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沢村栄治
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坂田弘好 松尾雄治 沢村栄治 藤本英雄
その他−参照

■沢村栄治■野球選手■伝説の快速球投手

右投左打

身長174センチ、体重71キロ

1917年2月1日−1944年12月2日

沢村栄治(さわむら・えいじ)は、プロ野球草創期に大活躍した伝説の快速球投手です。


沢村栄治とその時代
数々の伝説を残した沢村栄治の生涯と戦争などの時代を描いています


沢村栄治 裏切られたエース (文春新書)
[沢村賞」にその名を記す沢村栄治
六大学野球が全盛の時代に、家庭の経済的事情で職業野球(プロ野球)へ
沢村栄治本人は、六大学の慶大でのプレーを夢としていたそうです
日米野球での好投や職業野球での大活躍で「伝説の投手」となった一方で、旧制中学中退(今の高校中退)のため3度も兵役に就き、戦死してしまいます

1934年の大リーグ選抜相手に、完投9奪三振1失点(1失点はルー・ゲーリックの本塁打)で、0−1の惜敗
(大リーグ選抜の極東遠征)

プロ野球記録の3回のノーヒットノーラン

1試合15奪三振(9回)戦前最多

プロ野球初の投手5冠(防御率、勝率、勝利数、奪三振数、完封数で同一年にリーグトップ)などを記録しました。

奪三振では、「戦前の沢村、戦後の金田(正一)」(これにシーズン奪三振401の世界記録の江夏豊(参照))といわれます。

死後の1947年に沢村の功績と業績を称えて、沢村栄治賞(沢村賞)が設立されました。

同賞は、その年の最優秀投手に贈られます。(ただし先発のみ)


兵隊になった沢村栄治
戦争に追いやられた悲運の大投手・沢村栄治
なぜ沢村が戦争の犠牲になったかを描き出す

沢村栄治ー不滅の大投手
伝説の投手、沢村栄治について

沢村栄治ものがたりー南の海に消えたエース
沢村栄治の栄光と戦争の悲劇を追う

栄光なき天才たち9(ヤングジャンプコミック)
知られざる天才たちを追う
伝説の投手・沢村栄治についても収録

沢村栄治とその時代、戦場に散った野球人たちについては「沢村栄治とその時代」「戦場に散った野球人たち」で知ることが出来ます
沢村栄治ら多くの野球人が戦争を経験し犠牲となりました。


(参照)
江夏豊
左投左打
身長179センチ、体重90キロ
1948年5月15日−
投手
兵庫県出身・・・
大リーグの記録も上回るいわば「世界記録」ともいえるシーズン401奪三振や1971年のオールスターでの9連続奪三振、1979年の有名な「江夏の21球」の当事者です。
1967年に阪神に入団すると、1年目は12勝13敗・・・
奪三振王は、1年目から6年連続獲得・・・
投に2年目の1968年は、それまでの稲尾和久のシーズン353奪三振を上回るシーズン401奪三振・・・
タイとなる353個目と新記録の354個目を王貞治から奪って見せた・・・
1971年のオールスター第1戦で、江夏は、オールスター上限の3回9人の打者に9連続奪三振・・・
1973年8月30日、ノーヒットノーラン達成・・・
プロ野球史上初の延長戦での達成で、しかも最後は自らサヨナラ本塁打で決めている・・・
1976年に南海に移籍・・・
移籍1年目は先発だったが、2年目からリリーフ転向・・・
この転向は、当時南海の選手兼任監督の野村克也(参照)の「野球界に革命を起こそう」の説得が決め手だったといわれます・・・
1978年に広島に移籍・・・
1979年の近鉄との日本シリーズで土壇場のピンチを救い、広島の日本一に貢献・・・(「江夏の21球」)
この年はシーズンMVP・・・
翌年の1980年も広島の日本一に貢献・・・
1981年、日本ハム移籍・・・
日本ハムのリーグ優勝に貢献し、2回目のシーズンMVP・・・
1982年、200勝達成・・・
1984年、西武に移籍・・・
1985年、大リーグに挑戦するも、大リーグ昇格ならず、シーズン前に現役引退・・・

投手成績
通算18年、206勝158敗193セーブ、3196回、2987奪三振、防御率2.49

最優秀防御率1回(1969年)
最多勝2回(1968年・1973年)

