長嶋茂雄 |
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■長嶋茂雄■野球選手■ミスタープロ野球 右投右打 身長179センチ、体重76キロ 1936年2月20日− 長嶋茂雄(ながしま・しげお)は、ダイナミックかつ華麗なプレー、無類の勝負強さで、王貞治などとともに巨人V9(9年連続日本一)に大きく貢献し、国民的人気を誇るスーパースター 燃えた、打った、走った! (単行本) 野球は人生そのものだ 2013年に国民栄誉賞受賞 一般的には「ミスタージャイアンツ」といわれるようですが、その存在は「ミスタープロ野球」といえます。 また、「燃える男」とも・・・ □長嶋茂雄を知るおすすめ作品 ■履歴 ▼中学まで 長嶋茂雄は、1936(昭和11)年2月20日に千葉県で生まれます。 幼い頃の長嶋は、身体が小柄でしたが、すばしっこく、運動神経抜群で、憧れの選手は、阪神の藤村富美男(参照)でした。 派手なプレーは藤村富美男の影響もあるかも・・・ 野球道具の少ない時代でしたが、手製の道具で野球に親しんでいました。 当時は主に遊撃手でした。 (参照) 藤村富美男 右投右打 身長173センチ、体重79キロ 1916年8月14日−1992年5月28日 三塁手、一塁手、二塁手、外野手、投手 広島県出身・・・ プロ野球草創期から活躍しました。 戦前・戦後を代表する打者のひとり・・・ 初代「ミスタータイガース・・・ 1934年の夏の甲子園の優勝投手。 最初は投手で入団しましたが、後に打者に転向・・・ 主に三塁手・・・ 背番号「10」は阪神の永久欠番。 闘志をむき出しにしたダイナミックなプレーで知られます。 ショーマンシップもあったといわれます。 戦前から第1次までのダイナマイト打線を形成・・・ 戦後は、長尺バットの「物干し竿」で長打を連発しました。 前述の通り、長嶋茂雄が憧れた選手・・・ 日本プロ野球初のサイクル安打を記録・・・ 1956年6月24日の広島戦で、監督兼任で、自ら自身が代打(「代打ワシ」と告げて代打に・・・)となり、代打逆転サヨナラ満塁本塁打を放つ・・・ これが、藤村の最後の本塁打・・・ 1974年、野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算17年、1558試合、5648打数1694安打、224本塁打、1126打点、終身打率3割0分0厘 投手成績 通算8年、34勝11敗、345回1/3、183奪三振、防御率2.35 監督成績 通算4年、2位2回 首位打者1回(1950年) 本塁打王3回(1936年秋・1949年・1953年) 打点王5回(1944年、1947年−1949年、1953年) MVP1回(1949年) ベストナイン6回(1947年ー1952年) 野球殿堂入り(日本)(1974年) ▼高校時代 1951年4月、千葉県立佐倉第一高校(現・千葉県立佐倉高校)に進学・・・ 2年生から4番打者 遊撃手でエラーが続き、三塁手へコンバート 高校時代はほぼ無名だったが、1953年8月1日の大宮球場の対熊谷高戦で、試合は敗れたものの、自身は高校公式試合唯一の本塁打を放ちます。 この本塁打は、特大の飛距離で、一部マスコミから注目される。 同年11月に立大野球部推薦セレクションに合格 ▼大学時代 1954年4月、長嶋は、結局、立大へ進学 立大入学当時の監督は砂押邦信 同氏の猛特訓(ただし、長嶋によると大リーグを参考にした科学的トレーニングで、精神論だけの猛練習ではなかったようです)で、鍛えられます。 