若乃花幹士(初代) |
ホーム>>>スタディ>>>大相撲>>>史上最強力士RANKING>>> ■史上最強力士RANKING−INDEX■■■■■
■若乃花幹士(初代)■土俵の鬼、異能力士 (RANKING 20位) |
若乃花 幹士(わかのはな かんじ) |
本名・花田 勝治〜出身地・青森県〜身長179cm、体重107kg |
生没年月日・昭和3(1928)年3月16日−平成22(2010)年9月1日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
若乃花幹士(初代)は179センチ、107キロの体格ながら大型力士に対しても力でねじ伏せる取り口で「異能力士」といわれました。 その軽量から下位の頃は「キツネ」といわれ、やがて「オオカミ」に、さらにその土俵に取り組む姿勢から「土俵の鬼」ともいわれました。 栃錦清隆とともに「栃若」時代を築きました。 □若乃花幹士(初代)を知るおすすめ作品 ▼履歴 青森県のりんご農家に生まれ、昭和29(1934)年の室戸台風で農園が全滅し、北海道へ移ります。 昭和21(1946)年に二所ノ関一門の巡業の際に、飛び入り参加で力士に勝ったのがきっかけで二所ノ関部屋に入門しました。 昭和21(1946)年11月に初土俵、昭和24(1949)年5月に新十両、昭和25(1950)年1月には新入幕を果たしています。 後にプロレス入りする兄弟子・力道山との猛稽古の際にあまりの厳しさに力道山の膝にかみつき部屋から脱走し隅田川に飛び込んだという逸話があります。(力道山のプロレスでの黒タイツは、この古傷を隠すためともいわれています) 入門後、順調に番付を上がっていき、3年足らずで十両昇進を果たしますが、弟弟子たちとの昇進祝いの祝杯でお金が足りなくなり、当時の横綱・東富士に借金をしたことが問題となります。 除名になりかけますが、羽黒山の取り成しで免れます。 足腰が強く、俵に足がかかると梃子でも動かず「踵に目がある」といわれ、110キロに満たない軽量ながら大型力士相手でも正攻法で相手をねじふせる相撲を取り、軽量の小型力士が取る相撲とは常識の外れた取り口から「異能力士」といわれました。 その足腰の強さを利した技に豪快な「呼び戻し」がありました。 若乃花の強さは強い足腰でも特に膝のバネの強さにあったといわれます。 他のニックネームには下位の頃にはその軽量から「キツネ」があり、後に「オオカミ」へ、さらには土俵に取り組む姿勢から「土俵の鬼」と変わります。 昭和28(1953)年、二所ノ関部屋から師匠の大ノ海が引退した際に、ともに独立し花籠部屋(独立直後は芝田山部屋)に移ります。 小部屋ゆえの苦労もありましたが、猛稽古で補い、さらに昇進していきます。 昭和31(1956)年1月に大関に、昭和33(1958)年3月に横綱に昇進します。 昭和31(1956)年9月の場所前に長男がちゃんこ鍋をかぶって火傷で亡くなる不幸に見舞われますが、数珠をかけて場所入りし、12日目まで連勝を重ねます。 前々場所が決定戦で敗れ優勝同点、前場所が決定戦を制し初優勝をしていた若乃花には横綱昇進もかかっていました。 無言で場所入りする姿は、鬼気迫るものがありましたが、12連勝した翌日から高熱で休場、千秋楽には再び出場を決意し、栃錦との割も組まれますが、再び病状悪化で出場断念となりこの場所は12勝2敗1休み(2敗は不戦勝)に終わります。 栃錦清隆とともに「栃若」時代を築きます。 栃錦との対戦は白熱の対決が多く、水入りになることもしばしばで、大いなる人気を博しました。 対戦成績は栃錦の19勝15敗(優勝決定戦を含めると19勝16敗)でした。 (対戦成績には若乃花休場による若乃花の不戦敗が1回あり) 昭和34(1959)年5月に1敗で全勝の栃錦を追走していた若乃花は千秋楽の本割で下し、優勝決定戦も勝っての逆転優勝をします。 昭和35(1960)年3月には栃錦との千秋楽全勝決戦を制し優勝をします。 ▽現役引退後 引退後は年寄・二子山として横綱・若乃花(2代)、隆の里や大関・貴ノ花を始め多くの幕内力士を育てる一方で春日野理事長の下では春日野を補佐し、春日野勇退後はその後を継ぎ理事長に就任し、立ち合いの正常化などの改革に尽力しました。 昭和63(1988)年4月に還暦土俵入りを露払いに鳴戸(隆の里)、太刀持ちに間垣(二代目若乃花)を従えて披露しています。 弟子として手がけた弟の大関だった貴ノ花には先立たれました。 若乃花は、梅ヶ谷藤太郎(初代)の横綱長寿記録(83歳)に迫っていましたが・・・ 平成22(2010)年9月1日に82歳で横綱としては史上3位の長寿記録で死亡しました。 「土俵の鬼」といわれた若乃花幹士(初代)の戦いの軌跡を収録した大相撲寝名力士風雲録6−月刊DVDマガジン 初代若乃花 若乃花幹士(初代)の熱戦が伝わります ▼ライバル 若乃花のライバルとしては若乃花とともに「栃若」時代を築いた栃錦清隆を挙げます。 (対戦成績は若乃花から見たものです) 栃錦清隆 東京都出身、身長178cm、体重132kg 幕内通算成績 52場所 513勝203敗1分32休、勝率7割1分6厘、優勝10回 少年時代から運動神経抜群で、自身の力士への憧れや近所の八百屋からの後押しもあり春日野部屋に入門しました 新弟子検査をギリギリで合格し、下位で初切(しゅっきり)をやっていた頃はあまり期待されてはいなかったが、「マムシ」とあだ名された食い下がるしぶとい相撲で番付を上がっていきました 平幕から三役にかけては軽量であったこともあり、相撲の技は全て使ったといわれるほどの業師ぶりを発揮し、大関昇進直前までの5場所連続を含む9回の技能賞を獲得しています 昭和26(1951)年1月には初日から7連敗するも、翌日から8連勝して勝ち越す記録もつくっています 大関から横綱にかけて体重の増量とともに正攻法の相撲に変化していき晩年は相撲の基本といわれる押し相撲になっていました 若乃花幹士(初代)とともに「栃若」時代を築きます 昭和35(1960)年5月、前場所は14日目まで全勝で千秋楽の若乃花との全勝対決には敗れたものの、まだまだ余力はあると思われましたが、師匠の春日野(栃木山)の引き際を見習ったのか、初日から2連敗するとあっさり引退しています 引退の前場所までの7場所の勝率は9割を超えていました 引退後は年寄・春日野として多くの幕内力士を育てる一方で、後に理事長として「安定長期政権」を築き、新たな両国国技館建設や相撲茶屋の改革などを断行しました 詳細は史上最強力士RANKING内の栃錦清隆を参照 対戦成績15勝19敗 ○●○●●●●○○○●●○●●●○■●○●●●○○●○○●○●○●○ (上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に両者は優勝決定戦で1回対戦して若乃花が勝っています) □若乃花幹士(初代)を知るおすすめ作品 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
昭和25(1950)年1月 | 西前18 | 11勝4敗 | ●○○●●○●○○○○○○○○ | 敢 | |
昭和25(1950)年5月 | 東前9 | 10勝5敗 | ○●○○○○○○●●○●○●○ | ||
昭和25(1950)年9月 | 東前4 | 4勝11敗 | ●●●●○●●○●●●●○○● | ||
昭和26(1951)年1月 | 東前7 | 11勝4敗 | ○○○○●○○○○○○○●●● | 敢 | |
昭和26(1951)年5月 | 東前1 | 8勝7敗 | ○●●●●●○○●○○●○○○ | 金 | |
昭和26(1951)年9月 | 東小結 | 7勝8敗 | ●●○●●○●●○○○●●○○ | ||
昭和27(1952)年1月 | 西張小 | 5勝10敗 | ○●●●○●●●○●●○●○● | ||
昭和27(1952)年5月 | 西前4 | 5勝10敗 | ●●○●●●●○●○○●●●○ | ||
昭和27(1952)年9月 | 西前9 | 10勝5敗 | ○●○●●○○○●○○○○○● | ||
昭和28(1953)年1月 | 西前3 | 8勝7敗 | ●○●●●○○○○○●○●●○ | 金3 | |
昭和28(1953)年3月 | 東前1 | 8勝7敗 | ●●○●○●●●○○○○○○● | 金 | |
昭和28(1953)年5月 | 東前1 | 8勝7敗 | ○●○●●○●●●○●○○○○ | 金 | |
昭和28(1953)年9月 | 西小結 | 8勝7敗 | ○○○●●●●●●○○●○○○ | ||
昭和29(1954)年1月 | 西関脇 | 8勝7敗 | ○●●●●●○○●○○○○○● | 殊 | |
昭和29(1954)年3月 | 東関脇 | 9勝6敗 | ○○○●○●○○○●○●○●● | ||
昭和29(1954)年5月 | 東関脇 | 9勝6敗 | ○○○●○○○●○●●●○●○ | ||
昭和29(1954)年9月 | 西関脇 | 11勝4敗 | ○○○○●○●●○○○○○●○ | 殊 | |
昭和30(1955)年1月 | 東関脇 | 7勝7敗1分 | 分○○●●○●○●●○○●○● | ||
昭和30(1955)年3月 | 西関脇 | 10勝4敗1分 | ○○○分○○○○●○●○●○● | ||
昭和30(1955)年5月 | 西関脇 | 8勝7敗 | ●○●○●○○●●●○●○○○ | ||
昭和30(1955)年9月 | 西関脇 | 10勝4敗1分 | ○○○○○●○○○○分●●○● | 技 | |
昭和31(1956)年1月 | 東張大 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○●○●○○○○ | ||
昭和31(1956)年3月 | 東大関 | 12勝3敗 | ○○○●○●○●○○○○○○○ | 決 | |
昭和31(1956)年5月 | 東大関 | 12勝3敗 | ○○○●●○○○○●○○○○○ | 1 | 決 |
昭和31(1956)年9月 | 東大関 | 12勝2敗1休 | ○○○○○○○○○○○○■休■ | ||
昭和32(1957)年1月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○○○○●○○●○○○●○●○ | ||
昭和32(1957)年3月 | 東大関 | 10勝5敗 | ○○●○○○○○○●●●○●○ | ||
