貴乃花光司 |
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■貴乃花光司■花田家の遺伝子を継ぐ平成の大横綱 (RANKING 16位) |
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貴乃花 光司(たかのはな こうじ) | |||||||||||||||||||||||||
本名・花田光司〜出身地・東京都〜身長185センチ、体重154キロ | |||||||||||||||||||||||||
生没年月日・1972年8月12日ー | |||||||||||||||||||||||||
最高位・横綱 | |||||||||||||||||||||||||
■コメント | |||||||||||||||||||||||||
貴乃花光司は、優勝22回などをした平成の大横綱です。 貴乃花光司は、大関・貴ノ花の次男で、伯父に若乃花幹士(初代)がおり、兄に若乃花勝がいます。 一代年寄です。 数々の年少記録を作り、大鵬幸喜の優勝回数32回(当時史上1位)に迫ると思われましたが、晩年に失速しました。 兄・若乃花勝とともに「若貴ブーム」を作りました。 (現在はかなりスリムになりましたが、体重は現役当時のものです) □貴乃花光司を知るおすすめ作品 ▼履歴 ▽入門まで 貴乃花光司は、1972年8月12日に東京都で生まれます。 前述の通り、大関・貴ノ花利彰の次男で、伯父に横綱・若乃花幹士(初代)、兄に横綱・若乃花勝(現在はタレントの花田虎上)のいる花田家の遺伝子を継ぐ平成の大横綱です。 幼少の頃より、わんぱく相撲などで活躍(わんぱく横綱)します。 中学卒業と同時に角界(父の藤島部屋、後に二子山部屋へ)に入門します。 四股名は貴花田。 1988年3月に初土俵。(同期は曙、兄の若乃花ら) 数々の年少記録を作り、大きな注目を集めます。 1989年11月に17歳2ヶ月で新十両。 1990年5月に17歳8ヶ月で新入幕。 この場所は4勝11敗で、十両へ陥落しますが、同年11月に幕内復帰。 その後、勢いは減速したものの、1991年3月に11連勝を含む12勝3敗で敢闘賞、技能賞。 1991年5月の初日に大横綱・千代の富士貢と当たり、千代の富士相手に最年少金星。 兄・若乃花(当時は若花田、ちなみに貴乃花も当時は貴花田)とともに「若貴ブーム」となる。 1992年1月に東前頭2枚目で19歳5ヶ月での初優勝。この場所は三賞を独占します。 同年9月に2回目の優勝。 この年は60勝30敗で最年少で年間最多勝。 1993年1月に11勝4敗を挙げ、20歳5ヶ月で大関昇進。(同時にライバル・曙は横綱昇進) 大関昇進で四股名を貴ノ花に改名。 その後、大関で横綱昇進のチャンスを何度か逃す。 1994年9月、11月を連続全勝優勝で横綱昇進。 (北の湖敏満の横綱最年少昇進記録の更新はなりませんでした) 1994年11月、四股名を貴乃花に改名。 1995年が3連覇を含む4回の優勝、1996年が4連覇で4回の優勝、1997年が2連覇を含む3回の優勝で、優勝回数を積み重ねますが、1998年は2連覇するものの、2回の優勝にとどまります。 この頃、整体師の「洗脳」騒動。 1999年、2000年と優勝がなく大きく失速。 2001年に2回の優勝にとどまります。 2001年の2回目の優勝が、貴乃花最後の22回目の優勝で、ケガを負いながら優勝決定戦で武蔵丸を下し、当時の小泉首相の「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」の表彰式でのよく知られるフレーズを生みます。 しかし感動的な激闘の代償は大きく、以後は7場所連続休場でさらに大きく失速します。 2003年1月中に現役引退。 (年少記録を次々と更新し、大鵬の優勝回数(当時史上1位)の更新も期待されましたが、晩年に大きく失速しました) ▽現役引退後 現役引退で、相撲界への功績から協会から一代年寄・貴乃花を許される。 2004年6月1日に父の二子山部屋を継承し、貴乃花部屋に。 現役時代からかなりスリムになり、話題に。 2005年5月30日に、父(大関・貴ノ花、元二子山親方)死去。 兄・花田勝(現在は花田虎上)との確執(父の遺産問題など)がとり立たされるが、真相は不明。 現在は、第2次北の湖政権下で、理事として活躍しています。 ▽親方として、相撲界での位置 相続した二子山の株は雅山に譲渡。 協会では、2008年に審判副部長に抜擢。 2010年1月には、理事改選に立候補。 (各一門の調整で無投票が通例だが、単独で立候補、この事件は「貴の乱」ともいわれた) 上記の事情から二所ノ関一門からの立候補を断念するも、単独立候補で理事選に当選。 (貴乃花を支持する派閥は「貴乃花派」「貴乃花グループ」などと呼ばれるようになり、一門が一つ増える形に) 野球賭博問題が起こる。 武蔵川理事長の辞任に伴う理事長選挙では北の湖を支持(落選、放駒(元大関・魁傑)が後任に) 審判部長に就任。 2011年に八百長問題。 2012年の理事改選に当選。 2014年に理事改選に当選。 総合企画部長など部長職5つの厚遇。 北の湖理事長の死後は、理事長選に立つも敗れ、八角(元横綱・北勝海)理事長の下で巡業部長。 横綱・日馬富士(責任を取り現役引退)の暴行事件に被害者・貴ノ岩の師匠として関わる。 日馬富士の暴行事件の対応など(協会との対立など)で理事解任 理事選落選 貴乃花のマスコミ対応が問題となる 弟子の貴公俊の付け人への暴行事件が起こり、平年寄に降格 貴乃花自ら貴乃花一門を離脱し、貴乃花一門消滅 全親方のうち、貴乃花親方だけ、どの一門にも所属できず、相撲協会退職 (親方はどこかの一門に所属しなければならなかった) 貴乃花退職で、貴乃花部屋の弟子は、千賀ノ浦(元隆三杉)へ 協会退職後は、協会を離れた立場で相撲の普及などに尽力 ▽平成の大横綱について 優勝22回で「平成の大横綱」といわれています。 貴乃花の体形の変化の肥満児が一度痩せ、体を作り直し、大きくなった(太った)のは「相撲の理想形」とされます。 四股は美しかったが、せり上がりなどを酷評された。 ライバル・曙とは対戦成績が21勝21敗と五分。 優勝回数が貴乃花22回に対し、曙11回で、この点では貴乃花が圧倒しました。 しかし、千秋楽まで優勝がもつれた時や優勝決定戦での敗戦の多さが「ここ一番での勝負弱さ」を指摘されることもあります。 上記の通り、「相撲の理想」で体を大きくしたといわれるものの、ドーピング疑惑もとり立たされ、太りすぎによる前へのバッタリ倒れる脆さも指摘されました。 (現役の前半は足腰のよさをうたわれましたが、現役の後半に特に指摘されるように・・・) 花田家は代々足腰のよさが自慢でしたが・・・。 曙などに比べ、豪快さに欠けるといわれ、本人も豪快な決まり手の「呼び戻し」を試みるなど、指摘を克服しようとはしていたようですが、晩年は急速の失速、ケガなどもあり、本人の目指す「相撲の理想」の完成には至りませんでした。 