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リッキー・ヘンダーソン
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■スポーツの超人<海外編>INDEX■■■■■

J・I・ステンマルク マイケル・ジョーダン サチェル・ペイジ タイ・カッブ サイ・ヤング
テッド・ウィリアムズ ベーブ・ルース R・ホーンスビー R・ヘンダーソン
その他−参照2

■リッキー・ヘンダーソン■野球選手■大リーグ史上最高の盗塁男

左投右打

身長約178センチ、体重約88.5キロ

1958年12月25日−

リッキー・ヘンダーソンは「大リーグ(メジャーリーグ)史上最高のリードオフマン」とも「盗塁男」ともいわれます。

大リーグ記録の通算1406盗塁、シーズン130盗塁を記録しています。

まさに「大リーグ史上最高の盗塁男」ですね。

ポジションは外野手です。


リッキー・ヘンダーソンは、通算1406盗塁の大リーグ記録保持者
リッキー・ヘンダーソンの通算1406盗塁は「MLBの不滅の大記録」で確認できます

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■履歴
▼大リーグまで
リッキー・ヘンダーソンことリッキー・ヘンリー・ヘンダーソンは、1958年12月25日にイリノイ州シカゴに生まれました。

出生時の名前は、リッキー・ネルソン・ヘンリーでした。

2歳の時に父が家を離れ、7歳の時に残された家族とカリフォルニア州オークランドへ引っ越します。

12歳の時に、父が交通事故で死去し、母がポール・ヘンダーソンと再婚

名前がリッキー・ヘンリー・ヘンダーソンとなります。

▼大リーグ時代
高校時代は野球以外にもアメフトのRBとして活躍し、全米代表に選ばれますが、アメフトでの大学などからの誘いを全て断り、1976年にオークランド・アスレチックスに入団

3年間マイナーでプレーし、1979年大リーグ昇格

1980年にアメリカン・リーグ記録の100盗塁で盗塁王となり、1980年から1986年まで7年連続盗塁王

その後、1988年−1991年まで4年連続盗塁王と1988年の盗塁王の計12回盗塁王になります。

1982年に、1962年にモーリー・ウィルス(参照)が記録したシーズン104盗塁を上回り、1972年に福本豊(参照)が記録したシーズン106盗塁を更新し、1974年にルー・ブロック(参照)が記録したシーズン118盗塁の大リーグ記録を更新・・・シーズン130盗塁の大リーグ記録

1985年にニューヨーク・ヤンキース移籍

1989年のシーズン途中でオークランド・アスレチックスへ移籍

1991年にルー・ブロックの通算938盗塁の当時の大リーグ記録を更新

1993年シーズン途中でトロント・ブルージェイズ移籍

1993年に、福本豊の通算1066盗塁の「世界記録」を更新

1994年にオークランド・アスレチックス移籍

1996年にサンディエゴ・パドレスに移籍

1997年のシーズン途中でアナハイム・エンゼルス移籍

1998年にオークランド・アスレチックスに移籍

1999年にニューヨーク・ヤンキースに移籍

2000年のシーズン途中からシアトル・マリナーズ移籍

2001年にサンディエゴ・パドレス移籍

2002年にボストン・レッドソックスに移籍

2003年にロサンゼルス・ドジャースに移籍

同年に大リーグに終止符

▼独立リーグ時代
2004年に独立リーグのアトランティクリーグ・ニューアーク・ベアーズ

2005年に独立リーグのゴールデン・ベースボールリーグ・サーフドーグス

▼その後
2006年からメッツの特別インストラクター

2007年にメッツの一塁コーチ

2009年にアメリカ野球殿堂入り

同年にオークランド・アスレチックス時代の背番号「24」が永久欠番に

(参照)
モーリー・ウィルス
右投両打
身長180センチ、体重77キロ
1959年6月6日−
遊撃手、三塁手
アメリカ・ワシントンD.C.出身
1960年代に3回のリーグ優勝、2回のワールドシリーズ制覇をしたロサンゼルス・ドジャースの攻守の要・・・
高校卒業後の1951年にドジャースに入団・・・
マイナー球団を何回か移籍し、ドジャース傘下に戻り、1959年に大リーグ昇格・・・
1960年から1965年まで6年連続盗塁王(50・35・104・40・53・94)・・・
特に1962年はシーズン104盗塁(盗塁死はわずか13回で盗塁成功率89パーセント!!)の当時の大リーグ記録・・・
1967年にピッツバーグ・パイレーツに移籍・・・
1969年にモントリオール・エクスポズに移籍・・・
同年のシーズン途中でロサンゼルス・ドジャースに移籍・・・
1972年に現役引退・・・
1980年から1981年のシーズン途中までシアトル・マリナーズの監督・・・

