金田正一 |
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■金田正一■野球選手■400勝投手 左投左打 身長184センチ、体重73キロ 1933年8月1日−2019年10月6日 金田正一(かねだ・まさいち)は、日本プロ野球史上最多の通算400勝を挙げます。 (通算298敗も日本プロ野球最多) 現役引退後は、ロッテの監督や日本プロ野球名球会初代会長、解説者などを務めました。 「カネやん」などの愛称で知られ、少年時代は長身から「電柱」「割りばし」、プロでは、圧倒的実力・実績と豪快な性格などから「巨人キラー」「天皇」ともいわれました。 (巨人戦の65勝(72敗)は、歴代1位) 実弟は、3人が元プロ野球選手だが、1軍経験があるのは留広のみ・・・ 息子は俳優の金田賢一で、甥に元プロ野球選手の金石昭人がいます。 時速150キロをはるかに超えていたといわれる速球と縦に落ちるカーブ(ドロップ)が主体 晩年はフォークなども使い、稀にシュートや超スローボールも投げたが、全盛期はほとんど速球とカーブだけで勝負しました。 金田の記録で特徴的なのは、400勝というプロ野球記録もすごいが、奪三振の多さが挙げられます。 通算奪三振4490は、もちろんプロ野球記録で、当時の世界記録でもありました。 (現在の通算奪三振の世界記録はノーラン・ライアンの5714) 奪三振の多さから日本プロ野球では「戦前の沢村栄治、戦後の金田正一」(さらにシーズン奪三振世界記録401の江夏豊(参照))といわれました。 これは全盛期のほとんどを弱小だった国鉄(現・ヤクルト)で過ごしたため、エラーも関係ない奪三振奪取に注力したためです。 (国鉄は「打てない(打てば三振・超貧打)、守れない(守れば、エラーをする)」弱小チームでした) 頼りになるのは、奪三振だけだったのです。 (参照) 江夏豊 左投左打 身長179センチ、体重90キロ 1948年5月15日− 投手 兵庫県出身・・・ 大リーグの記録も上回るいわば「世界記録」ともいえるシーズン401奪三振や1971年のオールスターでの9連続奪三振、1979年の有名な「江夏の21球」の当事者です。 1967年に阪神に入団すると、1年目は12勝13敗・・・ 奪三振王は、1年目から6年連続獲得・・・ 投に2年目の1968年は、それまでの稲尾和久のシーズン353奪三振を上回るシーズン401奪三振・・・ タイとなる353個目と新記録の354個目を王貞治から奪って見せた・・・ 1971年のオールスター第1戦で、江夏は、オールスター上限の3回9人の打者に9連続奪三振・・・ 1973年8月30日、ノーヒットノーラン達成・・・ プロ野球史上初の延長戦での達成で、しかも最後は自らサヨナラ本塁打で決めている・・・ 1976年に南海に移籍・・・ 移籍1年目は先発だったが、2年目からリリーフ転向・・・ この転向は、当時南海の選手兼任監督の野村克也(参照)の「野球界に革命を起こそう」の説得が決め手だったといわれます・・・ 1978年に広島に移籍・・・ 1979年の近鉄との日本シリーズで土壇場のピンチを救い、広島の日本一に貢献・・・(「江夏の21球」) この年はシーズンMVP・・・ 翌年の1980年も広島の日本一に貢献・・・ 1981年、日本ハム移籍・・・ 日本ハムのリーグ優勝に貢献し、2回目のシーズンMVP・・・ 1982年、200勝達成・・・ 1984年、西武に移籍・・・ 1985年、大リーグに挑戦するも、大リーグ昇格ならず、シーズン前に現役引退・・・ 投手成績 通算18年、206勝158敗193セーブ、3196回、2987奪三振、防御率2.49 最優秀防御率1回(1969年) 最多勝6回(1968年・1973年) 奪三振王6回(1967年−1972年)※当時は表彰なし 最優秀救援投手5回(1977年・1979年−1982年(タイ、他に赤堀元之、佐々木主浩(参照)) MVP2回(1979年・1981年) 沢村賞1回(1968年) ベストナイン1回(1968年) 野球殿堂入り(日本)(1960年) オールスターMVP3回(1970年第3戦、1971年第1戦、1980年代3戦) ノーヒットノーラン1回(1973年8月30日) シーズン401奪三振 (注)赤太字はプロ野球記録 (参照) 野村克也 右投右打 身長175センチ、体重85キロ 1935年6月29日− 捕手 京都府出身 戦後初の打撃三冠王・・・ プロ野球初の3000試合出場・・・ 野球の無名高校から1954年に南海にテスト生で入団・・・ 1955年は2軍で、1956年からレギュラー・・・ 1957年に本塁打王・・・ 1961年から8年連続本塁打王・・・ 1962年から6年連続打点王・・・ 1963年にパ・リーグ記録の52本塁打・・・ 1965年に戦後初の打撃三冠王(打率3割2分0厘・42本塁打・110打点)・・・ 1978年にロッテ移籍・・・ 1979年に西武移籍・・・ 1980年に現役引退・・・ 