中島治康 |
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■中島治康■野球選手■日本プロ野球初の打撃三冠王 右投右打 身長175センチ、体重73キロ 1909年6月28日−1987年4月21日 中島治康(なかじま・はるやす)は、日本プロ野球史上初の打撃三冠王、戦前の打撃三冠王です 愛称は班長 ■履歴 ▼プロ入り前 旧制松本商業(現・松商学園高)でエースで四番で1928年の第14回全国中等学校優勝野球大会で優勝 早大商学部に進むと、野手に転向 東京六大学リーグで、通算18試合に出場、49打数12安打、打率2割4分5厘・0本塁打・4打点 藤倉電線を経て、1934年に大日本東京野球倶楽部(後の巨人)に入団、そのまま巨人が結成され参加 ▼プロ 1936年にリーグ戦が始まると。春のリーグから右翼手でクリーンアップを打ち、巨人の球団最初の本塁打を放つ 秋から主に四番を打ち、春・秋通算でチームトップの2割6分7厘 1937年春には。本塁打王、秋には打点王。1938年春には首位打者 圧巻だったのは、同年秋で、10月から11月に固め打ちし、打率3割6分1厘・10本塁打・38打点で、日本プロ野球初の打撃三冠王 (しかし、当時は三冠王の概念がなく、戦後の1965年に野村克也が三冠王を獲得した際、1938年秋の成績も三冠王と認められた) なお、1938念は春秋通算でも、打率2割5分3厘・11本塁打・63打点で3部門ともトップ シーズン10本塁打は、鶴岡一人と並ぶ戦前最多タイ記録 その後も1940年まで4番で1941年以降は川上哲治に続く5番などで、1940年と1942年に2度の打点王 1939年から1943年までの巨人の第1次黄金時代の主軸打者で活躍 1943年は選手拳監督、1944年兵役で退団 戦後の1946年途中で、選手兼監督で復帰 1947年から監督問題で揺れ、1950年に大洋に移籍 1951年に選手兼監督となったが、成績不振でシーズン途中で監督を退任 選手も同年に引退(大洋での2年間は試合出場は少ないもののいずれも打率3割以上) ▼現役引退後 引退後は新聞記者 1963年に野球殿堂(日本)入り 1982年から1984年奈で巨人OB会会長 1887年4月21日死去、77歳没 ■特徴 パワーと悪球打ちで「ボール打ちの名人」として知られる たとえどんな悪球でも打つと決めたら打つので決まった「時間割」のようで「時間割」ともいわれた ワンバウンド投球を本塁打にしたとの伝説も 声が大きく、号令係となり「班長」と呼ばれた 1940年5月24日に、本塁打、二塁打、三塁打を記録し。あとは単打が出ればサイクル安打1号になるところだったが、次の打席を二塁打にしたため、機会を逃してしまった 打撃成績・・・ 14年、57本塁打、493打点、打率2割7分0厘 最高殊勲選手(MVP)1回 首位打者2回。本塁打王2回、打点王4回 最多安打3回 ベストナイン1回 打撃三冠王1回(1938年秋) 監督成績・・・ 302試合、169勝127敗6分。勝率5割7分1厘 リーグ優勝3回 |
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