野平祐二 |
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野平祐二(のひら・ゆうじ) 千葉県船橋市出身 |
生没年月日・1928年3月20日−2001年8月6日 |
所属団体・日本競馬会→国営競馬→日本中央競馬会 |
所属厩舎・尾形藤吉→野平省三→野平富久 |
騎手通算成績・7279戦1339勝 勝率0.184 連対率0.345 |
主な勝利・桜花賞1回、オークス1回、天皇賞・春3回、有馬記念2回 |
重賞勝利・71勝 |
■コメント |
■野平祐二(祐ちゃん、ミスター競馬) スピードシンボリとのコンビで天皇賞・春の制覇と有馬記念の2連覇を達成しています。 さらにスピードシンボリとは、2度の海外遠征も敢行し、1度目の1967年のアメリカ遠征では、ワシントンDC国際5着、2度目の1969年のヨーロッパ遠征では、キングジョージY&クイーンエリザベスステークス5着、ドーヴィル大賞10着、凱旋門賞着外の結果を残しました。 当時の日本競馬のレベルや環境を考えれば善戦したといえます。 野平祐二騎手は、保田隆芳騎手ととも日本で最初にアメリカンスタイルのあぶみを短くして騎乗する通称「モンキー乗り」をした騎手といわれています。 野平祐二騎手の1339勝は、増沢末夫騎手に破られるまで通算最多勝利記録で、1958年に記録した年間121勝も1977年に福永洋一騎手に破られまでの年間最多勝記録でした。 1975年に騎手を引退し、調教師 引退レースは、同年2月26日の重賞の目黒記念です。 同レースに優勝し、最後の重賞制覇で引退に花を添えました。 ■野平祐二と競馬 野平祐二騎手が騎手だった時代は、「競馬はギャンブル」としてスポーツとしての認知度が低い中、「騎手は魅せる競馬をしなければならない」と語り、海外の競馬を常に意識した時代の先駆者でもありました。 またフェアプレーの騎乗でも知られました。 ただ、勝つだけではなく、「華麗」に「美しく」「フェアプレー」で勝つことをこころがけました。 野平祐二調教師が指導した「中山」組は、岡部幸雄騎手、柴田政人騎手などのように騎乗技術が確かな名騎手なだけではなく、フェアプレーでも知られています。 馬とコミュニケーションをとるために、口笛やシャンソンを口にしたりしました。 こうした一連の行動・言動などは「キザ」ともいわれました。 世界の競馬に精通し、華麗な行動・言動などから、競馬関係者から「ミスター競馬」といわれ、「祐ちゃん」と親しまれました。 ■騎手時代と調教師時代 野平祐二騎手の華麗な現役生活で果たせなかったこととして、3歳牡馬のクラシック3冠(皐月賞、日本ダービー、菊花賞)の制覇があげられます。 騎乗馬に比較的恵まれなかった巡りあわせもありますが、意外な結果です。 しかし、この無念は、調教師となり、管理馬の皇帝・シンボリルドルフでの無敗の3冠達成で晴らされることとなります。 シンボリルドルフの母の父は、かつての騎乗馬・スピードシンボリでした。 調教師としては、3949戦402勝、重賞勝ちが23勝で前述のとおり、シンボルルドルフで3歳牡馬3冠を達成しています。 調教師引退の1年後、2001年逝去。 騎手時代に、1957年、1958年、2年連続リーディングジョッキー。 7279戦1339勝 調教師になってから、「競馬に絶対はないといわれるが、(シンボリ)ルドルフにはあるんです」といった発言も現役時代からの「魅せる競馬」のひとつだったのでしょう。 もちろんシンボリルドルフへの絶対的信頼があったからこそであることはいうまでもありません。 ちなみに、野平は、日本競馬史上最強馬に、戦前に11戦無敗だった変則3冠(日本ダービー、菊花賞、オークス)を勝ったクリフジを挙げています |
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