張本勲 |
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■張本勲■野球選手■3000本安打 左投左打 身長181センチ、体重85キロ 1940年6月19日− 張本勲(はりもと・いさお)は、日本プロ野球最多の3000本安打(通算では3085本)を達成しました。 「広角打法の安打製造機」ともいわれた打撃の名人 「攻・守・走」の3拍子とよくいわれるが、「攻」の打撃が名人で、前述のように多くの安打を打ち、7回の首位打者になったうえに、504本塁打と長打力も備え、「走」では、足も速く、通算で319盗塁を記録しており、後は「守」で、守備が上手ければ・・・いわゆる3拍子揃った選手だったが、守備は上手いとはいえません。 守備が上手くないのは、幼い頃の右手の大怪我の影響があるかもしれません。 (個人的には、大怪我の影響は大いにあると思います・・・大怪我で機能に問題の残る後遺症があり、大怪我が無ければ、名手になっていたかはわかりませんが、普通の守備力はあったと思われます) まだ頭角を現していないときの落合博満の打撃が多くの人に酷評される中で、張本は落合の打撃を絶賛しており、結果的に張本の目が正しかったことが、落合の後の活躍で証明されます。 □張本勲を知るおすすめ作品 ■履歴 ▼中学時代まで 張本勲は、1940年6月19日に広島で生まれます。 在日韓国人二世であり、本名は張勲(チャン・フン)です。 幼くし、右手を大怪我し、その影響で、野球では、(小5で野球を始める・・・)右投げ左打ちから左投げ左打ちになります。 子供の頃から身体が大きく、ガキ大将で、ケンカと野球に明け暮れた中学時代を過ごします。 ▼高校時代 野球では無名の松本商業高(現・瀬戸内高)定時制に進学 しかし、甲子園への夢もあり、浪華商業高校(浪華高を経て現・大体大浪商)へ転校 2年の頃から活躍し、その名が知られ、多くのスカウト合戦の中、東映フライヤーズに入団 ▼現役時代 1年目から活躍し、13本塁打で新人王 2年目は打率3割を打ち 3年目には首位打者になります。 合計で7回の首位打者となり、パ・リーグを代表する打者となります。 1970年の打率3割8分3厘4毛は大下弘(参照)のプロ野球記録の打率3割8分3厘1毛を上回る当時のシーズンプロ野球記録(現在=2015年8月15日現在は、ランディ・バース(参照)の3割8分9厘)、首位打者7回もイチローと並ぶプロ野球記録です。 1973年後期からチームは、日拓ホームフライヤーズへ 1974年にチームは、日本ハムファイターズへ 1976年に巨人へ移籍 1976年・1977年と高打率で首位打者を争いますが、2年連続打率2位でした。 張本はチームのリーグ優勝2回(1976年・1977年)にも貢献します。 王貞治とのコンビは「OH砲」といわれます。 1980年にロッテに移籍 この年、3000本安打達成 1981年に現役を引退しています。 ▼現役引退後 個人的に思うのですが、プロ野球記録の3000本安打を記録している張本勲が永久欠番でないのはおかしいと思います。 1990年、野球殿堂入り(日本)(1990年) テレビやラジオ、スポーツ紙などで野球解説をしています。 (参照) 大下弘 左投左打 身長173センチ、体重70キロ 1922年12月15日−1979年5月23日 外野手、投手 兵庫県出身・・・ 戦後のプロ野球に「本塁打ブーム」を作りました。 戦後のプロ野球の国民的スターの一人・・・ 最初は投手で入団しましたが、後に打者に転向・・・ 外野手・・・ 「青バット」や本塁打が高い弾道で当時としてはポン、ポン連発することから「ポンちゃん」などといわれました。 1年目は本塁打王で長打力はあるが確実性はありませんでしたが、、2年目には首位打者と本塁打王を獲得し確実性も備えました・・・ 天才打者として知られ、三原脩(参照)がプロ野球で天才を一人選ぶとしたら大下弘といったそうです。 シーズン打率3割8分3厘1毛のプロ野球記録は、張本勲に更新(張本は3割8分3厘4毛)(現在=2015年8月29日現在のプロ野球記録は、ランディ・バースの3割8分9厘)されたが、1試合(7打数)7安打はプロ野球記録(2015年8月29日現在)・・・ 西鉄3連覇などの中心打者・・・ 1959年に現役引退・・・ 引退後は、監督(シーズン途中解任)、コーチなどを務める その後は少年野球の指導者や女子野球チームの指導者・・・ 死後の1980年、野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算14年、1574試合、5500打数1667安打、201本塁打、861打点、終身打率3割0分3厘 投手成績 通算2年、0勝2敗、22回2/3、9奪三振、防御率4.70 監督成績 通算1年、東映の監督を1968年に務めるが、シーズン途中で成績不振で解任・・・ 首位打者3回(1947年・1950年・1951年) 