1989年に野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算26年、3017試合、10472打数2901安打、657本塁打、1988打点、終身打率2割7分7厘 監督としての成績 通算24年 南海 1970年−1977年(最高位1位1回)兼任監督 ヤクルト 1990年−1997年(最高位1位4回) 日本一3回 阪神 1998年−2001年(最高位6位3回) 楽天 2006年−2009年(最高位2位1回) 首位打者1回(1965年) 本塁打王8年連続含む9回(1957年、1961年−1968年、) 打点王6年連続含む7回(1962年−1967年、1972年) 打撃三冠王1回(1965年) MVP5回(1961年・1963年・1965年・1966年・1973年) ベストナイン19回(1956年−1968年、1970年−1973年、1975年、1976年) ダイヤモンドグラブ賞1回(1973年) オールスターMVP2回(1972年第1戦、1977年第2戦) 野球殿堂入り(日本)(1989年) 通算犠飛 113 通算併殺打 378 通算本塁打 657本 通算サヨナラ本塁打 11本 通算サヨナラ安打 19本 逆転満塁サヨナラ本塁打(1966年5月14日) (注)赤太字は、プロ野球記録 (注)黒太字は、パ・リーグ記録 (野村克也が戦後初の打撃三冠王なら、戦前に打撃三冠王になったのが、中島治康(参照)です) (参照) 中島治康 右投右打 身長175センチ、体重73キロ 1909年6月28日−1987年4月21日 右翼手 長野県出身 戦前を代表する強打者で、戦前に打撃三冠王になったプロ野球初の打撃三冠王・・・ 旧制松本商業(現・松商学園)のエースで、1928年の夏の甲子園の優勝投手・・・ 早大(この進学で野手に転向)から藤倉電鉄を経て、大日本東京野球倶楽部(後の巨人)に入団・・・ 球団が巨人となり、そのままプレーし、1938年秋に、打率3割6分1厘・10本塁打・38打点で、戦前・プロ野球初の打撃三冠王・・・ 1950年、大洋に移籍・・・ 1951年、現役引退・・・ 1963年、野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算14年、871試合、3296打数889安打、57本塁打、493打点、終身打率2割7分0厘 監督としての成績 通算5年 巨人 1943年・1946年・1947年・1949年(最高位1位2回)兼任監督 (1946年は6月13日からシーズン終了まで) (1947年は開幕から6月2日まで) (1949年は4月16日から7月20日までの三原脩の監督代理) 大洋 1951年(最高位6位1回) 首位打者2回(1938年春・1938年秋) 本塁打王2回(1937年春・1938年秋) 打点王4回(1937年秋・1938年秋・1940年・1942年)※当時は表彰なし 打撃三冠王1回(1938年秋) 最高殊勲選手(MVP)1回(1938年秋) ベストナイン1回(1940年) 野球殿堂入り(日本)(1963年) 5試合連続本塁打(1938年10月11日−10月22日) (参照) 佐々木主浩 右投右打 身長190センチ、体重98キロ 1968年2月22日− 投手 宮城県出身・・・ 「大魔人」ともいわれた抑え投手(守護神)・・・ 大リーグで日本選手最多の129セーブ・・・ 日本では史上3位の252セーブ・・・ 日米通算381セーブ・・・ 1990年に大洋に入団(1993年から横浜に球団名変更)・・・ 2年目の1992年シーズン途中から抑え・・・ 3年目の1992年に12勝6敗21セーブで最優秀救援投手・・・ 1995年から1998年まで4年連続最多セーブ(32・25・38・45)で4年連続最優秀救援投手・・・ 特に1998年は横浜の絶対的守護神(抑え)として横浜の日本一に貢献・・・ 「ハマの大魔人」として一世を風靡・・・ 2000年に大リーグのシアトル・マリナーズに移籍・・・ 2000年−2002年までリーグトップでないものの3年連続シーズン30セーブ以上(37・45・37)・・・ 2000年は新人王・・・ 2003年に、名球会の規約変更に伴い名球会入り・・・ 2004年に日本球界に復帰・・・横浜に移籍・・・ 2005年に現役引退・・・ 2014年に野球殿堂入り(日本)・・・ 投手成績 (日本) 通算12年、43勝38敗252セーブ、627回2/3、851奪三振、防御率2.41 (アメリカ) 通算4年、7勝16敗129セーブ、223回1/3、242奪三振、防御率3.14 (日米通算) 通算16年、50勝54敗381セーブ、851回、1093奪三振、防御率2.60 (日本) 最優秀救援投手5回(1992年・1995年−1998年(タイ、他に江夏豊、赤堀元之) MVP1回(1998年) ベストナイン1回(1998年) 最優秀投手1回(1998年) ファイヤマン賞5回(1992年、1995年−1998年) 野球殿堂入り(日本)(2014年) シーズンセーブポイント 46(1998年) 月間最多セーブ 14(1997年8月) 連続試合セーブ 22(1998年4月26日−同年6月30日) (アメリカ) 新人王(2000年) □金田正一を知るおすすめ作品 ■履歴 ▼プロ入り前 金田正一は、在日朝鮮人の子として、1933年8月1日に愛知県で生まれます。 