奪三振王6回(1967年−1972年)※当時は表彰なし

最優秀救援投手5回
(1977年・1979年−1982年(タイ、他に赤堀元之、佐々木主浩(参照)

MVP2回(1979年・1981年)
沢村賞1回(1968年)
ベストナイン1回(1968年)
野球殿堂入り(日本)(1960年)
オールスターMVP3回(1970年第3戦、1971年第1戦、1980年代3戦)

ノーヒットノーラン1回(1973年8月30日)
シーズン401奪三振

(注)赤太字はプロ野球記録


(参照)
佐々木主浩

右投右打
身長190センチ、体重98キロ
1968年2月22日−
投手
宮城県出身・・・
「大魔人」ともいわれた抑え投手(守護神)・・・
大リーグで日本選手最多の129セーブ・・・
日本では史上3位の252セーブ・・・
日米通算381セーブ・・・
1990年に大洋に入団(1993年から横浜に球団名変更)・・・
2年目の1992年シーズン途中から抑え・・・
3年目の1992年に12勝6敗21セーブで最優秀救援投手・・・
1995年から1998年まで4年連続最多セーブ(32・25・38・45)で4年連続最優秀救援投手・・・
特に1998年は横浜の絶対的守護神(抑え)として横浜の日本一に貢献・・・
「ハマの大魔人」として一世を風靡・・・
2000年に大リーグのシアトル・マリナーズに移籍・・・
2000年−2002年までリーグトップでないものの3年連続シーズン30セーブ以上(37・45・37)・・・
2000年は新人王・・・
2003年に、名球会の規約変更に伴い名球会入り・・・
2004年に日本球界に復帰・・・横浜に移籍・・・
2005年に現役引退・・・
2014年に野球殿堂入り(日本)・・・

投手成績
(日本)
通算12年、43勝38敗252セーブ、627回2/3、851奪三振、防御率2.41
(アメリカ)
通算4年、7勝16敗129セーブ、223回1/3、242奪三振、防御率3.14

(日米通算)
通算16年、50勝54敗381セーブ、851回、1093奪三振、防御率2.60



(日本)
最優秀救援投手5回(1992年・1995年−1998年(タイ、他に江夏豊、赤堀元之)

MVP1回(1998年)
ベストナイン1回(1998年)
最優秀投手1回(1998年)
ファイヤマン賞5回(1992年、1995年−1998年)
野球殿堂入り(日本)(2014年)

シーズンセーブポイント 46
(1998年)
月間最多セーブ 14
(1997年8月)
連続試合セーブ 22
(1998年4月26日−同年6月30日)

(アメリカ)
新人王(2000年)


沢村栄治を知るおすすめ作品

■履歴
▼プロ入り前

沢村栄治・・・旧字体で澤村榮冶は、1917年2月1日に三重県で生まれます。

京都商業(現・京都学園高)の投手として、1933年春と1934年春・夏に高校野球全国大会(当時は中等野球)に出場

1試合23奪三振を記録するなど才能の片鱗を見せました。

▼全日本選抜
1934年の夏の大会終了後に、京都商業を中退し、大リーグ選抜との日米野球に全日本チームの一員として参加
(大リーグ選抜の極東遠征)

5試合に登板(うち4試合が先発)し、中でも11月20日の試合では、前述のように、完投9奪三振1失点に抑える(試合は0−1で惜敗)歴史的快投を見せます。

他の4試合の登板はめった打ちでしたが、この年の大リーグ選抜は、全日本の0勝16敗で、他の試合は大リーグ選抜の圧勝で、この頃は日米の実力の格差が大きく、沢村の快投は歴史的快挙といわれました。

沢村の1失点は、ルー・ゲーリック(参照)の本塁打で、カーブを投げる時に口を曲げる沢村の癖を見抜いたベーブ・ルースのカーブ狙いの指示によるものだとされます。

ちなみに、このときの相手投手・アール・ホワイトヒルは8奪三振でした。

その年の暮れに、このときの全日本を基礎に、「大日本東京野球倶楽部」(後の巨人)が設立され、沢村はこのチームに参加

▼プロ野球リーグ設立直前
プロ野球リーグが始まる前の1935年に第1次アメリカ遠征に参加・・・21勝8敗(1分)、313奪三振・・・(チームでは75勝33敗1分)

同年の国内巡業で22勝1敗、158回で187奪三振

沢村は1年間で43勝9敗、500奪三振!!