本塁打王3回(1946年・1947年・1951年) MVP1回(1954年) ベストナイン8回(1947年、1949年ー1954年、1957年) 日本シリーズMVP1回(1957年) オールスターMVP1回(1957年第1戦) 野球殿堂入り(日本)(1980年) 1試合7安打 サイクル安打1回(1954年7月15日 阪急戦) (注)赤太字はプロ野球記録 (参照) ランディ・バース 左投左打 身長184センチ、体重95キロ 1954年3月13日− 一塁手、外野手 アメリカ出身 「史上最強の助っ人」ともいわれる・・・ 入団当初は外野手だったが、やがて一塁手に・・・ 2年連続2回の打撃三冠王・・・ 1985年には、所属の阪神の日本一とバースの打撃三冠王(打率3割5分0厘・54本塁打・134打点) 1986年も打撃三冠王(打率3割8分9厘・47本塁打・109打点) この年のシーズン打率3割8分9厘はプロ野球記録・・・ 打撃成績 (大リーグ) 通算6年、130試合、325打数69安打、9本塁打、42打点、終身打率2割1分2厘 (日本プロ野球) 通算6年、614試合、2208打数743安打、202本塁打、486打点、終身打率3割3分7厘 (日本プロ野球) 首位打者2回(1985年・1986年) 本塁打王2回(1985年・1986年) 打点王2回(1985年・1986年) 打撃三冠王 2年連続含む2回 MVP1回(1985年) ベストナイン3回(1985年−1987年) 日本シリーズMVP1回(1985年) シーズン打率3割8分9厘 (赤太字はプロ野球記録) (参照) 三原脩 身長168センチ、体重64キロ 1911年11月21日−1984年2月6日 二塁手 香川県出身 「魔術師」とも「知将」ともいわれた名監督・・・ 巨人の総監督退任までの表記は三原修 早大のスターとして活躍し、大学を中退し、1934年に契約1号で、大日本東京野球倶楽部(後の巨人)に入団・・・ 選手としてはわずかの期間で現役引退・・・ 選手より監督として有名ですね・・・ アテ馬(偵察メンバー)やワンポイントリリーフなどを使ったり、「スミ1」などの言葉の考案者といわれています・・・ 三原采配の特徴の一例・・・ 日本シリーズは偶数戦を重視した 流線型打線(超攻撃的な二番打者に強打者を配置) 超二流(一流ではないが、一芸に秀でた選手を重用) 「野球は筋書きのないドラマ」 「まだ首の皮一枚つながっている」 上記の言葉は三原脩の名言といわれます・・・ 監督退任後は日本ハム球団社長→相談役・・・ 1983年、野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算3年、109試合、407打数92安打、0本塁打、40打点、終身打率2割2分6厘 □監督としての成績 1947年から1949年、巨人監督(1950年から総監督に・・・) 1951年から1959年、西鉄監督 1960年から1967年、大洋監督 1968年から1970年、近鉄監督 1971年から1973年、ヤクルト監督 1リーグ時代に巨人で1949年優勝 パ・リーグの西鉄で1954年・1956年−1958年リーグ優勝、1956年−1958年日本一 セ・リーグの大洋で1960年リーグ優勝、1960年日本一 特に1958年の3連敗4連勝の逆転日本一は有名・・・ 野球殿堂入り(日本)(1983年) ■年度別打撃成績
(注)年度の黒太字はリーグ1位 (注)年度と通算の赤太字はプロ野球記録 (注)四死球は、四球数・死球数 ※1 66四球・10死球 ※2 1274四球・78死球 ■打撃 □主なタイトル 首位打者4年連続含む7回(1961年・1967年−1970年・1972年・1974年、プロ野球タイ) □主な野球表彰(現役時代) MVP1回(1962年) 新人王(1959年) ベストナイン11年連続含む16回(1960年−1970年、1972年−1974年、1976年・1977年) オールスターMVP3回(1960年第3戦、1962年第2戦、1974年第3戦) □主な記録 通算3085安打 シーズン3割以上 16回(1960年−1962年、1964年、1966年−1974年、1976年・1977年) 最高出塁率9回(1962年・1964年・1967年−1970年、1972年−1974年) オールスター出場18回(1960年−1964年、1966年−1978年)※1965年も選出されるがトラブルで出場辞退 日本シリーズ通算打率3割7分0里(73打数27安打)※70打数以上では史上1位 サイクルヒット:1961年5月7日 近鉄バッファローズ戦 通算猛打賞 251回(日米通算ではイチローが上回る) (注)赤太字はプロ野球記録 □特記事項 野球殿堂入り(日本)(1990年) 張本勲 もう一つの人生 あまり知られていない被爆者としての張本勲の人生 □張本勲を知るおすすめ作品 |
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