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田部武雄
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■田部武雄■野球選手■伝説の韋駄天

右投右打

身長161センチ、体重52キロ

1906年3月28日ー1945年6月


田部武雄(たべ・たけお)は、広島生まれの大日本東京野球倶楽部→東京巨人軍草創期の1番打者、主将で、二塁手、投手など

巨人で最初に背番号3を着けた選手(現在永久欠番となっている1と3を両方着けた唯一の選手でもぁる)

1935年の第一次アメリカ遠征で、105試合で110盗塁という驚異的数字を記録


また、本場アメリカ野球相手にホームスチールを成功させ「田部がスチールできないのは一塁だけだ」とアメリカ人を驚かせ「タビー」と呼ばれた伝説の韋駄天


翌1936年に、日本職業野球連盟が結成され、その後、同年に日本プロ野球リーグが開幕したが、プロ野球になる前の巨人から離れた

このため、
公式戦の記録はないが、その韋駄天ぶりなどで、幻の名選手、伝説の韋駄天といわれている

■履歴
▼巨人入り前
田部は広島県に生まれた

兄の影響で野球を始める

袋町小学校高等科を経て、旧制広陵中(現・広陵高)に入学するが、1年で退学

16歳で単身満州・奉天に渡り、サラリーマンをしながら、大連実業団(以下、大連実業)で野球

六大学出身の花形選手の揃った大連実業でレギュラー

満州の営口実業団の後、東華銭荘に就職

1926年秋に、大連実業の1番二塁手として内地を転戦

1927年、大連実業の明大OBの中島謙監督と小西得郎から明大進学を勧められ、帰国し広陵中の編入試験に合格し、広陵中4年に復学

この頃の春の選抜は、年齢・学年とも制限が無かったので、この年21歳にして甲子園出場

前年優勝の広陵中は、田部がエースで3番で決勝まで進むが、快速左腕・小川正太郎の和歌山中に敗れる

しかし、この試合で田部は小川から公式戦初の被本塁打(ランニングホームラン)を浴びせている

同年夏の選手権では、「他チームでの在籍は1年のみ」の制限に引っ掛かり、田部は出場できず
(チームは、甲子園で決勝まで進むが、水原茂の高松商に敗れる)

この1927年の田部の動きが分かりにくい

夏の選手権が終わると、広陵中を退学し大連実業に復帰したとの文献もあるが、この年に第1回全日本都

市対抗野球の満州代表を決める満州倶楽部との定期船に大連実業で出場し敗れたとの文献も

これだと田部は、春の選抜の後、年に1度の初夏の定期船で大連実業に戻ったことになる

1928年9月19日に、日鮮満遠征で来た明大と試合

田部は1番遊撃手で出場し、三塁走者でホームスチールを成功

逆に田部のいた大連実業が東京に遠征し、早大、慶大、明大と対戦したとの文献も

1928年、23歳で明大3年に進学

1929年に広陵中卒業の文献から、広陵中に籍を置いたままの明大進学となる

明大進学後の田部はすぐにレギュラーに

主に二塁手、遊撃手だったが、捕手以外の全てのポジションをこなし、投手でも活躍

走者では、カチッカチッとスパイクを鳴らし、片足を突き出しピッチャーを威嚇、簡単に盗塁をやってのけ、また俊足強肩の外野手でも知られた

田部は全てを備えた天才選手といわれた

明大の黄金時代に貢献し、リーグ戦通算67試合に出場、259打数56安打、打率2割1分6厘、0本塁打、22打点、36盗塁

田部は美男子で女性ファンも多かったという

1931年、初来日したルー・ゲ―リック米大リーグ選抜と対戦する全日本選抜に外野手でファン投票に選ばれ、右翼手で3回と投手で2回で4試合に出場

小西得郎は、田部を「私の60年の野球生活で見てきた選手の中で跳び抜けた選手」と評している

1932年に明大を卒業し、藤倉電線に入社

東京倶楽部の一員として、第6回都市対抗野球大会に出場

開幕第1戦に、二塁手兼投手として出場するが、この大会優勝した全神戸に敗れている

周囲から自身の望む恋愛を反対され、山口県の小さな鉄道会社から1934年に福岡で鉄道会社転職の後、事業をした

▼巨人入り後
関係者が奔走し、1934年に「全日本チーム」入りし、3年ぶり上京し、大日本東京野球倶楽部(後の東京巨人軍)の結成に参加・・・

結成時の背番号は3、1935年の内地巡業時に、背番号1に

初代主将・二出川延明の退団で2代目主将

美男子でショーマンシップにあふれ、1935年の第一次アメリカ遠征では
105試合で110盗塁を記録

韋駄天の名をほしいままに

帰国後、巨人が巡業試合で東京鉄道局野球部(現・JR東日本公式野球部)に2敗したため、東京鉄道局の藤本正義を巨人の監督に招聘

東京鉄道局がマークしたのが沢村栄治と田部だった

翌1936年2月に、日本職業野球連盟が結成され、連盟所属チーム同士の初めての試合は、母の病気で広島に帰省していたが、第3戦には間に合い、直後の第2次アメリカ遠征では、全75試合でチーム17本の本塁打のうち2本を打ち、投手としても5試合に登板

沢村
と2人だけ写真入りで取り上げられ、ともに大リーグに勧誘された

帰国後、主将としての役目上、選手の不満を代弁し、球団上層部と衝突

これが原因で巨人を退団

同年に、日本初のプロ野球リーグが開幕したが、田部はプロ野球になる前の巨人から離れた

▼巨人退団後
田部は、同年秋から、トラブルに巻き込まれ、1936年(1937年とも)に日本を去り、再び大連へ

田部はトラック運送業を始め、事業に成功

大連実業に復帰し、1940年の第16回都市対抗野球大会にも大連実業のエースとして出場し、準優勝

1942年の都市対抗にも出場

1944年に兵役で沖縄へ

1945年6月に沖縄で死去したとされる。39歳没。

969年、野球殿堂(日本)入り


天才野球人 田部武雄
1935年の第一次アメリカ遠征で105試合で110盗塁した伝説の韋駄天

沢村栄治の快投も米国の観客を驚かせたが、田部武雄の韋駄天ぶりもそれに劣らなかった

プロ野球開幕前に、プロ野球を去った幻の名選手でプロでの公式戦には出場していない

天才・田部の公式戦での活躍を見てみたかったですね


■逸話
松木謙二郎によると、田部が「暁の超特急」といわれた陸上短距離の吉岡隆徳と神宮球場でスピード競走をした

慣れない陸上用のスパイクながら後半まで田部がリードしていたという

これが本当なら、スタートダッシュは、吉岡が世界一速いといわれたので、50メートルなら田部が世界一速かったことになる

松木は、スタートダッシュの速いことでは、田部に及ぶものはない、と信じているという



打撃成績・・・
公式戦出場なし

野球殿堂(日本)1969年




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