清水川元吉 |
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■清水川元吉■玉錦三右エ門のライバル |
清水川 元吉(しみずがわ もときち) |
本名・長尾 米作〜出身地・青森県〜身長179cm、体重109kg |
生没年月日・明治33(1900)年1月13日−昭和42(1967)年7月5日 |
最高位・大関 |
■コメント |
清水川元吉(しみずがわ・もときち)は、玉錦三右エ門のライバルといわれ、ともに横綱昇進を目指しました。 ケガのため横綱昇進の機会を逸しましたが優勝3回、うち2回が全勝という強豪で名大関といわれました。 ▼履歴 大正5(1916)年に二十山一行が青森に巡業に来た際に二十山の門に入り、大正6(1917)年1月に初土俵を踏みます。 大正12(1923)年に新入幕、その場所を負け越し、十両に落ちますが、すぐに大正13(1924)年1月に再入幕します。 大正15(1916)年1月には小結に昇進しますが、人気におぼれ生活が乱れ、さらに休場が続き昭和3(1928)年1月の番付を最後に破門となってしまいます。 その後、関東軍司令官の白川義則大将のとりなしを得るも復帰がかなわず、清水川の父の「大関になってくれ」との遺言を残しての自殺と国家主義運動をすすめた頭山満などの尽力もあり角界への復帰が許されます。 昭和3(1928)年10月に幕下から再スタートした清水川は、昭和5(1930)年1月に再々入幕をします。 昭和6(1931)年5月には西前頭3枚目で優勝同点、昭和7(1932)年2月には春秋園事件の直後の場所で多くの幕内力士が脱退し、8日間興業であったものの新関脇として8戦全勝で初優勝を飾ります。 1場所おいて同年5月に新大関として10勝1敗で優勝同点、翌場所の同年10月には9勝2敗で2回目の優勝をします。 昭和9(1934)年5月に11戦全勝で3回目の優勝をし、横綱昇進が期待されますが、同年9月の巡業で右大腿骨を脱臼し、その影響で翌場所を負け越して横綱昇進を逃します。 昭和12(1937)年5月に10勝3敗の好成績を残しながらあっさり引退しています。 引退後は二十山から分家独立し追手風部屋を興しますが、昭和39(1964)年11月に部屋を閉じて立浪部屋に合流し、昭和40(1965)年1月に定年退職を迎えます。 ▼特徴 右四つ左上手の型をもち、鎌首をもたげて相手を凝視する特徴的な仕切りに人気がありました。 優勝3回うち全勝2回、優勝同点2回の強豪であり、昭和7(1932)年までは玉錦三右エ門のライバルといわれ、対戦成績でも6勝1敗と圧倒していました。 昭和7(1932)年には年4場所で優勝(8戦全勝)、8勝2敗、優勝同点(10勝1敗)、優勝(9勝2敗)の抜群の成績を残しています。 ちなみに玉錦はこの年は7勝1敗、8勝2敗、優勝(10勝1敗)、7勝4敗の成績ながらそれ以前に横綱昇進でもおかしくない好成績を挙げながら大関に据え置かれた不遇から一転して翌場所の昭和8(1933)年1月に横綱に昇進しています。 昭和7(1932)年の両力士の対戦成績は清水川の3勝1敗で、玉錦の5月場所の10勝1敗での優勝の1敗は清水川に喫した敗戦で成績的には清水川も10勝1敗の同点ながら番付上位の玉錦の優勝となっています。 昭和7(1932)年の最強力士は清水川だったといえるでしょう。 昭和9(1934)年5月に3回目の優勝を全勝で飾った時は横綱目前といわれましたが、ケガで昇進の機会を逸したのは惜しまれます。 ▼ライバル 清水川元吉のライバルとしては、玉錦三右エ門が挙げられます。 (対戦成績は清水川から見たものです) 玉錦三右エ門 高知県出身、身長173cm、体重135kg 幕内通算成績 38場所 308勝92敗3分17休 勝率7割7分0厘 優勝9回 最高位・横綱 体格にも素質にも恵まれておらず、小部屋の悲哀も味あいながら、抜群の稽古量で強くなっていきました 猛稽古により包帯と膏薬だらけの姿から「ボロ錦」といわれ、喧嘩好き、親分肌の性格で「ケンカ玉」「ゴロ玉」などのニックネームもあります まだ初土俵を踏む前の頃、太刀山が「儂を背負って土俵を一周したら米1俵やるぞ」と言ったのを聞きつけ、最初の挑戦では失敗したものの、2度目の挑戦で成功したエピソードは負けん気の強さを示すものです 清水川とは昭和7(1932)年までは分が悪く1勝6敗と大きく負け越していました その後盛り返し玉錦の7勝8敗の対戦成績となりました、ただし最後の対戦は玉錦の不戦敗です 詳細は史上最強力士RANKING内の玉錦三右エ門を参照 対戦成績 8勝7敗 ○○○○●○○●●○●●●●□ |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