朝鮮名は、金慶弘(キム・ギョンホン) (1959年に日本へ帰化) 名古屋市立大曽根中在学中に野球を始め、電気の専門学校を経て、1948年5月に亨栄商業(現・亨栄高)に編入入学 同校野球部に入部します。 そこで野球部の部長で監督の芝茂夫と出会い、徹底的な走り込みによる「走るトレーニング」を教わります。 金田正一の走り込みによるトレーニングの原点ですね 同年夏に、補欠で甲子園に出場します。 翌年にはエースになったものの、春夏とも予選敗退 コントロールに難はあったものの、快速球と鋭い落ちるカーブ(ドロップ)で評判となります。 1950年3月にプロ野球の国鉄スワローズンにスカウトされ、3年夏の予選で敗退すると、高校を中退し、シーズン途中で国鉄に入団します。 ▼現役時代 国鉄は新人の金田を積極的に使い、この年はシーズン途中の8月デビューながら8勝を挙げます。 2年目の1951年は22勝し、さらにノーヒットノーラン(最年少)を達成します。 (2年目から14年連続20勝以上) 1954年、審判への暴言で退場 1957年には、完全試合を達成 左投手の完全試合は、現在(2015年8月14日現在)まで日本プロ野球で金田だけです。 1958年は、開幕戦で「ゴールデン・ボーイ」といわれた大物新人・長嶋茂雄から4打席4奪三振 金田は、この勝負に完勝しますが、全てフルスイングの三振とバットスピードなどに末恐ろしさを感じたといわれます。 (実際、この感覚の予感は的中し、その後、長嶋は「ミスタープロ野球」として球界を代表する打者になります) 長嶋も金田のカーブの切れ、落差の鋭さなどに驚いたといわれます。 なお、次の対戦でも金田は長嶋茂雄から奪三振しており、デビューから5打席連続奪三振 その後、長嶋は、金田から打率3割1分3厘、18本塁打を記録し、金田から最も本塁打を打った打者となっています。 ちなみに、王貞治のデビュー戦も金田で、3打席2奪三振1四球に抑えています。 王との対戦では、打率2割8分3厘、13本塁打でした。 同年に通算200勝を史上最年少で達成・・・同年は64回1/3無失点のプロ野球記録も作り、防御率1.30、31勝(14敗)、311奪三振で、いわゆる投手三冠(最優秀防御率、最多勝、奪三振王)になっています。 1962年に、当時のウォルター・ジョンソン(参照)の通算奪三振世界記録の3508奪三振を上回る3509奪三振を達成・・・ (現在の通算奪三振記録はノーラン・ライアン(参照)の5714奪三振) 1963年、通算311勝目を挙げ、別所毅彦(参照)の当時のプロ野球記録310勝を上回ります。 前述のように、2年目の1951年から1964年まで14年連続20勝以上 1965年、当時のB級10年選手制度を行使して、巨人に移籍 巨人は好投手も揃っていたので、金田は国鉄時代のように多く勝ち星を挙げられなかったものの、巨人の監督だった川上哲治は、金田のプライドを尊重する使い方をしました。 1965年に乱闘騒動で2回目の退場 1969年に通算400勝を達成し、同年限りで引退 (参照) 別所毅彦 右投右打 身長181センチ、体重85キロ 1922年10月1日−1999年6月24日 投手 兵庫県出身・・・ 1942年、南海に入団・・・ 1943年5月26日にノーヒットノーラン・・・ 1947年、プロ野球記録の47完投で30勝、191奪三振・・・最多勝、奪三振王・・・ 1948年も26勝10敗、勝率7割2分2厘で最高勝率でしたが、「別所引き抜き」で巨人へ・・・ 1952年、33勝で最多勝・・・ 1955年、防御率1.33で最優秀防御率・・・ 1956年、27勝で最多勝・・・ 1960年に、ヴィクトル・スタルヒンの通算勝利(303勝)のプロ野球記録(当時)を更新(通算310勝)・・・(現在=2015年9月1日現在の通算勝利のプロ野球記録は金田正一の400勝・・・) このシーズンで現役引退・・・ 1979年、野球殿堂入り(日本)・・・ 投手成績 通算17年、310勝178敗、4350回2/3、1934奪三振、防御率2.18 監督成績 通算3年、4位1回 最優秀防御率1回(1955年) 最高勝率1回(1948年) 最多勝3回(1947年・1952年・1956年) 奪三振王1回(1947年)※当時は表彰なし 最優秀選手(シーズンMVP)2回(1952年・1956年) 沢村賞2回(1957年・1955年) ベストナイン6回(1947年・1948年・1951年・1952年・1955年・1956年) 日本シリーズMVP2回(1952年・1955年) 