打撃成績
通算14年、1942試合、7588打数2134安打、20本塁打、458打点、586盗塁、終身打率2割8分1厘

盗塁王6回(1960年−1965年)

MVP1回(1962年)
オールスターMVP1回(1962年)
ゴールドグラブ賞3回(1961年・1962年)

(参照)
福本豊
左投左打
身長168センチ、体重68キロ
1947年11月7日−
外野手
大坂府出身
日本が誇る世界的盗塁王・・・
阪急黄金時代の主力として活躍・・・
1969年に阪急に入団・・・
1970年から1982年まで13年連続盗塁王(75・65・106・95・94・63・62・61・70・60・54・54・54)・・・
特に1972年は盗塁のシーズンプロ野球記録85を更新し、当時の大リーグ記録104も更新する106・・・
1977年に広瀬叔功(参照)の当時のプロ野球記録・通算盗塁596を更新・・・
1983年にルー・ブロックの大リーグ記録・通算盗塁938を数字の上で更新・・・
1988年に現役引退・・・通算盗塁は1065・・・
通算盗塁1065は、当時は「世界記録」で現在(2015年9月20日現在)はプロ野球記録・・・
通算三塁打115もプロ野球記録・・・
2002年に野球殿堂入り(日本)・・・

打撃成績
通算20年、2401試合、8745打数2543安打、208本塁打、884打点、1065盗塁、終身打率2割9分1厘

盗塁王13回(1970年−1982年)

MVP1回(1972年)
ベストナイン10回(1972年−1974年、1976年−1982年)
ダイヤモンドグラブ賞12回(1972年−1983年)
日本シリーズMVP1回(1976年)
オールスターMVP3回(1973年第2戦・1974年第2戦・1982年第1戦)
※レギュラーシーズン、日本シリーズ、オールスターのMVPは川上哲治(参照)、大下弘(参照)と後に松井秀喜(参照)、内川聖一(現役)、阿部慎之助・・・そして福本豊
野球殿堂入り(日本)(2002年)
シーズン盗塁 106
通算盗塁1065
通算盗塁死299
通算三塁打115

(注)赤太字はプロ野球記録


(参照)
ルー・ブロック

左投左打
身長183センチ、体重86キロ
1939年6月18日−
外野手
アメリカ・アーカンソー州出身
リッキー・ヘンダーソンに破られるまで通算938盗塁の大リーグ記録保持者だった・・・
1960年にシカゴ・カブスと契約し、1961年に大リーグ昇格・・
1964年のシーズン途中でセントルイス・カージナルスに移籍・・・
1966年から1969年まで盗塁王(74・52・62・53)・・・
1971年から1974年まで盗塁王(64・63・70・118)・・・
特に1974年はシーズン118盗塁の当時の大リーグ記録・・・
1979年に現役引退・・・
通算盗塁938とシーズン盗塁118は当時の大リーグ記録・・・
ルー・ブロックの背番号「20」はカージナルスの永久欠番・・・
1985年にアメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算19年、2616試合、10332打数3023安打、149本塁打、900打点、938盗塁、終身打率2割9分3厘

盗塁王8回(1966年−1969年、1971年−1974年)

アメリカ野球殿堂入り(1985年)