翌年の第2次アメリカ遠征は11勝11敗・・・(チームでは42勝33敗1分)

▼プロ野球リーグ
1936年夏にプロ野球リーグが始まり、同年秋に本格的にリーグ戦

そのリーグ戦(1936年秋)で、プロ野球史上初のノーヒットノーラン

同年12月の大阪タイガースとの優勝決定戦に3連投し、巨人の初優勝

1937年春には、防御率0.81、24勝で、プロ野球初のMVPに

さらに2回目のノーヒットノーラン

草創期の快速球投手として、景浦将とのライバル対決など名勝負を演じました。

しかし、兵役で、1938年から1940年までを棒に振り、手りゅう弾を投げて肩を痛め、さらには負傷・病気も重なり、復帰後は、これまでのオーバースローからサイドスローに転向

快速球投手から技巧派投手となり、3回目のノーヒットノーラン

その後、2回目の兵役で、1941年終盤から1942年を全て棒に振り、アンダースローに転向

しかし、兵役で身体はボロボロで、投手としては1943年7月6日が最後

同年10月24日の代打が公式戦最後の出場でした。

1944年シーズン前に巨人を解雇・・・現役引退

▼戦死
現役引退後の1944年10月に3回目の兵役

同年12月2日に、沢村を乗せた輸送船が撃沈され、戦死、享年27歳

プロ野球(当時は職業野球)の通算戦績・・・63勝22敗・防御率1.74

戦死後の1947年7月9日、背番号「14」は巨人の永久欠番に

同年に沢村賞を設立

1959年、野球殿堂入り

(参照)
ルー・ゲーリック
左投左打
身長183センチ、体重91キロ
1903年6月19日−1941年6月2日
一塁手
ニューヨーク州ニューヨーク出身
大リーグを代表する打者のひとり・・・
1923年の途中からヤンキースに入り、ベーブ・ルースの直接指導もあり、1925年にはレギュラーに・・・
順調に打撃成績を上げます・・・
1927年には、打率3割7分3厘・47本塁打・175打点で打点王・・・
ベーブ・ルースとのコンビは、「殺人打線」として他チームから恐れられます。
1934年に、打撃三冠王・・・
その後もヤンキースの主力として活躍します・・・
1934年の大リーグ選抜で、沢村栄治の快投の中で本塁打を打っています。
(試合は、1−0で大リーグ選抜の勝ち、ルー・ゲーリックの本塁打が両チーム唯一の得点)
打撃成績も素晴らしいが、頑丈で、「鉄の馬」「静かなる英雄」などといわれました・・・
2130試合連続出場をしますが、1939年に体調不良を訴え、自ら欠場を申し入れ、記録は途絶えます・・・
ゲーリックは、筋萎縮性側索硬化症を発症しており、引退を決意します。
ゲーリックの背番号「4」は、ヤンキースの永久欠番・・・
1939年、アメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算17年、2164試合、8001打数2721安打、493本塁打、1995打点、終身打率3割4分0厘

首位打者1回(1934年)
本塁打王3回(1931年・1934年・1936年)
打点王5回(1927年・1928年・1930年・1931年・1934年)

打撃三冠王1回(1934年)

MVP2回(1927年・1936年)

アメリカ野球殿堂入り(1939年)