野球殿堂入り(日本)(1979年) ノーヒットノーラン1回(1943年5月26日) シーズン47完投 (参照) ウォルター・ジョンソン 右投右打 身長185.5センチ、体重91キロ 1887年11月7日−1946年12月10日 投手 アメリカ・カンサス州出身・・・ 1907年にワシントン・セネタースと契約し、1年目は5勝9敗ながら防御率1.88・・・ 1910年に25勝(17敗)で313奪三振で奪三振王・・・・・・ 1911年は25勝、1912年は33勝で防御率1.39と303奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・ 1913年は36勝で防御逸1.14と243奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 1914年は28勝で225奪三振で最多勝と奪三振王・・・ 1915年は27勝で203奪三振で最多勝と奪三振王・・・ 1916年は25勝で228奪三振で最多勝と奪三振王・・・ 1917年は23勝で188奪三振で奪三振王・・・ 1918年は23勝で防御率1.27と162奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 1919年は20勝で防御率1.49と147奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・ 1921年は143奪三振で奪三振王・・・ 1923年は130奪三振で奪三振王・・・ 1924年は23勝で防御率2.72、158奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 1925年も20勝しましたが無冠・・・ 1924年・1925年はセネタースのリーグ2連覇に貢献・・・ 1926年・1927年は15勝・5勝で1927年に現役引退・・・に 1936年、アメリカ殿堂入り(設立され最初に殿堂入りした5人のうちの1人) 現役引退後は、セネタースで4年・クリーブランド・インディアンズで3年監督・・・ 投手成績 通算21年、417勝279敗、5914回1/3、3508奪三振、防御率2.17 打撃成績 933試合、2324打数547安打、24本塁打、255打点、終身打率2割3分5厘 監督成績 通算7年、2位1回 最優秀防御率5回(1912年・1913年・1918年・1919年・1924年) 最多勝6回(1913年−1916年、1918年・1924年) 奪三振王12回(1910年、1912年−1919年・1921年・1923年・1924年) 投手3冠3回(1913年・1918年・1924年、タイ) アメリカンリーグ最優秀選手(MVP)2回(1913年・1924年) アメリカ野球殿堂入り((1936年) 通算完封110 (注)赤太字は大リーグ記録 (参照) ノーラン・ライアン 右投右打 身長188センチ、体重88.5キロ 1947年1月31日− 投手 アメリカ・テキサス州レフォージオ出身・・・ ノーラン・ライアンことリン・ノーラン・ライアン・ジュニアは大リーグを代表する奪三振王の一人です・・・ 1965年に、ニューヨーク・メッツ入団・・・ 1966年に大リーグ昇格・・・ 1969年、ワールドシリーズ制覇・・・ 1972年にカリフォルニア・エンゼルス移籍・・・ 同年に329奪三振で奪三振王・・・ 1973年にシーズン383奪三振の大リーグ記録で奪三振王・・・ (これまでは1965年のサンディー・コーファックス(参照)のシーズン382奪三振が大リーグ記録・・・) 同年5月15日に1回目のノーヒットノーラン・・・ 同年7月15日に2回目のノーヒットノーラン(17奪三振)・・・ 1974年に367奪三振で奪三振王・・・ 同年8月12日に大リーグタイ記録(当時)の19奪三振・・・ 同年8月20日に球速測定で時速100.9マイル(約時速162.4キロ)のギネス記録・・・ 同年9月28日に3回目のノーヒットノーラン(15奪三振)・・・ 1975年6月1日に4回目のノーヒットノーランでサンディー・コーファックスの大リーグ記録と並ぶ・・・ 1976年に327奪三振で奪三振王・・・ 1977年に341奪三振で奪三振王・・・ 1978年に260奪三振で奪三振王・・・ 1979年に223奪三振で奪三振王・・・ 1980年にヒューストン・アストロズ移籍・・・ 1981年は防御率1.69で最優秀防御率・・・ 同年9月26日に大リーグ記録の5回目のノーヒットノーラン・・・ 1983年にウォルター・ジョンソンの通算3508奪三振の大リーグ記録を更新・・・ 1987年に2.76、防御率270奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・ 1988年に228奪三振で奪三振王・・・ 1989年にテキサス・レンジャーズ移籍・・・ 