(参照)
広瀬叔功

右投右打
身長176センチ、体重72キロ
1936年8月27日−
中堅手、遊撃手
広島県出身
南海の黄金時代のリードオフマン・・・
1955年にテスト生で南海に入団・・・始めは投手だったが、野手転向・・・
1956年に1軍に・・・
1961年から1965年まで5年連続盗塁王(42・50・45・72・39)・・・
1964年は打率3割6分6厘で当時の右打者の最高打率・・・
1977年に現役引退・・・
通算盗塁は596で史上2位・・・
1964年に31連続盗塁成功、1968年にシーズン盗塁成功率95.7パーセント(成功44、失敗2)を記録・・・
並外れたリードから有用な場面でしか走らない職人気質で、上記のように抜群の成功率を誇った・・・
盗塁を認知させたのは、広瀬だといわれています・・・
広瀬はスピードの革命を起こしたといわれています・・・
野村克也は、広瀬を長嶋茂雄と並び「野球の天才」とし、また「野球生活で出会った天才は、長嶋、イチロー、そして広瀬」との主旨の発言もしています。
多くのプロ野球人からも「広瀬=野球の天才」といわれます。
盗塁数も多く走る気になれば、ぐんと増えたのではないかといわれています・・・
1999年に野球殿堂入り(日本)・・・
投手としては1970年に1試合に登板し、2回を0失点で0勝0敗、防御率0.00
監督としては1978年から3年間で最高位5位が1回

打撃成績
通算22年、2190試合、7637打数2157安打、131本塁打、705打点、596盗塁、終身打率2割8分2厘

首位打者1回(1964年)
盗塁王5回(1961年−1965年)

ベストナイン3回(1963年−1965年)
ダイヤモンドグラブ賞1回(1972年)※創設は1972年
オールスターMVP2回(1961年第1戦・1966年第1戦)
野球殿堂入り(日本)(1999年)
シーズン盗塁成功率 9割5分7厘(1968年)※30盗塁以上
シーズン連続盗塁成功 31(1964年)
通算盗塁成功率 8割2分9厘(596盗塁、123盗塁死)※300盗塁以上


(注)赤太字はプロ野球記録

(参照)
川上哲治
左投左打
身長174センチ、体重75キロ
1920年3月23日−2013年10月28日
一塁手、投手
熊本県出身
戦前・戦後を代表する打者・・・
最初は投手で入団したが、後に打者に転向・・・
一塁手・・・
「打撃の神様」「赤バット」「弾丸ライナー」など数々の異名を持つ・・・
中距離打者で、アベレージ・ヒッターだが、サイクル安打、逆転サヨナラ本塁打など本塁打に関する記録も多い
打撃は素晴らしいが、守備(一塁手)は上手いとはいえない・・・
監督としてもV9(9年連続日本一)を達成するなど11回のリーグ優勝全てで日本一・・・
現役時代の背番号「16」は、巨人の永久欠番・・・
1965年、野球殿堂入り(日本)・・・

打撃成績
通算18年、1979試合、7500打数2351安打、181本塁打、1319打点、終身打率3割1分3厘

投手成績
通算4年、11勝9敗、200回、97奪三振、防御率2.61

監督成績
通算14年、リーグ優勝11回、
日本一11回(9年連続日本一含む)

首位打者5回(1939年・1941年・1951年・1953年・1955年)
本塁打王2回(1940年・1948年)
打点王3回(1939年・1941年・1955年)

MVP3回(1941年・1951年・1955年)
ベストナイン10回(1940年、1947年−1949年、1951年、1953年、1955年−1958年)
日本シリーズMVP1回(1953年)
オールスターMVP1回(1951年第1戦)

日本シリーズ終身打率3割6分5厘(159打数58安打)※80打数以上
野球殿堂入り(日本)(1965年)

(参照)
大下弘
左投左打
身長173センチ、体重70キロ
1922年12月15日−1979年5月23日
外野手、投手
兵庫県出身・・・
戦後のプロ野球に「本塁打ブーム」を作りました。
戦後のプロ野球の国民的スターの一人・・・
最初は投手で入団しましたが、後に打者に転向・・・
外野手・・・
「青バット」や本塁打が高い弾道で当時としてはポン、ポン連発することから「ポンちゃん」などといわれました。
1年目は本塁打王で長打力はあるが確実性はありませんでしたが、、2年目には首位打者と本塁打王を獲得し確実性も備えました・・・
天才打者として知られ、三原脩(参照)がプロ野球で天才を一人選ぶとしたら大下弘といったそうです。
シーズン打率3割8分3厘1毛のプロ野球記録は、張本勲に更新(張本は3割8分3厘4毛)(現在=2015年8月29日現在のプロ野球記録は、ランディ・バース(参照)の3割8分9厘)されたが、1試合(7打数)7安打はプロ野球記録(2015年8月29日現在)・・・
西鉄3連覇などの中心打者・・・
1959年に現役引退・・・
引退後は、監督(シーズン途中解任)、コーチなどを務める
その後は少年野球の指導者や女子野球チームの指導者・・・
死後の1980年、野球殿堂入り(日本)・・・