通算満塁本塁打 23本
2130試合連続出場

■沢村の快速球
沢村の快速球は、2段にホップしたといわれます。

また、縦に落ちるカーブ(いわゆるドロップ)は3段に曲がって落ちたといわれます。

沢村の左足を大きく上げる投球フォームは、物理のてこの原理を応用したものといわれます。

沢村の球速は、時速159キロとも160キロともいわれます。

調べる条件が違うと、球速もまちまちで時速133キロとの結果もあります。

映像など資料が少なく、はっきりとした球速は不明ですが、同時代に沢村の投球を見た人は、凄い快速球だったと証言しています。

■幻の大リーグ入り
1935年に、アメリカ遠征で、何気なしにサインに応じた沢村

後に、セントルイス・カージナルス(ピッバーグ・パイレーツの説も・・・)のスカウトの大リーグの契約書と判明

あわてて、大リーグ入り阻止に奔走したといわれます。

■沢村の投球フォーム
左足を高く上げて投げる独特の投球フォームは、たまにしかやらなかったとも

また、このフォームは、大リーグのカール・ハッベル(参照)を参考にしたともいわれます。


(参照)
カール・ハッベル
左投右打
1903年6月22日−1988年11月21日
投手
ミズーリ州カルサグ出身・・・
1928年にノーヒット・ノーランと18勝・・・
1933年、23勝(うち10完封)、防御率1.66・・・ワールドシリーズで22回自責点0で2勝を挙げる・・・
1934年も防御率1位・・・
1936年、26勝・・・
その年から翌シーズンにかけ、大リーグ記録の24連勝・・・
1937年も22勝・・・
左投手独特のスクリューボールが武器で、「キング・カール」といわれる・・・
大リーグのオールスターは、カール・ハッベルとベーブ・ルースの対決の実現のファンの夢が起こりといわれている・・・
1934年のオールスターでハッベルがベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス(参照)、アル・シモンズ(参照)、ジョー・クローニン(参照)ら名選手を5人連続奪三振・・・
サンフランシスコ・ジャイアンツでつけていた背番号「11」は永久欠番・・・
1947年アメリカ野球殿堂入り・・・

投手成績
通算16年、253勝154敗33セーブ、3590回1/3、1677奪三振、防御率2.98

最優秀防御率3回(1933年・1934年・1936年)
最多勝3回(1933年・1936年・1937年)
奪三振王1回(1937年)

MVP2回(1933年・1936年)

ノーヒットノーラン1回(1929年5月8日)
24連勝

アメリカ野球殿堂入り(1947年)

(参照)
ジミー・フォックス
右投右打
身長183センチ、体重88.5キロ
1907年12月22日−1967年7月21日
一塁手
メリーランド州サンドーラスビル出身
戦前・戦後を代表する打者・・・
ジミー・フォックスことジェームズ・エモリー・フォックスは、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリックと並ぶ1930年代の強打者・・・
一塁手・・・
1933年に打撃三冠王を獲得・・・
アル・シモンズとのコンビで、フィラデルフィア・アスレチックスを1929年・1930年のワールドシリーズ制覇に導く・・・
1932年は、ルースの現役時代には無かった高いフェンスの最上部直撃に本塁打を5本阻まれたり、ノーゲームになった試合でも本塁打を2本打っており、この年が58本塁打なので、可能性としては、ルースのシーズン60本塁打の記録を上回っている・・・
1934年の大リーグ選抜の極東遠征(ほとんどが日本遠征)のメンバー・・・
1936年にボストン・レッドソックスに移籍・・・
打撃成績が順調に伸びたが、1941年以後からはアルコール依存症などで、失速した・・・
もし、アルコールなどに溺れなければ、ルースの通算714本塁打も抜いていた可能性があります・・・
気前がよく、生活に無頓着で、晩年は失業保険で生活していたといわれる・・・
1945年にフィラディルフィア・フィリーズに移籍・・・戦争中で投手不足で9試合に登板・・・
この年で現役引退・・・
1951年、アメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算20年、2317試合、8134打数2646安打、534本塁打、1922打点、終身打率3割2分5厘

首位打者2回(1933年・1938年)
本塁打王4回(1932年・1933年・1935年・1939年)
打点王3回(1932年・1933年・1938年)

打撃三冠王1回(1933年)

MVP3回(1932年・1933年・1938年)

アメリカ野球殿堂入り(1951年


参照)
アル・シモンズ
右投右打
身長200センチ、体重200キロ
1902年5月22日−1956年5月26日
外野手
ウィンスコンシン州ミルウォーキー出身
アル・シマンスキことアル・シモンズは、独特のバッテングフォームがバケツに足を突っ込んでいるように見えたため、「バケットフット」といわれました・・・
1924年にフィラデルフィア・アスレックスで大リーグデビュー・・・
1年目から打率3割・100打点以上を記録・・・
1925年には、打率3割8分7厘・24本塁打・129打点・・・
ジミー・フォックスとのコンビで、1929年・1930年のワールドシリーズ制覇・・・
1929年、打点王・・・
1930年・1931年は首位打者・・・
1934年にシカゴ・ホワイトソックスへ移籍・・・
その後、いくつかのチームへ移籍し、1944年に現役引退・・・
1953年、アメリカ野球殿堂入り・・・

打撃成績
通算20年、2215試合、8759打数2927安打、307本塁打、1922打点、終身打率3割3分4厘

首位打者2回(1930年・1931年)
打点王1回(1929年)