1989年は301奪三振で奪三振王・・・ 1990年は232奪三振で奪三振王・・・ 同年6月11日に6回目のノーヒットノーラン・・・ 1991年5月1日に7回目のノーヒットノーラン(16奪三振)・・・ 1992年にエンゼルス時代の背番号「30」が永久欠番に・・・ 1993年に現役引退・・・46歳にして球速は時速98マイル(約時速157.7キロ)・・・ 1996年にアストロズとレンジャーズでの背番号「34」が永久欠番・・・ 1999年にアメリカ野球殿堂入り・・・ アストロズやレンジャーズに関わり、現在はアストロズのエグゼクティブ・アドバイザー・・・ ノーラン・ライアンはアストロズ時代にロジャー・クレメンス(参照)、シアトル・マリナーズ時代のランディ・ジョンソン(参照)と関わっています・・・ 投手成績 通算27年、324勝292敗3セーブ、5386回、5714奪三振、防御率3.19 最優秀防御率2回(1981年・1987年) 奪三振王11回(1972年−1974年、1976年−1979年、1987年−1990年) アメリカ野球殿堂入り((1999年) ノーヒットノーラン7回(1973年5月15日・1973年7月15日・1974年9月28日・1975年6月1日・1981年9月26日・1990年6月11日・1991年5月1日) シーズン奪三振 383(1973年) 通算奪三振 5714 通算与四球 2795 通算暴投 277 (注)赤太字は大リーグ記録 (参照) サンディー・コーファックス 左投左打 身長188センチ、体重95.5キロ 1935年12月30日− 投手 アメリカ・ニューヨーク州ブルックリン出身・・・ サンディー・コーファックスことサンフォード・ブラウン・コーファックスは、出生時の名はサンフォード・ブラウンだったが、両親が離婚し、母がアール・コーファックスと再婚したため、コーファックスの姓を名乗るようになります・・・ 1954年12月にブルックリン・ドジャースと契約・・・ 1955年に大リーグに昇格・・・ 最初は球速はあるが、コントロール難の投手だった・・・ 1961年に269奪三振で奪三振王・・・ 1962年に防御率2.54で最優秀防御率・・・ 同年6月30日に1回目のノーヒットノーラン・・・ 1963年に25勝で防御率1.88、306奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 同年5月11日に2回目のノーヒットノーラン・・・ 同年シーズンMVP・・・ 同年にワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・ 1964年に19勝で防御率1.74で最優秀防御率・・・ 同年6月4日に3回目のノーヒットノーラン・・・ 1965年に26勝で防御率2.04、382奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ シーズン382奪三振は当時の大リーグ記録・・・ 同年9月9日に4回目のノーヒットノーランで今回は完全試合・・・ 同年ワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・ 1966年は27勝で防御率1.73、317奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 同年にリーグ優勝するもワールドシリーズ敗退・・・ 同年で現役引退・・・ 引退の理由は登板過多による左肘の故障・・・ ※所属はブリックリン・ドジャースから1958年にロサンゼルス・ドジャースに球団名変更・・・ 1972年にアメリカ野球殿堂入り・・・同年に背番号「32」がドジャースで永久欠番・・・ 現役引退後はドジャースに関わっています・・・ 投手成績 通算12年、165勝87敗9セーブ、2324回1/3、2396奪三振、防御率2.76 最優秀防御率5年連続含む5回(1962年−1966年) 最多勝3回(1963年・1965年・1966年) 奪三振王4回(1961年・1963年・1965年・1966年) 投手3冠3回(1963年・1965年・1966年、タイ) MVP1回(1963年) サイ・ヤング賞3回(1963年・1965年・1966年) ワールドシリーズMVP2回(1963年・1965年、タイ) アメリカ野球殿堂入り((1972年) ノーヒットノーラン4回(完全試合1回を含む) (完全試合 1965年9月9日) (ノーヒットノーラン 1962年6月30日・1963年5月11日・1964年6月4日) (注)赤太字は大リーグ記録 (参照) ロジャー・クレメンス 右投右打 身長193センチ、体重106.5キロ 1962年8月4日− 投手 アメリカ・オハイオ州デイトン出身・・・ ロジャー・クレメンスことウィリアム・ロジャー・クレメンスは大リーグを代表する投手の一人です・・・ 1983年にボストン・レッドソックス入団・・・ 