打撃成績
通算14年、1574試合、5500打数1667安打、201本塁打、861打点、終身打率3割0分3厘

投手成績
通算2年、0勝2敗、22回2/3、9奪三振、防御率4.70

監督成績
通算1年、東映の監督を1968年に務めるが、シーズン途中で成績不振で解任・・・

首位打者3回(1947年・1950年・1951年)
本塁打王3回(1946年・1947年・1951年)

MVP1回(1954年)
ベストナイン8回(1947年、1949年ー1954年、1957年)
日本シリーズMVP1回(1957年)
オールスターMVP1回(1957年第1戦)
野球殿堂入り(日本)(1980年)

1試合7安打
サイクル安打1回(1954年7月15日 阪急戦)

(注)赤太字はプロ野球記録

(参照)
松井秀喜
右投左打
身長188センチ、体重95キロ
1974年6月12日−
外野手
石川県出身
1990年代から2000年代にかけ、日米で活躍・・・
2013年には国民栄誉賞受賞・・・
高校時代は三塁手で、甲子園でも本塁打を打つなど活躍したが、1992年の夏の甲子園で「5打席連続敬遠」で大きな注目を集める・・・
1993年に巨人に入団し、俊足を生かし外野手に転向、1年目はシーズン途中から1軍で打率2割2分3厘・11本塁打・27打点・・・
2年目の1994年から連続出場を続ける・・・
1994年は巨人の日本一に貢献・・・
1996年は巨人のリーグ優勝に貢献・・・MVP
1998年に34本塁打・100打点で、本塁打王と打点王・・・
2000年に42本塁打・108打点で、本塁打王と打点王・・・
同年は巨人の日本一に貢献・・・MVP
2001年に打率3割3分3厘で首位打者・・・
2002年は50本塁打・107打点で、本塁打王と打点王・・・
同年は巨人の日本一に貢献・・・NVPと日本シリーズMVP
2003年に大リーグのニューヨーク・ヤンキースへ移籍・・・
日本ほどは本塁打を量産しなくなったが、まずまずの活躍をしていた・・・
しかし、2006年に試合中のケガで連続出場がストップ・・・
以後は、ケガとつきあうようになる・・・
2009年にチームはワールドシリーズ制覇で、松井自身もワールドシリーズMVPを獲得する・・・
2010年にロサンゼルス・エンゼルスに移籍・・・
2011年にオークランド・アスレチックスに移籍・・・
2012年にタンパベイ・レイズに移籍・・・
同年に現役引退・・・
イチローとは対照的なスタンスを取ることが多く、ファンやマスコミにオープンでフレンドリーな松井に対し、イチローは孤高なスタンス・・・
WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)に積極的だったイチローに対し、松井は消極的だった・・・
前述のように、ファンなどに対し、とても真摯に対応することで知られる・・・
日本では巨人、大リーグではニューヨーク・ヤンキースと注目のチームでプレーしたことも影響しているのかもしれない・・・
2013年に恩師の長嶋茂雄とともに国民栄誉賞受賞・・・
現在はアメリカを拠点にニューヨーク・ヤンキースをバックアップしたりしています・・・

□日本での打撃成績
通算10年、1268試合、4572「打数1390安打、332本塁打、889打点、終身打率3割0分4厘


首位打者1回(2001年)
本塁打王3回(1998年・2000年・2002年)
打点王3回(1998年・2000年・2002年)