アメリカ野球殿堂入り(1953年


(参照)
ジョー・クローニン
右投右打
身長181.5センチ、体重81.5キロ
1906年10月12日−1964年9月7日
遊撃手
カリフォルニア州サンフランシスコ出身
1926年に、ピッツバーグ・パイレーツから大リーグデビュー・・・
1929年、ワシントン・セネタースに移籍・・・
1930年、打率3割4分6厘・126打点・・・
この年から5年連続100打点以上・・・
1933年から兼任監督・・・
1935年、ボストン・レッドソックスに移籍・・・(移籍後も監督は現役引退後の1947年まで)
1945年に現役引退・・・
1956年、アメリカ野球殿堂入り・・・
1984年に死去し、同年にレッドソックスは、彼の背番号「4」を永久欠番に・・・

打撃成績
2124試合、7579打数2285安打、170本塁打、1424打点、終身打率3割0分1厘

アメリカ野球殿堂入り(1956年)

監督としての成績
通算15年、1位2回 1933年・1934年ワシントンセネタース(最高位1位)、1935年ー1947年ボストン・レッドソックス(最高位1位)


■走るんや
1943年に、別所毅彦(当時は昭)(参照)の速球を投げるためにはの質問に対し、沢村は「走るんや、別所君」とアドバイスしています。

当時は「投げ込み」が重視されていましたが、「走り込み」の重要性を説いています。

当時としては先進の考えだったのではないでしょうか。

後の大投手・金田正一もトレーニングでは「走り込み」を重視しています。


参照)
別所毅彦
右投右打
身長181センチ、体重85キロ
1922年10月1日−1999年6月24日
投手
兵庫県出身・・・
1942年、南海に入団・・・
1943年5月26日、ノーヒットノーラン・・・
1947年、プロ野球記録の47完投で30勝、191奪三振・・・最多勝、奪三振王・・・
1948年も26勝10敗、勝率7割2分2厘で最高勝率でしたが、「別所引き抜き」で巨人へ・・・
1952年、33勝で最多勝・・・
1955年、防御率1.33で最優秀防御率・・・
1956年、27勝で最多勝・・・
1960年に、ヴィクトル・スタルヒンの通算勝利(303勝)のプロ野球記録(当時)を更新(通算310勝)・・・(現在=2015年9月1日現在の通算勝利のプロ野球記録は金田正一の400勝・・・)
このシーズンで現役引退・・・
1979年、野球殿堂入り(日本)・・・

投手成績
通算17年、310勝178敗、4350回2/3、1934奪三振、防御率2.18

監督成績
通算3年、4位1回

最優秀防御率1回(1955年)
最高勝率1回(1948年)
最多勝3回(1947年・1952年・1956年)
奪三振王1回(1947年)※当時は表彰なし

最優秀選手(シーズンMVP)2回(1952年・1956年)
沢村賞2回(1957年・1955年)
ベストナイン6回(1947年・1948年・1951年・1952年・1955年・1956年)
日本シリーズMVP2回(1952年・1955年)

野球殿堂入り(日本)(1979年)

ノーヒットノーラン1回(1943年5月26日)
シーズン47完投

■ライバル
「投の沢村栄治、打の景浦将(参照)」の戦前を代表するスラッガーが景浦将です。

参照:景浦将

(戦前では、1936年秋の景浦将と1937秋の御園生崇男(参照)が、最高勝率1.000(10割)でプロ野球記録です)


(参照)
御園生崇男
右投右打
身長170センチ、体重71キロ
1916年1月16日−1965年7月10日
投手、一塁手、外野手
山口県出身・・・
関大を中退し、1936年、大坂に入団・・・
1937年秋に11勝0敗で勝率1.000(10割)で最高勝率・・・
1938年春も勝ち続け、1敗はしたものの、10勝1敗で勝率9割0分0厘で最高勝率・・・
連勝は、1937春から18連勝・・・
1940年兵役・・・
1941年に復帰・・・
1944年までプレー・・・
戦後は1946年に大阪で復帰・・・
1947年に18勝6敗、勝率7割5分0厘で4回目の最高勝率・・・
1951年に現役引退・・・この間打者でも・・・
ピッチングは、快速球投手で野蛮だったともコントロールのよい技巧派で温厚だったとも・・・
風貌からは、眼鏡をかけたインテリ風で、イメージは技巧派の温厚な人物のように見えます・・・
(個人的には技巧派で温厚だったように思います)
現役引退後は、コーチや二軍監督を歴任・・・
退団後は、ラジオの解説者・・・
1965年7月10日に死去・・・