大正12(1923)年1月 | 西前15 | 2勝7敗1預 | ●●●預○○●●●● | ||
大正13(1924)年1月 | 東前13 | 4勝5敗1預 | 預●●●●○○○●○ | ||
大正13(1924)年5月 | 西前12 | 4勝7敗 | ●○●●●○●○●○● | ||
大正14(1925)年1月 | 西前15 | 8勝3敗 | ○●○○○●○○○●○ | ||
大正14(1925)年5月 | 東前5 | 8勝2敗1分 | ○○○○●○●分○○○ | 金 | |
大正15(1926)年1月 | 東小結 | 11休 | 休休休休休休休休休休休 | ||
大正15(1926)年5月 | 西前4 | 8勝3敗 | ○○●○●●○○○○○ | ||
昭和2(1927)年1月 | 東前1 | 3勝8敗 | ○●○●○●●●●●● | ||
昭和2(1927)年3月 | 東前1 | 3勝8敗 | ○●●●●●●●○●○ | ||
昭和2(1927)年5月 | 西前7 | 11休 | 休休休休休休休休休休休 | ||
昭和2(1927)年10月 | 東前5 | 11休 | 休休休休休休休休休休休 | ||
昭和3(1928)年1月 | 東前12 | 11休 | 休休休休休休休休休休休 | ||
昭和5(1930)年1月 | 東前8 | 6勝5敗 | ●○●○○○○○●●● | ||
昭和5(1930)年3月 | 東前8 | 7勝4敗 | ○○○●●○○○○●● | ||
昭和5(1930)年5月 | 西前3 | 3勝8敗 | ○○○●●●●●●●● | ||
昭和5(1930)年10月 | 西前3 | 9勝2敗 | ○○●○○○○○○●○ | ||
昭和6(1931)年1月 | 東小結 | 5勝6敗 | ○○●●○●●●○●○ | ||
昭和6(1931)年3月 | 東小結 | 4勝7敗 | ○○●●●●○●●○● | ||
昭和6(1931)年5月 | 西前3 | 10勝1敗 | ○○○○○○●○○○○ | 同 | |
昭和6(1931)年10月 | 西前3 | 6勝5敗 | ●●○●●○○○○○● | ||
昭和7(1932)年1月 | 東関脇 | (中止) | (中止) | ||
昭和7(1932)年2月 | 西関脇 | 8勝 | ○○○○○○○○ | 1 | |
昭和7(1932)年3月 | 西関脇 | 8勝2敗 | ○○○○○○○●●○ | ||
昭和7(1932)年5月 | 東張大 | 10勝1敗 | ○○○●○○○○○○○ | 同 | |
昭和7(1932)年10月 | 東張大 | 9勝2敗 | ○○○○○○●○●○○ | 2 | |
昭和8(1933)年1月 | 東大関 | 5勝6敗 | ○●○○●○●○●●● | ||
昭和8(1933)年5月 | 西大関 | 7勝4敗 | ○○○○○○●●●●○ | ||
昭和9(1934)年1月 | 西大関 | 7勝4敗 | ○○○○○○●●●●○ | ||
昭和9(1934)年5月 | 西大関 | 11勝 | ○○○○○○○○○○○ | 3 | |
昭和10(1935)年1月 | 東大関 | 5勝6敗 | ○○○○●●●●●●○ | ||
昭和10(1935)年5月 | 西張大 | 7勝4敗 | ○○●●○○○●○●○ | ||
昭和11(1936)年1月 | 西大関 | 4勝7敗 | ○○●●●○●●●●○ | ||
昭和11(1936)年5月 | 西大関 | 6勝5敗 | ○●○●○○○●○●● | ||
昭和12(1937)年1月 | 西大関 | 6勝5敗 | ●●○○○○●●●○○ | ||
昭和12(1937)年5月 | 西大関 | 10勝3敗 | ○○○○○○●○○○●●□ | ||
幕内通算成績 34場所 193勝130敗1分2預44休 勝率5割9分8厘 優勝3回 金星1個 |
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