MVP3回(1996年・2000年・2002年)
ベストナイン8回(1995年−2002年)
ゴールデングラブ賞3回(2000年−2002年)
日本シリーズMVP1回(2000年)
オールスターMVP3回(1995年第2戦・1998年第2戦・1999年第1戦)

□大リーグでの打撃成績
通算10年、1236試合、4442打数1253安打、175本塁打、760打点、終身打率2割8分2厘

ワールドシリーズMVP1回(2009年)
ワールドシリーズ1試合最多打点 6(タイ)

(注)赤太字は大リーグ記録

□日米通算打撃成績
通算20年、2504試合、9014打数2643安打、507本塁打、1649打点、終身打率2割9分2厘

国民栄誉賞(2013年)


(参照)
三原脩
身長168センチ、体重64キロ
1911年11月21日−1984年2月6日
二塁手
香川県出身
「魔術師」とも「知将」ともいわれた名監督・・・
巨人の総監督退任までの表記は三原修
早大のスターとして活躍し、大学を中退し、1934年に契約1号で、大日本東京野球倶楽部(後の巨人)に入団・・・
選手としてはわずかの期間で現役引退・・・

選手より監督として有名ですね・・・
アテ馬(偵察メンバー)やワンポイントリリーフなどを使ったり、「スミ1」などの言葉の考案者といわれています・・・

三原采配の特徴の一例・・・
日本シリーズは偶数戦を重視した
流線型打線(超攻撃的な二番打者に強打者を配置)
超二流(一流ではないが、一芸に秀でた選手を重用)

「野球は筋書きのないドラマ」
「まだ首の皮一枚つながっている」
上記の言葉は三原脩の名言といわれます・・・

監督退任後は日本ハム球団社長→相談役・・・
1983年、野球殿堂入り(日本)・・・

打撃成績
通算3年、109試合、407打数92安打、0本塁打、40打点、終身打率2割2分6厘

□監督としての成績
1947年から1949年、巨人監督(1950年から総監督に・・・)
1951年から1959年、西鉄監督
1960年から1967年、大洋監督
1968年から1970年、近鉄監督
1971年から1973年、ヤクルト監督
1リーグ時代に巨人で1949年優勝
パ・リーグの西鉄で1954年・1956年−1958年リーグ優勝、1956年−1958年日本一
セ・リーグの大洋で1960年リーグ優勝、1960年日本一
特に1958年の3連敗4連勝の逆転日本一は有名・・・

野球殿堂入り(日本)(1983年)


(参照)
ランディ・バース
左投左打
身長184センチ、体重95キロ
1954年3月13日−
一塁手、外野手
アメリカ出身
「史上最強の助っ人」ともいわれる・・・
入団当初は外野手だったが、やがて一塁手に・・・
2年連続2回の打撃三冠王・・・
1985年には、所属の阪神の日本一とバースの打撃三冠王(打率3割5分0厘・54本塁打・134打点)
1986年も打撃三冠王(打率3割8分9厘・47本塁打・109打点)
この年のシーズン打率3割8分9厘はプロ野球記録・・・

打撃成績
(大リーグ)
通算6年、130試合、325打数69安打、9本塁打、42打点、終身打率2割1分2厘
(日本プロ野球)
通算6年、614試合、2208打数743安打、202本塁打、486打点、終身打率3割3分7厘

(日本プロ野球)
首位打者2回(1985年・1986年)
本塁打王2回(1985年・1986年)
打点王2回(1985年・1986年)

打撃三冠王 2年連続含む2回

MVP1回(1985年)
ベストナイン3回(1985年−1987年)
日本シリーズMVP1回(1985年)

シーズン打率3割8分9厘

(赤太字はプロ野球記録)

■記録など
通算1406盗塁、通算2295得点、盗塁王12回はいずれも大リーグ記録

1982年のシーズン130盗塁も大リーグ記録

通算1406盗塁は前述のように大リーグ記録だが、通算335盗塁死も大リーグ記録

シーズン42盗塁死も大リーグ記録で、彼が積極的に走った証だが、盗塁成功率は80パーセントを超えており、これは非常に高い水準

1970年代・1980年代・1990年代・2000年代の4つの世代で盗塁を記録
(4つの世代で盗塁を記録したのは、ティム・レインズ(参照)、テッド・ウィリアムズとリッキー・ヘンダーソンの3人)