投手成績
通算14年、127勝70敗、勝率6割4分5厘、1708回、477奪三振、防御率2.39

打撃成績
通算14年、891試合、2062打数506安打、5本塁打、247打点、終身打率2割4分5厘

最高勝率3回(1937年秋・1938年春・1947年)※1939年の勝率1位は御園生だが、タイトルは若林忠志(参照)

シーズン勝率10割
(1937年秋)
18連勝(期間は不明)

(注)赤太字はプロ野球記録


(参照)
若林忠志

右投右打
身長175センチ、体重78キロ
1903年3月1日−1965年3月5日
投手
アメリカ・ハワイ準州出身・・・
ハイスクール生ながら実業団チームに選ばれ来日・・・
日本で法大に進学するため、旧制本牧中学(現・横浜高)に編入・・・同校を卒業し法大へ進学・・・
3年になり、肩を痛めサイドスロー転向・・・
速球投手から変化球投手に・・・
リーグ戦通算87試合登板(リーグ記録)、43勝28敗の成績を残す・・・
日本コロンビアの「川崎コロンビア」という実業団チームへ・・・
1936年に大阪に入団・・・
若林が背番号「18」でエースとしてプレー・・・
(以後はエースナンバー「18」が定着・・・)
入団時はすでに28歳だったが、「七色の変化球」で45歳まで現役・・・
1939年に防御率1.09で最優秀防御率・・・
生涯成績でシーズン20勝以上を6回記録・・・
(1939年・28勝、1940年・22勝、1942年・26勝、1943年・24勝、1944年・22勝、1947年・26勝)
1942年から1944年まで兼任監督・・・
1944年は22勝4敗・勝率8割4分6厘・防御率1.56で最優秀防御率・最高勝率・最多勝・・・
戦後は1946年から・・・
1947年から1949年まで兼任監督・・・
1949年に41歳で15勝・・・
1950年に毎日に移籍・・・
毎日の日本一に貢献・・・
1953年に現役引退・・・
毎日時代も兼任監督だったが、実指揮は1951年から1952年まで総監督に握られていた・・・
1952年のシーズン途中二軍監督に・・・
その後もコーチなどに・・・
1964年、野球殿堂入り(日本)・・・

投手成績
通算16年、237勝144敗、3557回1/3、1000奪三振、防御率1.99

監督成績
通算7年、1位2回

最優秀防御率2回(1939年・1944年)
最高勝率2回(1939年・1944年)
最多勝1回(1944年)

MVP2回(1944年・1947年)

野球殿堂入り(日本)(1964年)


■沢村の速球対策
1936年秋に、沢村栄治の快速球に完敗だった大阪は、報道陣をシャットアウトする「秘密練習」で、沢村の速球を攻略するため、チームの速球投手をマウンドの手前から投げさせた

チームの主将となった松木謙冶郎(参照)と景浦将が打の中心

投の中心は西村幸生(参照)

1937年春は抑えられたが、同年秋に成果が現れ、沢村を攻略し、年度優勝決定戦でも、巨人及び沢村を攻略し、大阪が初の日本一


(参照)
松木謙冶郎

左投左打
身長173センチ、体重79キロ

1909年1月22日−1986年2月21日
一塁手
福井県出身
戦前を代表する強打者の一人・・・
1936年、明大より大阪に入団・・・
大阪の初代主将となり、1936年秋には前述の完敗した沢村栄治の速球対策の「秘密練習」を行う・・・
その成果は、1937年春には出ず、沢村にまたも抑えられたが、同年秋に出て、沢村を攻略・・・
年度優勝決定戦でも、巨人及び沢村を攻略し、大阪が初の日本一に・・・
1937春には、打率3割3分8厘・4本塁打で、首位打者と本塁打王・・・
1940年より兼任監督・・・
1941年に現役引退・・・引退後は監督も退任に・・・
1943年8月より兵役・・・
実業団チームも経験・・・
1950年、大阪の監督兼任・・・
1951年に2回目の現役引退・・・
監督専任で1954年まで
1955年、大映スターズの打撃コーチになり、1956年途中から1957年まで監督・・・
1958年から1960年は東映フライヤーズの打撃コーチ・・・
1961年から1968年は解説者・・・
1969年から1970年途中まで東映の監督・・・
東映の監督の後は再び解説者・・・
1978年、野球殿堂入り(日本)・・・