翌年に、砂押排斥運動で砂押が退任 長嶋は、杉浦忠(参照)(後にプロ野球の南海へ)本屋敷錦吾(後にプロ野球の阪急へ)とともに、「立大三羽ガラス」と呼ばれた 1955年秋季から1957年秋季までベストナイン(三塁手)・・・うち1956春季・1957年秋季に首位打者となる活躍 1957年には、当時の六大学の通算本塁打記録の8本を打つ 最初の希望は、南海へのプロ入りだったが、巨人へのプロ入りを決め、同年11月に巨人と契約 背番号「3」 (参照) 杉浦忠 右投右打 身長176センチ、体重71キロ 1935年9月17日−2001年11月11日 投手 愛知県出身・・・ 六大学の立教大学で長嶋茂雄らとともに活躍・・・ 「史上最強のアンダースロー」「魅惑のアンダースロー」などといわれました。 メガネをかけており、知的なインテリでスマートさを感じました。 六大学時代にノーヒットノーラン・・・ 1年目の1958年に27勝12敗で新人王、2年目の1959年に38勝4敗、防御率1.40、勝率9割0分5厘、336奪三振、9完封で、投手5冠(同一年に、防御率・勝率・勝利数・奪三振数・完封数でリーグトップ)で最優秀選手(シーズンMVP)・・・ 日本シリーズでも4連投4連勝で日本シリーズMVP・・・ 張本勲いわく「最高のアンダースロー」との主旨の発言も・・・ 1995年、野球殿堂入り(日本)・・・ 投手成績 通算13年、187勝106敗、2413回1/3、1756奪三振、防御率2.39 監督成績 通算4年、4位2回 最優秀防御率1回(1959年) 最高勝率1回(1959年) 最多勝1回(1959年) 奪三振王2回(1959年・1960年)※パ・リーグでは1989年より表彰 投手5冠王(1959年) 最優秀選手(シーズンMVP)1回(1959年) 新人王(1958年) ベストナイン1回(1959年) 日本シリーズMVP1回(1959年) 野球殿堂入り(日本)(1995年) ▼プロ・選手時代 1958年にオープン戦で7本塁打を放つ活躍をした長嶋は、開幕で当時の国鉄のエースで、日本プロ野球を代表する大投手だった金田正一に4打席4三振 しかし全てが渾身のフルスイングで、この勝負は伝説の名勝負と語り継がれることになります。 その後、長嶋は新人らしからぬ活躍で、本塁打(29本)、打点(92打点)の打撃2冠、打率も2位の3割0分5厘、盗塁のリーグ2位の37で文句なし新人王・・・(しかも一塁ベース踏み忘れで本塁打を1本フイにしています)。 日本シリーズでは、西鉄に3連勝4連敗で、日本一を逃すが、稲尾和久投手の無失点記録をストップさせるランニング・ホームランを放つ 1959年は、6月25日の対阪神戦・・・有名な天覧試合で、長嶋はサヨナラホームラン この試合は、プロ野球が国民的スポーツとなったポイントの試合といわれています。 なお、この試合では、当時新人の王貞治も本塁打を放ち、ONアベックホームランの第1号といわれています。 この年は、首位打者 南海との日本シリーズは4連敗で、大学時代の盟友・杉浦忠の快投の前に敗れています。 その後も打撃タイトルにたびたび顔を出し、1962年以後は、本塁打王以外(本塁打王は王貞治が独占・・・)で、熾烈なタイトル争いをします。 その1962年以降は、王貞治とのコンビはアルファベットの頭文字のO(王貞治)とN(長嶋茂雄)をとって「ON砲」と呼ばれました。 ON砲を中心に巨人は、1965年から1973年までV9(9年連続日本一)の偉業を達成します。 1968年9月18日のダブルヘッダーの第2試合で、阪神のバッキーが王との対決で度重なる危険球で退場 バッキーに代わった権藤正利が王の頭部への死球・・・両軍入り乱れての乱闘で、乱闘に参加しなかった長嶋が騒然とする雰囲気を一変させるホームランを放つ この勝負はプロ野球にあまり興味のない格闘家の前田日明も印象に残っているといいます。 1971年に6回目の首位打者を獲得してから2年連続打率3割を切り、1974年に巨人のV10の可能性がなくなると、10月12日に現役引退を表明 10月14日に引退試合をし、引退セレモニーでの「我が巨人軍は永久に不滅です」はあまりにも有名ですね。 ▼プロ・第1次監督時代 現役引退後は、巨人の背番号「3」は永久欠番 現役を引退して、すぐに監督となった長嶋は1年目は最下位 2年目・3年目は、リーグ優勝するも、阪急との日本シリーズにいずれも敗退 4年目2位、5年目5位、6年目3位で「男のけじめ」で監督退任 ▼浪人時代 浪人時代は、プロ野球だけではなく、さまざまなスポーツイベント・文化イベントに参加したり、関わりました。 ▼プロ・第2次監督時代 1990年の川上哲治との和解などを経て、1992年シーズンオフに第2次巨人監督就任 松井秀喜獲得 1年目(1993)は3位・・・シーズンオフに落合博満獲得 2年目(1994)は1位(日本一、西武を下す) (10月8日の同率首位でのシーズン最終戦対決を制す) 3年目(1995)は3位・・・シーズンオフに大幅補強 4年目(1996)は1位(日本シリーズでオリックスに敗れる)・・・シーズンオフに清原和博など大幅補強 5年目(1997)は4位 6年目(1998)は3位 7年目(1999)は2位 8年目(2000)は1位 (日本一、ソフトバンクとの「ON監督対決」を制す) 9年目(2001)は2位 2001年限りで監督業勇退 退任の時の言葉「野球とは人生そのものです」は有名です。 第2次監督の途中の1988年に野球殿堂入り(日本) ▼その後 2002年12月、アテネ五輪の野球チームの代表監督 2004年3月、脳梗塞に倒れる・・・その後、懸命なリハビリ 現在もリハビリなどは続いているようです。 2013年、国民栄誉賞受賞 長嶋茂雄の動向は今後も注目されるでしょう。 それが、「国民的スーパースター」の宿命なのかもしれません。 ■ライバル 長嶋のライバルの一人には、天覧試合でサヨナラ本塁打を打たれ、1500奪三振目と2000奪三振目を長嶋から奪った村山実(参照)が挙げられます。 (参照) 村山実 右投右打 身長175センチ、体重83キロ 1936年12月10日−1998年8月22日 投手 兵庫県出身・・・ 関西大学時代に大学日本一・・・ 1959年に阪神に入団・・・ 力感あふれる「ザトペック投法」からフォークボールを武器としました。 2代目「ミスタータイガース」とも・・・ デビューの年の1959年に天覧試合で、長嶋茂雄にサヨナラ本塁打を打たれる・・・ 長嶋からは、1500奪三振目、2000奪三振目を奪う・・・ 1962年と1964年のリーグ優勝に貢献・・・ 1970年のシーズン防御率0.98は、規定投球回数以上で戦後唯一の0点台(2015年9月1日現在)・・・ 1972年に現役引退・・・ 阪神の背番号「11」は永久欠番・・・ 1970年から1972年は監督兼任・・・ 1988年・1989年は監督・・・ 1993年、野球殿堂入り(日本) 投手成績 通算14年、222勝147敗、3050回1/3、2271奪三振、防御率2.09 監督成績 通算5年、2位1回 最優秀防御率3回(1959年・1962年1970年) 最高勝率1回(1970年) 最多勝1回(1965年・1966年) 奪三振王2回(1965年・1966年) MVP1回(1962年) 沢村賞3回(1959年・1965年・1966年) ベストナイン3回(1962年・1965年・1966年) シーズン防御率0.98 野球殿堂入り(日本)(1993年) (注)黒太字はセ・リーグ記録 ■長嶋茂雄語録とユニークな行動 長嶋は独特の野生的というか天才的なユニークな感性を持ち、それが独特な語録、ユニークな行動になるようです。 凡人にはありえない天才的言語感覚と常識では図れない行動をするときがあります。 ■長嶋茂雄の目指した選手のイメージ 長嶋は攻・守・走の3拍子が揃った選手が目標で、私のイメージでは、「本塁打も多く打てるタイ・カッブ」のような選手をイメージしていたようです。 長嶋自身は、ジョー・ディマジオ(参照)のような選手をイメージしていたようです。 