通算先頭打者本塁打81本も大リーグ記録

通算2190四死球は、バリー・ボンズ(参照)に次ぐ大リーグ2位

ベーブ・ルースの通算2062四死球、タイ・カッブの通算2246得点の偉大な数字を超えたのは高く評価できます。


(参照)
ティム・レインズ

右投両打
身長175センチ、体重91.5キロ
1959年9月16日−
左翼手
アメリカ・フロリダ州セミノール郡州出身
通算808盗塁を記録し、盗塁成功率が高く、盗塁成功率8割6分7厘・・・
1977年にモントリオール・エクスポズと契約し、1979年に大リーグ昇格・・・
1981年から1984年まで4年連続盗塁王(71・78・90・75)・・・
1986年に打率3割3分4厘で首位打者・・・
1991年にシカゴ・ホワイトソックスに移籍・・・
1996年にニューヨーク・ヤンキースに移籍・・・
1999年にオークランド・アスレチックスに移籍・・・
2000年は2月にニューヨーク・ヤンキースと契約したが、翌月に解雇・・・
一度、現役を引退するが2001年にモントリオール・エクスポズで復帰・・・
同年のシーズン途中でボルチモア・オリオールズに移籍・・・
2001年にシアトル・マリナーズに移籍・・・
同年で現役引退・・・
現役引退後はマイナーリーグの監督や大リーグのコーチ・・・
2009年から2011年まで独立リーグのチームの監督・・・
背番号「30」はエクスポズの永久欠番・・・
2013年にカナダ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算23年、2502試合、8872打数2605安打、170本塁打、980打点、808盗塁、終身打率2割9分4厘

首位打者1回(1986年)
盗塁王4回(1981年−1984年)

カナダ野球殿堂入り(2013年)
オールスターMVP1回(1987年)

(参照)
バリー・ボンズ
左投左打
身長188センチ、体重109キロ
1964年7月24日−

外野手
カリフォルニア州リバーサイド出身
大リーグを代表する打者のひとり・・・
500本塁打・500盗塁のマルチプレーヤー・・・
シーズン30本塁打・30盗塁を5回、打率3割・30本塁打・30盗塁を3回、打率3割・40本塁打・40盗塁を1回・・・
キャリア後期は、守備・走塁が衰え、打撃が突出・・・
1986年に大リーグ昇格・・・
打撃無冠ながら毎年30本塁打前後・30盗塁前後の数字をあげる・・・
その後も本塁打は30本以上だが、盗塁が1999年・15盗塁、2000年・11盗塁に落ち込む・・・
2001年にマーク・マグアイワ(参照)のシーズン70本の大リーグ記録を更新する73本塁打・・・
盗塁は最後の2桁の13盗塁で、以後は1桁盗塁・・・
2002年は打率3割7分0厘で首位打者・・・
2004年に打率3割6分2厘で首位打者・・・
2000年から2004年まで5年連続40本塁打(49・73・46・45・45)・・・
2005年は故障でシーズンの大半欠場・・・14試合で5本塁打・・・
2006年・26本塁打、2007年・23本塁打・・・
2007年に現役引退・・・
通算本塁打762本は大リーグ記録・・・
薬物疑惑(筋肉増強剤のステロイド使用など)でアメリカ野球殿堂入り見送り・・・

打撃成績
通算22年、2986試合、9847打数2935安打、762本塁打、1996打点、終身打率2割9分8厘(514盗塁)

首位打者2回(2002年・2004年)
本塁打王4回(1993年・2001年)
打点王1回(1993年)

MVP7回(1990年・1992年・1993年、2001年−2004年)
ゴールドグラブ賞8回(1990年−1994年、1996年−1998年)

シーズン73本塁打(2001年)
シーズン長打率.863(2001年)
シーズン出塁率.609
シーズンOPS1.422
シーズン四死球232(2004年)
シーズン敬遠120(2004年)
通算762本塁打
通算2558四球
通算688敬遠