打撃成績
通算8年、479試合、1706打数448安打、18本塁打、224打点、終身打率2割6分3厘

監督としての成績
通算15年

首位打者1回(1937年春)
本塁打王2回(1937年春)

野球殿堂入り(日本)(1978年)

(参照)
西村幸生

右投右打
身長167センチ、体重64キロ
1910年11月20日−1945年4月3日
投手
三重県出身・・・
中等学校時代は1928年夏の地方予選でノーヒットノーラン・・
実業団を経て、関大に進学・・・
1937年に阪神に入団・・・
1937年春は巨人に勝てなかったが、同年秋には15勝3敗・防御率1.48で、最優秀防御率と最多勝・・・
年度優勝決定戦でも日本一に大きく貢献・・・
1938年春も防御率1.53で最優秀防御率・・・
この年も年度優勝決定戦で日本一に大きく貢献・・・
1939年、現役引退・・・
1977年、野球殿堂入り(日本)
コントロールが抜群だったといわれ、主戦投手をもじって「酒仙投手」ともいわれました・・・
そのため、酒好きで、あまり練習をしないイメージでしたが、いわれるほど酒好きの酒豪ではなく、人一倍走り込みなどをしていたとの証言も・・・

投手成績
通算3年、55勝21敗、733回1/3、394奪三振、防御率2.01

最優秀防御率2回(1937年秋・1938年春)
最多勝1回(1937年春)

野球殿堂入り(日本)(1977年)


■その他
アメリカでサインを求められると、当時の人気女優・「田中絹代」の名前をたびたび書いていたそうです。

また、アメリカで酔っ払いからのサインの要求には「馬鹿野郎」と書いたことも

「わしは、まっつぐ(まっすぐ)が好きや」が口癖だったそうです。

1940年の暮れ、軍隊へ入隊が近づいた弟に、手紙で「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ。苦しい、そして誰にもいえないことはこの俺にいってくれ」と述べたそうです。

京都商業卒業後は、慶応大学への推薦入学がほぼ決まっていましたが、巨人が強引に口説いて、京都商業を中退させ、巨人入りさせました。

3回も兵役に就いたのは、中等学校中退の学歴にあったとの説があります。

普段は無口でしたが、1944年に長女が生まれると、大喜びではしゃいでいたといわれます。

妻へ宛てた最期の手紙には「生きて帰れたらいい父親になる」と書かれていたといいます。
(ちなみに、長女は現在愛媛県在住)

■総評
戦争のため、全盛期の活躍した時期は非常に短かったですが、プロ野球草創期の伝説の快速球投手です。


■年度別投手成績
球団 登板 勝利 敗戦 S  勝率  被安打 与四死球 奪三振 失点 自責点 防御率
※1 巨人 .500 17 16 5・0 11 12 2.12
※2 巨人 15 13 .867 120.1 63 58・2 112 24 14 1.05
※3 巨人 30 24 .857 244 138 68・2 196 47 22 0.81
※4 巨人 20 .600 140 99 53・1 129 50 37 2.38
1940 巨人 12 .875 79.1 44 47・1 31 26 23 2.59
1941 巨人 20 .643 153.2 108 58・2 73 37 35 2.05
1943 巨人 .000 11 17 12・0 17 13 ※5
  105 63 22 .741 765.1 485 301・8 554 ※6 148 1.74
(注)通算5年
(注)Sはセーブ、Hはホールド
(注)回の少数点の1は1/3、2は2/3
(注)与四死球は、四球数・死球数
(注)年度の黒太字はリーグ1位

※1 1936夏
※2 1936秋
※3 1937春
※4 1937秋
※5 10.64
※6 213失点

■投手
□主なタイトル
最優秀防御率1回(1937年春)
最高勝率1回(1937年春)
最多勝2回(1936年秋・1937年春)
奪三振王2回(1937年春・1937年秋、当時は表彰なし)

□投手5冠王(1937年春)
※投手5冠(防御率・勝率・勝利数・奪三振数・完封数で同一年にリーグトップ)

□主な表彰(現役時代)

最高殊勲選手(後のMVP)1回(1937年春)

□主な記録
ノーヒットノーラン3回(1936年9月25日・1937年5月1日・1940年7月6日)

(注)赤太字はプロ野球記録

□特記事項
野球殿堂入り(日本)1959年


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関連記事:いろいろなスポーツの主要記録(野球の項目を参照)



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