長嶋は、ジョー・ディマジオのプレーに憧れていたといわれます。 (タイ・カッブは、攻・守・走の3拍子が揃っていた大リーグ史上最高の選手だが、本塁打が少ない選手でした) (私が感じた長嶋の目指した野球選手のイメージがタイ・カッブに近いと思ったので・・・) (前述のように、長嶋自身は、華麗なプレーで知られたジョー・ディマジオをイメージしていたようですが・・・) (参照) ジョー・ディマジオ 大リーグ・ヤンキースの外野手 MVP3回、首位打者・本塁打王・打点王各2回 56試合連続安打の大リーグ記録保持者 マリリン・モンローと結婚(後に離婚)したことでも知られる ライバルは同時代の「最後の4割打者」「打撃の天才(神様)」テッド・ウィリアムズ(レッドソックス) (ちなみにウィリアムズは、MVP2回、三冠王2回、首位打者6回・本塁打王4回・打点王4回で、シーズン4割を1回記録しています) ■コンピューターもお手上げだった長嶋茂雄の打撃分析 広島カープの「王シフト」を生み出すきっかけとなったコンピューターで、長嶋茂雄の打撃データも分析したが、全く特徴的データ・傾向が分析できず、「長嶋シフト」を作ることが出来ませんでした。 コンピューターでさえ、長嶋茂雄を分析できなかったのは「さすが」に驚異的です。 長嶋茂雄は、「コンピューターを超えた天才的感性」の持ち主ということでしょうか。 ■年度別打撃成績
(注)年度の黒太字はリーグ1位 (注)四死球は、四球数・死球数 ※1 969四球・43死球 日本シリーズ年度別打撃成績
(注)球団の黒太字は日本一 (注)四死球は、四球数・死球数 (注)通算の赤太字はプロ野球記録 オールスター年度別打撃成績
日米野球戦成績
■打撃 □主なタイトル 首位打者6回(1959年−1961年・1963年・1966年・1971年) 本塁打王2回(1958年・1961年) 打点王5回(1958年・1963年・1968年−1970年) (注)黒太字は、セ・リーグ記録 □主な野球表彰(現役時代) MVP5回(1961年・1963年・1966年1968年・1971年) 新人王(1958年) ベストナイン17回(1958年−1974年 入団から引退の年まで全シーズン) ダイヤモンドグラブ賞2回(1972年設立で、1972年・1973年) 日本シリーズMVP 2年連続2回を含む4回(1963年・1965年・1969年・1970年)史上1位 (史上2位は複数いるが2回で長嶋の4回は飛び抜けている・・・2015年8月13日現在) (注)赤太字はプロ野球記録 □その他の主な表彰 野球殿堂入り(日本)(1988年) 国民栄誉賞(2013年) □特記事項 レギュラーシーズン・日本シリーズ・オールスターの全てで終身打率3割以上は長嶋のみ 開幕試合本塁打10本(1959年・1960年・1963年2本・1968年・1970年−1974年) 開幕試合本塁打5年連続(1970年−1974年) 最多安打6年連続を含む10回(1958年−1963年、1966年・1968年・1969年・1971年) 日本シリーズの終身打率3割4分4厘は、100打数以上では史上2位、200打数以上では史上1位 日本シリーズ通算打点 66 ※他に日本シリーズの打数・安打数・二塁打数などもプロ野球記録 オールスターファン投票選出17回(1958年−1974年 入団から引退の年まで全シーズン) オールスター出場16回(1958年−1963年、1965年−1974年)※1964年もファン投票1位選出もケガで出場辞退 ・皇室観戦試合 終身打率 5割1分4厘(10試合・35打数18安打) 通算本塁打 7本 (注)赤太字はプロ野球記録 ■ささやき戦術も通用しない 野村克也によると長嶋は、捕手での「ささやき戦術」の通用しなかった選手として知られています。 常人には到底理解できない(もちろんいい意味で)天才的感性の持ち主なのでしょうか・・・ 野村苦心の「ささやき戦術」も全く通じなかったといわれます。 ■驚異の反射神経と予知能力 長嶋は、驚異の反射神経の持ち主として知られ、全盛期には他の三塁手をはるかに凌ぐ守備範囲で、(本当かどうかは知りませんが)普通なら二塁手が処理するゴロを三塁手の長嶋が処理したこともあるといわれます。 それだけ守備範囲が広かったということでしょう。 また、レギュラーシーズンで通算で43死球をしていますが、頭部への死球は2個だけといわれます。 驚異の反射神経で、頭部への死球を回避していたといわれます。 監督時代には、自分のチームの投手が打たれそうだと、「打たれる・・・」とつぶやき、それがよく当たったといわれます。 予知能力(!?)というか動物的な野生の勘(もちろんすごいという意味で)が働いたのでしょうか。 ■お客様を満足させる 長嶋は前述のように、攻・守・走の3拍子揃った選手が目標で、打撃だけでなく、守備や走塁でも「魅せた」といわれます。 豪快な空振りでヘルメットが飛ぶ ダイナミックな守備(手をヒラヒラさせるのは、歌舞伎からヒントを得たといわれます)なども常に「魅せる」ことを考えていたため、自ら考えていたといわれます。 「お客様(観戦者)」を満足させることを常に考えていたといわれます。 ■投高打低時代に飛びぬけた数字 長嶋の全盛期は、「投高打低」の時代で、投手が有利なあまり「飛ばないボール」の時代だったといわれます。 そんな中で、打率などでは1人だけ飛びぬけ、首位打者を獲得した年は長嶋だけ打率3割を超えていたこともありました。 単純な数字だけでなく、その時代(打者が不利な時代)に飛びぬけた数字を残した長嶋を高く評価してほしいですね。 ■勝負を楽しんだ 長嶋は、四球などを嫌い、「勝負」を楽しんだようです。 最多安打の6年連続を含む10回はいずれもプロ野球記録で、「勝負」がとにかく好きだったようです。 そのため、長嶋の調子を崩すには、勝負を避けること(敬遠などを含む四球攻め)だといわれました。 長嶋は勝負を避け敬遠しようとする投手に、抗議のため、バットを持たずに打席に立ったこともあります(それでも勝負を避けられ敬遠された)。 敬遠のボールを打ってヒットしたこともあります(1960年の開幕戦で柵越えホームラン、同じく1960年7月17日にはランニングオームランもあるようです、同じくランニングホームランの前日の1960年7月16日にはヒット(二塁打)を記録しているようです)。 (つまり、1960年は2日連続敬遠のボールを打ってヒット(!!)(うち1本はランニングホームラン、1本は二塁打)、さらに開幕戦では敬遠のボールを柵越えホームランしているわけです) ■まるでマンガ 長嶋は若い頃は俊足で、ニックネームも「ハリケーン」といわれていました。 1958年のルーキーの年には、二塁フライでタッチアップしてホームインしたこともあります。 当時の巨人監督の水原茂(参照)(登録は水原円裕)が「まるでマンガだな」と驚いていたといわれます。 (参照) 水原茂 身長170センチ、体重64キロ 1909年1月19日−1982年3月26日 三塁手 香川県出身 巨人の名監督・・・ 巨人時代に在任11年でリーグ優勝8回、日本一4回・・・ 東映でも日本一に1回・・・ 1955年から1958年の登録名は水原円裕・・・ 甲子園優勝経験者で慶大のスターで全日本メンバーでそのまま巨人入り・・・ 大学時代は三原脩(大学当時は修)(参照)のライバルでプロでもその関係は続いた・・・ 兵役でシベリア抑留を体験し、1949年7月に帰国後に巨人に戻るが、同年シーズン終了後の三原監督排斥で、1950年から「三原総監督・水原監督」体制に・・・ 結果的に三原を追い出し、水原が監督に・・・ 三原とは1956年から1958年の日本シリーズで3戦全敗・・・ 特に1958年は3連勝4連敗の屈辱・・・ (1959年は、鶴岡一人(参照)の南海に4連敗・・・) 