1984年に大リーグ昇格・・・この年は9勝6敗・・・ 1986年は24勝で防御率2.48で最優秀防御率と最多勝・・・ 同年はリーグ制覇・・・アメリカンリーグMVPとサイ・ヤング賞・・・ 4月29日に9回20奪三振・・・ 1987年は20勝9敗で最多勝と2回目のサイ・ヤング賞・・・ 1988年は18勝で291奪三振で奪三振王・・・ 1990年は21勝で防御率1.93で最優秀防御率・・・ 1991年は18勝で防御率2.62、241奪三振で3回目のサイ・ヤング賞・・・ 1992年が18勝で防御率2.41で最優秀防御率・・・ 1996年が257奪三振で奪三振王・・・ 1997年にトロント・ブルージェイズ移籍・・・ 1997年に21勝で防御率2.05、292奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・4回目のサイ・ヤング賞・・・ 1998年に20勝で防御率2.65、271奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・5回目のサイ・ヤング賞・・・ 1999年にニューヨーク・ヤンキース移籍・・・ 2001年に20勝3敗で6回目のサイ・ヤング賞・・・ 2004年にヒューストン・アストロズ移籍・・・同年18勝4敗で7回目のサイ・ヤング賞・・ 2005年に防御率1.87で最優秀防御率・・・ 2007年にニューヨーク・ヤンキース復帰・・・ 同年に事実上現役引退・・・ 薬物疑惑と不倫疑惑があり、引退をめぐる騒動も・・・ 投手成績 通算24年、354勝184敗、4916回2/3、4672奪三振、防御率3.12 最優秀防御率7回(1986年・1990年・1991年・1992年・1997年・1998年・2006年) 最多勝4回(1986年・1987年・1997年・1998年) 奪三振王5回(1988年・1991年、1996年−1998年) 投手3冠2回(1997年・1998年) アメリカン・リーグMVP1回(1986年) サイ・ヤング賞7回(アメリカン6回)(ナショナル1回) (1987年・1991年・1997年・1998年・2001年)(2004年) 1試合20奪三振2回(1996年4月29日・1996年9月18日) (参照) ランディ・ジョンソン 左投左打 身長208センチ、体重102キロ 1963年9月10日− 投手 アメリカ・カリフォルニア州ウォールナットクリーク出身・・・ 1985年にモントリオール・エクスポズへ入団・・・ ランディ・ジョンソンことランドール・デヴィッド・ジョンソンは大リーグを代表する奪三振王の一人です・・・ 1998年に大リーグ昇格・・・ 1989年シーズン途中でシアトル・マリナーズへ移籍・・・ 1990年6月2日にノーヒットノーラン・・・ 1992年に241奪三振で奪三振王・・・ 同年にメンタル・トレーニングで制球難改善へ・・・ 1993年に19勝で308奪三振で奪三振王・・・ 1994年に204奪三振で奪三振王・・・ 1995年に18勝2敗、防御率2.48、294奪三振で最優秀防御率、奪三振王・・・ 1998年シーズン途中でヒューストン・アストロズ移籍・・・ 1999年にアリゾナ・ダイヤモンドバックス移籍・・・ 1999年に364奪三振で奪三振王・・・ 2000年に19勝で347奪三振で奪三振王・・・ 2001年に21勝で防御率2.49、372奪三振で最優秀防御率、奪三振王・・・ 奪三振率の大リーグ記録13.41・・・ (それまでは1999年にペドロ・マルティネス(参照)が記録した13.2) 同年ワールドシリーズ制覇・・・ワールドシリーズMVP・・・ 2002年に24勝で防御率2.32、334奪三振で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 2004年に290奪三振で奪三振王・・・ 同年5月18日に2回目のノーヒットノーラン・・・しかも完全試合・・・ 2005年ンユーヨーク・ヤンキースに移籍・・・ 2007年にアリゾナ・ダイヤモンドバックスに復帰・・・ 2009年にサンフランシスコ・ジャイアンツに移籍・・・ 2010年1月に現役引退・・・ 現役引退後はフォトグラファー転進・・・ 2015年にアメリカ野球殿堂入り・・・ 同年にダイヤモンドバックスは背番号「51」を永久欠番に・・・ 投手成績 通算22年、303勝166敗2セーブ、4135回1/3、4875奪三振、防御率3.29 最優秀防御率4回(1995年・1999年・2001年・2002年) 最多勝1回(2002年) 奪三振王9回(1992年−1995年、1999年−2002年、2004年) 投手3冠1回(2002年) サイ・ヤング賞4年連続、タイ含む5回(1995年・1990年−2002年) ワールドシリーズMVP(2001年) アメリカ野球殿堂入り((2015年) ノーヒットノーラン2回(完全試合1回を含む) (完全試合 