「若貴ブーム」などマスコミとも常に大きく関わり、本人も試行錯誤、悪戦苦闘していたようです。 ▼ライバル 貴乃花のライバルといえば同期入門」で横綱でもしのぎをけずった曙太郎を挙げます。 (対戦成績は貴乃花から見たものです) 曙太郎 アメリカ・ハワイ出身、身長203cm、体重230kg 幕内通算成績 63場所 566勝198敗181休 勝率7割4分1厘 優勝11回 殊勲賞4回、敢闘賞2回 金星4個 最高位・横綱 外国出身力士初の横綱です。 貴乃花の前を行き、先に横綱となった時は、「曙時代」も感じさせました。 (実際には、曙と貴乃花の時代に、優勝回数などから貴乃花時代といえるかも・・・) 総合格闘家転向はあまり成功しませんでしたが、プロレス転向で活躍しています。 対戦成績21勝21敗 ●●○○○●●●●●○●●●○○○●●●○○●○●○○○○○○●○○● ●○●○●○● (上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に優勝決定戦が貴乃花の1勝2敗) 貴乃花 我が相撲道 貴乃花光司がインタビューから相撲界を去った心境などを語る 大相撲名力士風雲録4−月刊DVDマガジン貴乃花 平成の大横綱・貴乃花光司の戦いの軌跡などをたどる □貴乃花光司を知るおすすめ作品 |
■幕内通算成績(平成4年1月の備考の三は殊勲賞・敢闘賞・技能賞の三賞独占) | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
平成2(1990)年5月 | 東前14 | 4勝11敗 | ○●●○●●●○●○●●●●● | ||
平成2(1990)年11月 | 西前12 | 8勝7敗 | ●○○●○○○●○○●●○●● | ||
平成3(1991)年1月 | 西前9 | 6勝9敗 | ●○●○●●●●●●○○○○● | ||
平成3(1991)年3月 | 東前12 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○○○○●●●○ | 敢技 | |
平成3(1991)年5月 | 西前1 | 9勝6敗 | ○○●●●○●○●●○○○○○ | 殊 | |
平成3(1991)年7月 | 西小結 | 11勝4敗 | ○●●○●○○○○○●○○○○ | 殊技 | |
平成3(1991)年9月 | 西関脇 | 7勝8敗 | ○○○●●●●●○○○●●●□ | ||
平成3(1991)年11月 | 東前1 | 7勝8敗 | ●○●●●○○○●●○○●○● | ||
平成4(1992)年1月 | 東前2 | 14勝1敗 | ○○●○○○○○○○○○○○○ | 1 | 三 |
平成4(1992)年3月 | 西関脇 | 5勝10敗 | ●●●○○○●●○○●●●●● | ||
平成4(1992)年5月 | 西前2 | 9勝6敗 | ●○●○●○○○○○●○●●○ | ||
平成4(1992)年7月 | 東張小 | 8勝7敗 | ○●●●○●●○○●○○●○○ | ||
平成4(1992)年9月 | 西小結 | 14勝1敗 | ○○□○●○○○○○○○○○○ | 2 | 殊 |
平成4(1992)年11月 | 西関脇 | 10勝5敗 | ●●●●○○○○○○○○○●○ | ||
平成5(1993)年1月 | 東関脇 | 11勝4敗 | ○○○○○○○●○●●○○○● | ||
平成5(1993)年3月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○○○○●○●○○○○○○●● | ||
平成5(1993)年5月 | 東大関 | 14勝1敗 | ○●○○○○○○○○○○○○○ | 3 | |
平成5(1993)年7月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○●○○○○ | 決 | |
平成5(1993)年9月 | 東大関 | 12勝3敗 | ○●○○○○○●○○○○○●○ | ||
平成5(1993)年11月 | 東大関 | 7勝8敗 | ○●○●●●○○○○●○●●● | ||
平成6(1994)年1月 | 西大関 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○●○ | 4 | |
平成6(1994)年3月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○○○○●○○●○○○○●○● | ||
平成6(1994)年5月 | 西大関 | 14勝1敗 | ○○○○○○●○○○○○○○○ | 5 | |
平成6(1994)年7月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○●○○○●○●○○○○○○● | ||
平成6(1994)年9月 | 西大関 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 6 | |
平成6(1994)年11月 | 東大関 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 7 | |
平成7(1995)年1月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ●○○○○○○●○○○○○○○ | 8 | 決 |
平成7(1995)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○●○○○○○○○● | ||
平成7(1995)年5月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 9 | |
平成7(1995)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○●○○○○○○● | 10 | |
平成7(1995)年9月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 11 | |
平成7(1995)年11月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ●○○○○○●○○○○○○○○ | 決 | |
平成8(1996)年1月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○●○ | 決 | |
平成8(1996)年3月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○●○○○○○○○○○○○○ | 12 | |
平成8(1996)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○●○○○○○○○○○ | 13 | |