(注)赤太字は大リーグ記録

(参照)
マーク・マグワイア
右投右打
身長195.5センチ、体重113.5キロ
1963年10月1日−
一塁手

カリフォルニア州ボナモ出身
1984年にオークランド・アスレチックス入団・・・
1986年8月に大リーグ昇格し、1987年に大リーグの新人本塁打記録の49本で本塁打王・・・文句なしの新人王(ナ・リーグ)・・・
1996年から1999年まで4年連続50本塁打(52・58・70・65・)・・・
1996年に52本塁打で本塁打王・・・
1997年のシーズン途中からセントルイス・カージナルス移籍・・・
1997年は移籍前34本、移籍後24本のシーズン58本塁打で本塁打王に認定されず・・・
1998年はロジャー・マリスのシーズン61本塁打の大リーグ記録を更新するシーズン70本塁打・・・
この時は、サミー・ソーサ(参照)との本塁打争いが話題に・・・
その後、当時は大リーグでは禁止されていなかった薬物をやめ(五輪では禁止)、1999年も65本塁打・・・
1999年は65本塁打・147打点で本塁打王と打点王・・・
本塁打量産は薬物によろものと認識される・・・
2000年・2001年は故障もあり、32本塁打・29本塁打に激減・・・
2001年で現役引退・・・
その後はセントルイス・カージナルス、ロサンゼルス・ドジャースでコーチ・・・
薬物使用でアメリカ野球殿堂入りが困難に・・・

打撃成績
通算16年、1874試合、6187打数1626安打、583本塁打、1414打点、終身打率2割6分3厘

本塁打王4回(1987年・1996年・1998年・1999年)
打点王1回(1999年)

新人王(1987年)
ゴールドグラブ賞1回(1990年)

(参照)
サミー・ソーサ
右投右打
身長183センチ、体重102キロ
1968年11月12日−
外野手、指名打者
ドミニカ共和国出身
シーズン60本塁打3回は大リーグ記録・・・
1985年にテキサス・レンジャーズ入団・・・
1989年に大リーグ昇格・・・
シーズン途中ににシカゴ・ホワイトソックスへ移籍・・・
1992年にシカゴ・カブスに移籍・・・
1993年から1997年まで5年続けてシーズン20本塁打(33・25・36・40・36)・・・
1998年にマーク・マグワイアと本塁打争いをし、66本塁打もマグアイアの70本塁打に敗れる・・・158打点で打点王・・・
1999年も62本塁打もマグワイアの65本塁打に敗れる・・・
2000年に50本塁打で本塁打王・・・
2001年は64本塁打もバリー・ボンズの73本塁打に敗れる・・・160打点で打点王・・・
2002年は49本塁打で本塁打王・・・
2003年にコルク入りバット疑惑・・・、同年に薬物疑惑・・・
2005年にボルチモア・オリオールズに移籍・・・
2006年は所属なし・・・
2007年テキサス・レンジャーズ復帰・・・
この年で現役引退・・・

打撃成績
通算18年、2354試合、8813打数2408安打、609本塁打、1667打点、終身打率2割7分3厘

本塁打王2回(2000年・2002年)
打点王2回(1998年・2001年)

MVP1回(1998年)
シーズン60本塁打以上3回(1998年・1999年・2001年)

(注)赤太字は大リーグ記録

■エピソード
多くの球団を移籍したが、ワールドシリーズ出場はアスレチックス時代の1989年・1990年、ブルージェイズ時代の1993年の3回
(1989年・1993年にワールドシリーズ制覇)