1960年には同じリーグで三原の率いる大洋が日本一になり、巨人の監督退任のきっかけに・・・ 1962年に東映で日本一・・・ その後も中日監督を務め、中日監督退任後は、解説者・・・ 1977年に野球殿堂入り(日本)・・・ 大リーグ仕込のワンポイントリリーフ、ブロックサインを持ち込んだとされる・・・ 打撃成績 通算8年、523試合、1960打数476安打、12本塁打、184打点、終身打率2割4分3厘 投手成績 通算1年、8勝2敗、防御率2.14 □監督としての成績 1950年から1960年、巨人監督 1961年から1967年、東映監督 1969年から1971年、中日監督 1968年から1970年、近鉄監督 セ・リーグの巨人で1951年−1953年、1955年−1959年リーグ優勝、1951年−1953年、1955年日本一 パ・リーグの東映で1962年リーグ優勝、1962年日本一 MVP1回(1942年) ベストナイン1回(1940年) 野球殿堂入り(日本)(1977年) (参照) 三原脩 身長168センチ、体重64キロ 1911年11月21日−1984年2月6日 二塁手 香川県出身 「魔術師」とも「知将」ともいわれた名監督・・・ 巨人の総監督退任までの表記は三原修 早大のスターとして活躍し、大学を中退し、1934年に契約1号で、大日本東京野球倶楽部(後の巨人)に入団・・・ 選手としてはわずかの期間で現役引退・・・ 選手より監督として有名ですね・・・ アテ馬(偵察メンバー)やワンポイントリリーフなどを使ったり、「スミ1」などの言葉の考案者といわれています・・・ 三原采配の特徴の一例・・・ 日本シリーズは偶数戦を重視した 流線型打線(超攻撃的な二番打者に強打者を配置) 超二流(一流ではないが、一芸に秀でた選手を重用) 「野球は筋書きのないドラマ」 「まだ首の皮一枚つながっている」 上記の言葉は三原脩の名言といわれます・・・ 監督退任後は日本ハム球団社長→相談役・・・ 1983年、野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算3年、109試合、407打数92安打、0本塁打、40打点、終身打率2割2分6厘 □監督としての成績 1947年から1949年、巨人監督(1950年から総監督に・・・) 1951年から1959年、西鉄監督 1960年から1967年、大洋監督 1968年から1970年、近鉄監督 1971年から1973年、ヤクルト監督 1リーグ時代に巨人で1949年優勝 パ・リーグの西鉄で1954年・1956年−1958年リーグ優勝、1956年−1958年日本一 セ・リーグの大洋で1960年リーグ優勝、1960年日本一 特に1958年の3連敗4連勝の逆転日本一は有名・・・ 野球殿堂入り(日本)(1983年) (参照) 鶴岡一人 身長173センチ、体重68キロ 1916年7月27日−2000年3月3日 三塁手、二塁手、一塁手、外野手 広島県出身 南海の名監督・・・ 鶴岡親分、初代ミスターホークス、ドン鶴岡とも・・・ 史上最多勝監督・・・ 1946年から1958年まで山本一人・・・ 広島商で遊撃手で1931年の春の甲子園優勝・・・ 法大に進学し、華麗な三塁守備などで活躍・・・ 1939年に大学卒業で南海に入団・・・ 同年いきなり10本塁打で本塁打王・・・ 1940年から兵役・・・ 1946年に復員・・・ 同年から1952年まで選手兼監督・・・ 選手としては1946年に95打点で打点王・・・ 1952年に現役引退・・・ 1953年から南海の専任監督・・・ 優秀なテスト生や外国人選手を入団させ、彼らを率いて南海の黄金期を築く・・・ 専属スコアラーを採用し、「データ野球」を導入したことでも知られる・・・ リーグ優勝11回(2回は1リーグ時代)、日本一2回・・・ また現在のGMの先駆けの一人ともいわれる・・・ 