平成8(1996)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○○○●○○ | 14 | |
平成8(1996)年9月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 15 | |
平成8(1996)年11月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成9(1997)年1月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○●●○○○○○○○○○○ | ||
平成9(1997)年3月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○●○○●○○○○○○●○ | 16 | 決 |
平成9(1997)年5月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○●○○○○○○○○○○○○● | 決 | |
平成9(1997)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○○○○●○ | 17 | |
平成9(1997)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○○○○●○ | 18 | 決 |
平成9(1997)年11月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○●○○○○○○○○○○ | 決 | |
平成10(1998)年1月 | 東横綱 | 8勝5敗2休 | ●○○○○○○○○●●●■休休 | ||
平成10(1998)年3月 | 西横綱 | 1勝4敗10休 | ●●○●■休休休休休休休休休休 | ||
平成10(1998)年5月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○○○○○●○○●●○○●○● | ||
平成10(1998)年7月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | 19 | |
平成10(1998)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○○○○●○ | 20 | |
平成10(1998)年11月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○●●○○○○○○○○●○○ | ||
平成11(1999)年1月 | 東横綱 | 8勝7敗 | ●●○●○○○○○●○●○●● | ||
平成11(1999)年3月 | 西横綱 | 8勝3敗4休 | ○○○●○○○○●○■休休休休 | ||
平成11(1999)年5月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成11(1999)年7月 | 西横2 | 9勝6敗 | ○●○○○○○○●○○●●●● | ||
平成11(1999)年9月 | 東横2 | 3敗12休 | ●●■休休休休休休休休休休休休 | ||
平成11(1999)年11月 | 西横2 | 11勝4敗 | ●○○○○●○○●○○○○○● | ||
平成12(2000)年1月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○●○○○○●●○○○○○○ | ||
平成12(2000)年3月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ●○○○○○○●○○○○●○● | ||
平成12(2000)年5月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○●○○○○○○●○○ | ||
平成12(2000)年7月 | 西横綱 | 5勝3敗7休 | ○○●○○○●■休休休休休休 | ||
平成12(2000)年9月 | 東横2 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成12(2000)年11月 | 東横2 | 11勝4敗 | ○○○○○○○○●●○○●●○ | ||
平成13(2001)年1月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | 21 | 決 |
平成13(2001)年3月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○●○○○○○○○○○●○● | ||
平成13(2001)年5月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○□○○○○○●● | 22 | 決 |
平成13(2001)年7月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成13(2001)年9月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成13(2001)年11月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成14(2002)年1月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成14(2002)年3月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成14(2002)年5月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成14(2002)年7月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成14(2002)年9月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○●○○●○○○○○○○○○● | ||
平成14(2002)年11月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
平成15(2003)年1月 | 西横綱 | 4勝4敗1休 | ○○■休○○●●■ | ||
幕内通算成績 75場所 701勝217敗201休 勝率7割6分4厘 優勝22回 殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞3回、金星1個 |
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