2004年5月18日) (ノーヒットノーラン 1990年6月2日) シーズン奪三振率13.41(2001年) 通算奪三振率10.61(投球回数2000回以上) (注)赤太字は大リーグ記録 (参照) ペドロ・マルティネス 右投右打 身長180センチ、体重88.5キロ 1971年10月25日− 投手 ドミニカ共和国出身・・・ 1986年6月にロサンゼルスドジャースと契約し、1992年9月に大リーグ昇格・・・ 1993年に65試合登板で10勝5敗2セーブ・・・ 1994年にワシントン・ナショナルズ移籍・・・ 1997年に防御率1.90で最優秀防御率・・・ 1998年にボストン・レッドソックス移籍・・・ 1999年に23勝で防御率2.07、313奪三振、当時のシーズン奪三振率13.2で最優秀防御率、最多勝、奪三振王・・・いわゆる「投手3冠」・・・ 2000年に18勝で防御率1.74、284奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・ 2002年に20勝で防御率2.26、239奪三振で最優秀防御率と奪三振王・・・ 2003年に防御率2.22で最優秀防御率・・・ 2005年にニューヨーク・メッツ移籍・・・ 2009年にフィラディルフィア・フィリーズ移籍・・・ 同年に現役引退・・・ 現役引退後はレッドソックスに関わる・・・ 2015年、アメリカ野球殿堂入り・・・ 投手成績 通算18年、219勝100敗3セーブ、2827回1/3、3154奪三振、防御率2.93 最優秀防御率5回(1997年・1999年・2000年・2002年・2003年) 最多勝1回(1999年) 奪三振王3回(1999年・2000年・2002年) 投手3冠1回(1999年) 最優秀選手(MVP)1回(1999年) サイ・ヤング賞3回(1997年・1999年・2000年) オールスターMVP1回(1999年) アメリカ野球殿堂入り((2015年) ▼現役引退後 現役引退後は、巨人の背番号「34」は永久欠番 日本テレビなどの解説者を務め、タレントとしても活動します。 1973年から1978年、1990年・1991年とロッテの監督を務め、1974年には日本一になっているが、同年は長嶋茂雄の引退の年と重なったため、あまり話題になりませんでした。 1978年に名球会を設立 1988年、野球殿堂入り(日本) テレビに出演すると、よく現役時代の逸話や伝説について語っています。 2019年10月6日死去、86歳没。 プロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき プロ野球80年の歴史の中で、いわゆるプロ野球レジェンドが語るあの日、あのとき・・・ サンスポに連載された記事をまとめたものです。 400勝投手・金田正一も掲載しています。 ■投球 前述のように、全盛期の金田は速球とカーブだけが主体の投手だったが、速球もカーブも超一級品でした。 速球の威力はすさまじく、数々の伝説や逸話を残しているが、長嶋茂雄をはじめ多くの打者が対戦した投手では金田が一番(球速が)速かったと発言しています。 カーブの威力もすさまじく、金田のカーブは縦に落ちる通称ドロップといわれたカーブだが、その切れ味は、速球と同じく長嶋茂雄をはじめ多くの打者が絶賛してます。 前述のように、晩年は球速が落ちたかわりに、フォークなども投げ、稀にシュートや超スローボールも投げ、投球術も巧みになったが、全盛期は、ほとんど速球とカーブだけで力で打者をねじ伏せていました。 ■記録 前述のように金田が全盛期を過ごした国鉄は「打てない、守れない」弱小チームでしたが、その国鉄で、金田は400勝のほとんどを勝ち、1−0の勝利や0−1の敗戦が多かったといわれます。 奪三振は、弱小チームゆえの「対策」で、もし金田が強いチームにいたら勝ち星は400勝を超えていたかもしれませんが、奪三振は4490を下回っていたかもしれません。 (強いチームで他に好投手が多いと、登板の機会も減り、場合によっては勝ち星も伸びなかった可能性も・・・) 投手部門では数々のプロ野球記録を持つ金田ですが、ヴィクトル・スタルヒン(参照)の通算83完封は、わずか1個足らない通算82完封でした。 入団当初は、制球(コントロール)に難がありましたが、後年には解消され、コントロールを生かす投球を身につけました。 ちなみに5526回1/3の投球回数、1804与四球などはプロ野球記録です。 (参照) ヴィクトル・スタルヒン 右投右打 身長191センチ、体重90キロ 1916年5月1日−1957年1月12日 投手 ロシア出身・・・(亡命者で無国籍) プロ野球草創期から活躍しました。 