 1972年に34本塁打を記録 江夏豊とは、「黄金バッテリー」と呼ばれた 1975年に、1974年まで13年連続本塁打王の王貞治の連続本塁打王をを阻止 43本塁打で本塁打王を獲得 (この年の王貞治は33本塁打) 1979年に西武移籍 西武で体を鍛えなおし、1980年に一塁手に転向し、指名打者として40本塁打を放ち活躍 1982年・1983年はチームの日本一に貢献 1983年はシーズン途中まで本塁打数で大幅リードしたが、死球を受け、左手首骨折、本塁打王ならず 1984年に現役引退 ▼現役引退後 引退後の1985年から5年間解説者 1990年にダイエーの監督 1993年に解任 1993年から2001年まで解説者 2001年12月20日、親友の星野仙一の阪神監督就任に伴い、阪神のチーフ打撃コーチ 2003年のリーグ優勝に貢献 2003年オフに星野仙一が健康上の理由で勇退すると、田淵も退団 2004年に解説者 2007年1月20日に、星野仙一が北京五輪野球日本代表監督に就任すると、田淵は同ヘッドコーチ兼打撃コーチ 北京五輪は4位 2009年秋に、阪神OB会第6代会長に就任するも、1年で辞任 2001年から星野仙一が楽天監督に就任し、同ヘッド兼打撃コーチ しかし極度のチームの打撃不振から打撃コーチ解任、ヘッドコーチ専任に 翌2012年もヘッドコーチを務めたが、同年シーズン終了で解任 2013年から解説者・評論家 ■プレースタイル 飛距離の長さ・大きな放物線の軌道の美しさなどから「ホームランアーチスト」の異名 (アーチとアーティストをかけた造語) 通算474本塁打は、歴代11位(2017年シーズン途中現在)だが、特筆すべきは、四球を選ぶ選球眼にも関係する(四球は打数に含まれない)が、本塁打1本を打つのに要する打数の少なさで本塁打率(本塁打1本をを打つのに要する打数=打数÷本塁打)が王貞治に次ぐ歴代2位の少なさ (本塁打率は、王が10.66、田淵が12.41) 特に1983年は故障で83試合しか出場していないのに30本塁打で、「規定打席未到達で30本塁打」を記録したプロ野球初の選手 この記録は2012年シーズン終了現在で田淵を含め6人が記録しているが、田淵以外は外国人選手 太ってからは信じられないが、太る前はスマートで足も俊足だった 江夏豊は、田淵の打撃(特に本塁打を打つこと)の天才ぶりを絶賛しており、野村克也、広岡達郎なども同内容のコメントをしている 田淵は外角球に強く長打力があったが、左腕の方が3センチ長いのも影響しているといわれる (普通、利き腕(田淵の場合右腕)の方が長い) この身体的特徴は、死球やケガの多さに関係しているかもしれません (死球をよけづらいなど) 長打力のある打者は三振が多いとされるが、田淵はシーズン100三振を記録したことがなく、公式戦の犠打もゼロ 日本球界で通算400本塁打以上打ち、2000安打を記録していないのは、山崎武志とタフィ・ローズと田淵のみ 守備も若い頃は俊敏で肩も強肩だったが、太りだしてから緩慢になった 捕手として大成できなかったのは、度重なるケガと大らかで大雑把な性格にあるといわれる 監督に不向きとされるのもこの性格が影響しているとされる 野村克也も同様の見解 ■背番号22 東京六大学の通算本塁打数、新人の年の本塁打数が22 ■親友 山本浩二、星野仙一は親友 打撃成績・・・ 16年、1739試合、5881打数1532安打、打率2割6分0厘、474本塁打、1135打点、972三振、823四球、128死球 新人王(1969年)、本塁打王1回 ベストナイン5回 ダイヤモンドグラブ賞2回 野球殿堂入り(日本)(2020年) ホームランアーチストの美学と力学 「ホームランアーチスト」田淵幸一の美学・哲学 監督成績・・・ 3年、390試合、151勝230敗9分、3割9分6厘 |
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