1965年に監督を退任するが、後任監督の急死で,再び監督となり、1968年限りで監督退任・・・ 監督退任後は、監督への誘いもあったが、解説者や野球評論家・・・ 監督在任中の1965年に野球殿堂入り(日本)・・・ 打撃成績 通算8年、754試合、2581打数790安打、61本塁打、467打点、終身打率2割9分5厘 □監督としての成績 1946年から1968年、南海監督 1リーグ時代に南海で1946年・1948年優勝 パ・リーグの南海で1951年−1953年、1955年・1959年・1961年、1964年−1966年リーグ優勝、1959年・1964年日本一 通算最多勝監督 1773勝(1140敗81分) 通算最高勝率監督 6割0分9厘 本塁打王1回(1939年) 打点王1回(1946年) MVP3回(1946年・1948年・1951年) ベストナイン1回(1951年) 野球殿堂入り(日本)(1965年) 赤太字はプロy級記録 ■徹底したポジティブ人間 長嶋は、「プレッシャーを楽しむ」・「チャンスを歓迎する」などの発言のように、徹底的なポジティブ人間でした プラス思考・よい結果のことしか考えない前向きな人間で、その勝負強さは大試合や重要な場面で大いに発揮されました。 訓練などしなくても自然に今でいうよい「イメージ・トレーニング」ができていたようです。 成功者の多くがポジティブ人間です。 ■相手のエース(または投手)の「決め球」を打つ よい打者は相手の投手の失投を逃さないといわれますが、長嶋の場合は、相手のエース(または投手)の最も得意とする切り札の「決め球」「ウイニング・ショット」を狙って打ったいわれます。 たしかにそれが可能なら、相手に与える精神精神的ダメージやショックなども大きいはずです。 もちろん精神的ダメージなども狙ったのでしょうが、相手のエース(または投手)の得意技と勝負する「勝負の面白さ」も感じていたのかもしれません。 相手のエース(または投手)の「決め球」を打ってこそ、チームの主砲との考えもあったのかもしれません。 ■大試合に強い男 長嶋は、大試合に強く、特に日本シリーズではさまざまなプロ野球記録をもっています。 ■「持っている男」 長嶋は、前述のように、大試合に強く、日本シリーズでは神がかり的大活躍をしています。 皇室観戦試合でも、1959年6月25日の天覧試合での劇的サヨナラ本塁打を含む1試合2本塁打をはじめ、終身打率5割1分4厘(35打数18安打)、通算本塁打7本は いずれもプロ野球記録で、いわゆる「持っている男」でした。 それにしても神がかり的驚異の打撃成績ですね・・・ チームメイトの広岡達郎いわく「天覧試合(などの皇室観戦試合)は、長嶋のためにあったようなもの」との発言もうなづけますね。 ■野球少年 長嶋は、野球が大好きな野球少年が大人になったような溌剌としたプレーをしました。 そんな「純粋さ」も長嶋の魅力かもしれません。 ■ミスタープロ野球と総評 長嶋茂雄は、存在そのものがスーパースターであり、まさに「ミスタープロ野球」だと思います。 上記のエピソードの数々を聞くだけでワクワクします。 長嶋茂雄には他にもまだまだエピソードがあるといわれます。 長嶋茂雄を数字的に上回る選手は何人かいますが、存在の大きさで長嶋茂雄を超える選手は出現しないと思います。 長嶋茂雄は「ミスタープロ野球」といわれる国民的スーパースターです 彼は、記録的にも非凡な面もあるが、多くが突出しているわけではない しかし、存在そのものがスーパースターです 多角的に彼の魅力に迫った「長嶋茂雄ドリーム・トレジャーズ・ブック」 感動的な彼の現役引退試合の「長嶋茂雄現役引退試合」 これらを見ても彼の魅力がわかります □長嶋茂雄を知るおすすめ作品 |
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