江夏豊 |
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■江夏豊■野球選手■シーズン401奪三振とリリーフ革命 401奪三振左投左打 身長179センチ、体重90キロ 1948年5月15日− 江夏豊(えなつ・ゆたか)は、阪神で投手として活躍し、シーズン401奪三振の数字の上では世界記録保持者であり、日本プロ野球保持者、その後リリーフに転向し、リリーフエースの先駆けとなる いわゆる「江夏の21球」はあまりにも有名(後述) 通算200勝以上(206勝)・150セーブ以上(193セーブ)と先発と抑えの両方で活躍 シーズン401奪三振、オールスターゲーム9連続奪三振、延長での自らのサヨナラホームランでのノーヒットノーラン達成、リリーフエースでの活躍、「江夏の21球」、大リーグ挑戦など多くの逸話・伝説を持ち、奪三振で「戦前の沢村栄治、戦後の金田正一」と江夏豊、現在なら野茂英雄の名前なども挙がるかも ▼プロ入り前 奈良県で生まれ、間もなく両親の離婚で、母の実家の鹿児島県へ移る その後、母と二人の兄と兵庫県尼崎市に移る 子供の頃に野球を親しみ、右利きであったが、左で野球をした(兄にいわれ) 中学で野球部に入るが、乱闘騒ぎを起こし、退部 いろいろなスポーツを経験し、最終的に陸上に落ち着く 陸上部で砲丸投げの選手で活躍し、県大会で準優勝も 江夏の投げ方にほ、砲丸投げのクセがあるのは、このため 大坂学院大高に進学すると、制球に難があったが、球威と駆け引きで勝負 3年の夏の甲子園で地方大会準決勝に進出するが、甲子園には出られず この時、江夏は直球しか投げられなかったが、サインに首をふり、変化球もあるように見せたのが「野球頭がいい」と評価される 1966年のドラフト会議で、阪神に1位指名 ▼プロ 大学進学も考えたようだが、翌1967年に阪神に入団 背番号は、入団当初は「71」で、その後、「28」 高校時代は投げられなかった変化球を教えてもらうが、習得できず1年目のシーズンに突入 持ち前の速球で、255奪三振で奪三振となるが、12勝13敗で負け越し、新人王も武上四郎に阻まれ、獲得ならず 2年目の江夏は、奪三振を重ね、事前に「王(貞治)さんから取る」と稲尾和久を超える日本新となるシーズン354個目の奪三振を公言、江夏の勘違いで、353個目の日本タイ記録の353個目を王から奪い、それを指摘されると、王まで奪三振を取らないように、気をつけ、見事354個目を王から奪ってみせた その後、奪三振はシーズン401まで伸びた (数字の上では、「世界の奪三振王」ノーラン・ライアンのシーズン383個を上回る「世界記録」ただし、認定はされていない) この年の奪三振率も329回で401個と11個(10.97)に迫った また、この年は、25勝12敗で、奪三振王に加え、最多勝も獲得 ただし、奪三振の当時の日本記録354個は「ON(王貞治・長嶋茂雄)から取りたい」と取材で言っていたようだ 日本タイを王から奪い、日本記録を、王の次の打者・長嶋から取ろうとしたが、奪えず、次の王まで回し、王から日本記録の354個目の奪三振を奪ったようだ 1971年のオールスターゲーム第1戦で、オールスターゲームで投手が投げられる最大の3イニングを9連続奪三振する偉業 このの連続奪三振は、前年の5連続奪三振、9連続奪三振の翌日の1奪三振で、前後を合わせると、15連続奪三振となる 9連続奪三振の試合で、江夏は、田淵へのキャッチャーフライを「取るな」と叫んだとされるが、実際には、ファールになりそうで、テンポ良く投げたかったので「追うな」と叫んだそうだ 9連続奪三振達成の後、キャッチャー・田淵は、記念ボールを放り投げてしまったが、王貞治が拾い、江夏に渡してくれたそうだ 1973年8月20日の中日戦で、江夏は、史上初の延長でのノーヒットノーラン、しかも自らのサヨナラホームランの離れ業 延長でのノーヒットノーラン達成は、江夏だけ 江夏は上記のような輝かしい実績や投手タイトルをいくつか獲得しながら、阪神の内紛に巻き込まれ、血行障害などもあり、成績が年々下降し、1976年1月のオフに、南海にトレード移籍 南海での1年目は、先発で登録されたが、血行障害などで長いイニングを投げることが出来ず、成績も6勝12敗9セーブと伸び悩んだ 堅徳兼任選手の野村克也は、江夏の制球力、投球術などから短いイニングのリリーフ転向を薦めた 江夏は、リリーフ転向に難色を示したが、野村の野球に対する深い考えなどに共感し、これからの投手分業時代のリリーフの重要性などを説得され、(リリーフで)「野球に革命を起こそう」との主旨の発言でリリーフ転向を決意 江夏は、南海2年目の1977年リリーフ転向で、4勝2敗19セーブで最優秀救援投手で蘇った しかし、その年のオフの心酔する野村克也の監督解任で、広島へトレード移籍 1978年の広島移籍1年目は、5勝4敗12セーブと少し落ち込むが、翌1879年は、9勝5敗22セーブでセ・リーグMVPと最優秀救援投手 リリーフで、リーグMVPは、史上初で、まさに「野球の革命」 1978年の3勝3敗を受けての日本シリーズの最終第7戦で、1点リードの九回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からスクイズを見抜き、ピンチを脱出し、日本一に輝いた これは「江夏の21球」として有名 翌1980年も9勝6敗21セーブで最優秀救援投手となり、広島のリーグ優勝に貢献・・・ 日本シリーズも制し、2年連続で広島は日本一 しかし、その年のオフに日本ハムにトレード移籍 1981年は、3勝6敗25セーブでパ・リーグMVPと最優秀救援投手 両リーグMVPは、史上初 また、両リーグでの最優秀救援投手 翌1982年は、8勝4敗29セーブで最優秀救援投手 この年は、通算200勝達成で、名球会入り 1983年は、2勝4敗34セーブながら最優秀救援投手のタイトル取れず この年のオフに信頼していた大沢啓二監督勇退で西武へトレード移籍 西武では、1984年の開幕から調子が上がらず、1勝2敗8セーブで、西武を退団、現役引退を表明 しかし「たった1人の引退式」の挨拶で大リーグ挑戦を表明 江夏の西武退団には、広岡達朗監督の確執があるといわれた 翌1985年のミルウォーキー、ブルワーズの春季キャンプに参加 最初は、順調だxたが、最後の最後で調子を落とし、開幕メジャーならず マイナー契約も打診されたようだが、実質は戦力外だったようだ ▼現役引退後 現役引退後は、野球解説、野球評論家の傍ら、俳優・タレントとして活動 1993年に覚せい剤所持で逮捕 仮釈放後は、野球解説・野球評論などをし、阪神の臨時コーチも 投手成績・・・ 18年、829試合登板、206勝158敗193セーブ、勝率5割6分6厘、3196回で2987奪三振、防御率2.49 MVP2回 最優秀防御率1回、最多勝2回、奪三振王6回(当時は表彰なし)。最優秀救援投手5回 沢村賞1回 ベストナイン1回 オールスターゲームMVP3回(1970年第3戦、1971年第1戦、1980念第3戦) ノーヒットノーラン1回(延長での達成は江夏のみ) 江夏の21球 有名な「江夏の21球」など山際淳司の野球短編を収録 江夏の21球(DVD) NHK特集がDVDになった「江夏の21球」、名シーンが蘇ります |
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