スタルヒン |
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■スタルヒン■野球選手■プロ野球史上初の300勝投手 右投右打 身長191センチ、体重90キロ 1916年5月1日−1957年1月12日 スタルヒンは、沢村栄治と並びプロ野球誕生からの巨人の大投手 ヴィクトル・コンスタンチーノヴィッチ・スタルヒン (通称ヴィクトル・スタルヒン) ロシア帝国で生まれ、北海道で育ち、戦時中は「須田博」(すだ・ひろし)と改名していた ■履歴 ▼プロ入り前 ロシア革命の際に、日本へ亡命、北海道の旭川市へ 日本の学校に入り、少年野球でも活躍していた 旧制旭川中学(現・旭川東高)に入るも、惜しくも甲子園には出場できず 同校に在学中に父親が殺人事件を起こし、スタルヒンは、経済的に困窮 ▼全日本 1934年に、日米野球のために来日した大リーグ選抜と対戦するために、全日本東京野球倶楽部(後の巨人)が結成され、スタルヒンも沢村栄治らとともに、そのメンバーに 日本ではまだプロ野球が誕生しておらず、同倶楽部は、日米野球などを経てプロ野球の巨人となり、経済的の困窮し、「殺人者の息子」だったスタルヒンは、そのまま巨人入りへ ▼プロ 巨人入り後のスタルヒンは、最初は球は速いものの、制球がなかったが、やがて制球力も身に着け、1937年後半より、沢村栄治に代わりエースとして台頭 1937年7月3日にノーヒットノーラン達成 1938年から1943年の巨人の6連覇に大きく貢献 1937年秋から1940年まで、5季連続最多勝、1939年と1940年は、シーズン42勝、38勝を挙げ、1939年のシーズン42勝(当時は40勝とされたが、後に公式記録が見直され、42勝に改められた)はプロ野球記録 1938年秋に投手5冠(同一シーズンに、最優秀防御率、最高勝率、最多勝、奪三振王、最多完封) 身長191センチの長身からの速球などで巨人の大エースとして活躍 戦時中は日本人のロシア人に対する感情の悪化や戦時ムードから「須田博」への改名を余儀なくされる 戦後は、パシフィックなど数球団を渡り歩き、1949年に27勝で最多勝 1955年9月4日にプロ野球史上初の300勝を達成と思われたが、後に前述した1939年の公式記録の見直しにより、達成は、同年7月30日に改められた この年限りで現役引退 ▼現役引退後 引退後の1957年1月12日、自動車事故で死去、40歳没 1960年に野球殿堂入り(日本) ■エピソード 沢村栄治がスタルヒンの球が速いため、隣で投げるのを嫌がったといわれる よく凄い速球をうなりをあげる速球というが、スタルヒンの速球は「震える球」といわれた 同じように「震える球」を投げたのが、戦前の「鉄腕」の野口二郎だという 川上哲治は巨人で最高の投手にスタルヒンを挙げている 通算83完封はプロ野球記録 投手成績・・・ 19年、防御率2.09、303勝176敗 MVP2回、最優秀防御率1回、最高勝率2回、最多勝6回、奪三振王2回(表彰なし) 投手五冠1回 (同一シーズンに防御率、勝率、勝利数、奪三振数、完封数でリーグトップ) ノーヒットノーラン1回 ロシアから来たエースー300勝投手スタルヒンのもう一つの戦い ロシア革命で亡命し生涯国籍をもたなかったスタルヒンのノンヒクション 著者はスタルヒンの長女 時代と運命に押し流されていく父の軌跡を追う |
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