戦前の大投手の一人・・・ 1934年の大リーグ選抜との対戦に参加・・・ そのまま巨人に入団・・・ 1938年秋に19勝2敗、防御率1.05、勝率9割0分5厘、146奪三振、7完封で投手5冠(同一年に防御率・勝率・勝利数・奪三振・完封数でリーグトップ)に・・・ 1939年にシーズン42勝のプロ野球記録・・・ (1961年に稲尾和久が同様にシーズン42勝を記録) 1940年に「須田博」に改名(戦争で日ソ関係悪化のため、ロシアはソ連へ変わったので)・・・この年は38勝・・・ 戦後に、スタルヒンに名前を戻す・・・ 沢村栄治の後の巨人の大エース・・・ 人によっては巨人最高の投手の評価も・・・ 戦後はいくつかの球団に・・・ プロ野球初の300勝投手・・・ 通算83完封は、金田正一も1つ及ばなかったプロ野球記録・・・ 特徴的なのは303勝176敗で通算586登板の登板数の少なさ・・・(ちなみに金田正一は400勝298敗で通算944登板) 1960年、野球殿堂入り(日本)・・・ 投手成績 通算19年、303勝176敗、4175回1/3、1960奪三振、防御率2.09 最優秀防御率1回(1938年秋) 最高勝率2回(1938年秋・1940年) 最多勝6回(1937年秋−1940年、1949年)(1リーグ時代に5回) 奪三振王2回(1938年秋・1939年)※当時は表彰なし 投手5冠王(1938年秋) 最高殊勲選手(MVP)2回(1939年・1940年) ベストナイン1回(1940年) 野球殿堂入り(日本)(1960年) ノーヒットノーラン1回(1937年7月3日) 通算83完封 シーズン42勝(1939年) ■打撃 金田は投手としてだけではなく、打者としての打撃も優れていました。 投手として登板しての36本塁打はプロ野球記録・・・ 他に代打で2本塁打を記録しており、通算本塁打は38本です。 ■天皇 国鉄時代は、前述のように、その圧倒的実力と豪快な性格から「天皇」などといわれましたが、その存在感・力は監督以上でした。 国鉄時代に10回も開幕投手を務め、弱小チームにいながら勝ち続けた金田は、まさに監督以上で、金田には周囲も気を遣い、多くの特例を生んだといわれます。 国鉄は、まさに金田のワンマンチームでもあったといわれます。 ■コンデション管理とトレーニング 金田は独自のコンディション管理とトレーニング方法でも知られます。 特に、利き腕の左腕は、就寝時にサポーター、エアコンで左肩を冷やさないように気をつける、常に左腕をガードするなどしていました。 柔軟などを念入りにやり、長嶋茂雄に専属トレーナーを紹介したほどです。 (長嶋は、金田の専属トレーナーを気に入り、手放さなかったそうです) トレーニングの基本は、下半身を作る「徹底的な走り込み」で、ロッテ監督時代も、今でもアドバイスを求められると、「走り込み」の重要さを説いています。 たしかに「走り込み」は、沢村栄治が別所毅彦にアドバイスを求められた時に走ることをすすめたように、重要なトレーニングの一つだと思います。 ■食事 食事に対するこだわりも、半端ではなく、「いい物を食べなきゃだめ」が口癖で、食事には惜しみなく「投資」していたといいます。 当時は珍しかったミネラルウォーターも愛飲しています。 ■総評 トレーニングに「走り込み」のみを重視する、豪勢な食事、独自のコンディション管理は、全面的に肯定は出来ない部分もありますが、400勝などの圧倒的数字を前には、金田の考えにも理があるような気がします。 とにかく金田正一は、金田正一なりの方法で圧倒的実績を残したことは確かです。 ■年度別投手成績
(注)Sはセーブ、Hはホールド (注)回の少数点の1は1/3、2は2/3 (注)与四死球は、四球数・死球数 (注)年度の黒太字はリーグ1位 (注)通算の赤太字はプロ野球記録 ※1 197四球・10死球 ※2 5526回1/3 ※3 1806四球・72死球 ※4 1706失点 ■投手 □主なタイトル 最優秀防御率3回(1957年・1958年・1965) 最多勝3回(1957年・1958年・1963年) 奪三振王10回(1951年ー1953年、1955年・1956年1958年−1960年、1963年・1964年、セ・リーグでは1991年より表彰) □主な表彰(現役時代) 沢村賞3回(1956年−1958年) ベストナイン3回(1957年・1958年・1963年) オールスターMVP2回(1960年第2戦、1964年第1戦) □主な記録 通算400勝 通算4490奪三振 64回1/3無失点(1958年4月30日−5月27日) シーズン20勝以上14年連続(1951年−1964年) 投手として36本塁打(他に代打で2本塁打で通算38本塁打) 1試合16奪三振 通算82完封 ノーヒットノーラン2回(完全試合1試合含む) (完全試合 1957年8月21日) (ノーヒットノーラン 1951年9月5日) (注)赤太字はプロ野球記録 (注)黒太字はセ・リーグ記録 □特記事項 野球殿堂入り(日本)1988年 □金田正一を知るおすすめ作品 関連記事:いろいろなスポーツの主要記録(野球の項目を参照) |
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金田正一 |