ノーラン・ライアンの通算5000奪三振達成の対戦相手

「超メジャー級」の巨根の持ち主らしい

俊足で打力もあったが、守備は上手いとは言い難く、弱肩であり、ポジションはレフトが多かった

■総評
前述のように、大リーグ史上最高の盗塁男であり、リードオフマンです。

盗塁数が突出しており、出塁率もまずまず高く、通算盗塁、通算得点の大リーグ記録保持者で、通算四死球も大リーグ2位です。


■年度別打撃成績
球団 試合  打数 得点 安打 二塁打 三塁打 本塁打 打点 盗塁 四死球 三振 打率 
1979 OAK 89 351 49 96 13 26 33 34・2 39 .274
1980 OAK 158 591 111 179 22 53 100 ※1 54 .303
1981 OAK 108 423 89 135 18 35 56 64・2 68 .319
1982 OAK 149 536 119 143 24 10 51 130 ※2 94 .267
1983 OAK 145 513 105 150 25 48 108 ※3 80 .292 
1984 OAK 142 502 113 147 27 16 58 66 86・5 81 .293
1985 NYY 143 547 146 172 28 24 72 80 99・3 65 .314
1986 NYY 153 608 130 160 31 28 74 87 89・2 81 .263
1987 NYY 95 358 78 104 17 17 37 41 80・2 52 .291
1988 NYY 140 554 118 169 30 50 93 82・3 54 .305
1989 ※4 150 541 113 148 26 12 57 77 ※5 68 .274
1990 OAK 136 489 119 159 33 28 61 65 97・4 60 .325
1991 OAK 134 470 105 126 17 18 57 58 98・7 73 .268
1992 OAK 117 396 77 112 18 15 46 48 95・6 56 .283
1993 ※6 134 481 114 139 22 21 59 53 ※7 65 .289
1994 OAK 87 296 66 77 13 20 22 72・5 45 .260
1995 OAK 112 407 67 122 31 54 32 72・4 66 .300
1996 SD 148 465 110 112 17 29 37 ※8 90 .241
1997 ※9 120 403 84 100 14 34 45 97・6 85 .248
1998 OAK 152 542 101 128 16 14 57 66 ※10 114 .236
1999 NYM 121 438 89 138 30 12 42 37 82・2 82 .315
2000 ※11 123 420 75 98 14 32 36 88・4 75 .233
2001 SD 123 379 70 86 17 42 25 81・3 84 .227
2002 BOS 72 179 40 40 16 38・4 47 .223
2003 LAD 30 72 15 11・1 16 .208
                           
1989
内訳
NYY 65 235 41 58 13 22 25 56・1 29 .247
OAK 85 306 72 90 13 35 52 70・2 39 .294
1993
内訳 
OAK 90 318  77 104 19 17 47 31 85・2 46 .327
TOR 44 163 37 35 12 22 35・2 19 .215
1997
内訳
SD 88 288 63 79 11 27 29 71・4 62 .274
ANA 32 115 21 21 16 26・2 23 .183
2000
内訳
NYM 31 96 17 21 25・2 20 .219
SEA 92 324 58 77 13 30 31 63・2 55 .238
  3081 10961 ※12 3055 510 66 297 1115 ※13 ※14 1694 .279
(注)通算25年
(注)球団のOAKはオークランド・アスレチックス、NYYはニューヨーク・ヤンキース、TORはトロント・ブルージェイズ、SDはサンディエゴ・パドレス、ANAはアナハイム・エンゼルス、NYMはニューヨーク・メッツ、SEAはシアトル・マリナーズ、BOSはボストン・レッドソックス、LADはロサンゼルス・ドジャース
(注)年度の黒太字はリーグ1位
(注)四死球は、四球数・死球数
(注)シーズン・通算の赤太字は大リーグ記録

※1 117四球・5死球
※2 116四球・2死球
※3 103四球・4死球
※4 NYYからシーズン途中OAKへ移籍
※5 126四球・3死球
※6 OAKからシーズン途中TORへ移籍
※7 120四球・4死球
※8 125四球・10死球
※9 SDからシーズン途中ANAへ移籍
※10 118四球・5死球
※11 NYMからシーズン途中SEAに移籍

※12 
2295得点
※13 
1406盗塁
※14 2190四球・98死球

■打撃
□主なタイトル
盗塁王7年連続含む12回(1980年−1986年、1988年−1991年、1998年)

□主な野球表彰(現役時代)
アメリカン・リーグMVP1回(1990年)
リーグチャンピオンシリーズMVP1回(1989年)
ゴールドグラブ賞1回(1981年)

□特記事項
シーズン130盗塁(1982年)
シーズン42盗塁死(1982年)
通算1406盗塁
通算335盗塁死
通算2295得点
通算先頭打者本塁打 81本

アメリカ野球殿堂入り(2009年)


(注)赤太字は大リーグ記録


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