昭和32(1957)年5月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○○○○○○○○●○●●●○○ | ||
昭和32(1957)年9月 | 東大関 | 11勝4敗 | ○○●○●○○○○○○○●○● | ||
昭和32(1957)年11月 | 東大関 | 12勝3敗 | ○○○○○□○○○●○○○●● | ||
昭和33(1958)年1月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○●○●○○○ | 2 | |
昭和33(1958)年3月 | 東張横 | 12勝3敗 | ●○○○○○○○○○○○●○● | ||
昭和33(1958)年5月 | 西横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○○○○○○○●●●● | ||
昭和33(1958)年7月 | 東張横 | 13勝2敗 | ●○○○○○○○○○○○●○○ | 3 | |
昭和33(1958)年9月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | 4 | |
昭和33(1958)年11月 | 東横綱 | 12勝2敗1分 | ○○○○○○分●○○○○○○● | ||
昭和34(1959)年1月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 5 | |
昭和34(1959)年3月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○●○○○○●● | ||
昭和34(1959)年5月 | 東張横 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 6 | 決 |
昭和34(1959)年7月 | 西横大 | 11勝4敗 | ●○○○○○○○○●○○○●● | ||
昭和34(1959)年9月 | 西横大 | 14勝1敗 | ○○○○●○○○○○○○○○○ | 7 | |
昭和34(1959)年11月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○●○○○○●○○●● | ||
昭和35(1960)年1月 | 西横綱 | 3敗12休 | ●●■休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和35(1960)年3月 | 東張横 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 8 | |
昭和35(1960)年5月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○●○○●○○ | ||
昭和35(1960)年7月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○●○○○○○○●○○ | 9 | |
昭和35(1960)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○●○○○○○● | 10 | |
昭和35(1960)年11月 | 東横綱 | 5勝4敗6休 | ○●○○●○○●■休休休休休休 | ||
昭和36(1961)年1月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○●○○○●●○ | ||
昭和36(1961)年3月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和36(1961)年5月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○○○●○○●●○○○○●○● | ||
昭和36(1961)年7月 | 東横綱 | 3勝4敗8休 | ○●○○●●■休休休休休休休休 | ||
昭和36(1961)年9月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○○○○●●○○○○●○○●● | ||
昭和36(1961)年11月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○●○○○●○○○●○○● | ||
昭和37(1962)年1月 | 東横2 | 11勝4敗 | ○●○○○○○●○●○○○○● | ||
昭和37(1962)年3月 | 東横綱 | 2敗13休 | ●■休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和37(1962)年5月 | 東張横 | (引退) | (引退) | ||
幕内通算成績 57場所 546勝235敗4分55休 勝率6割9分9厘 優勝10回 殊勲賞2回、敢闘賞2回、技能賞1回 金星6個 |
|||||
■ネットビジネス研究 □お小遣いサイト お財布.com □アフィリエイト おすすめレンタルサーバーとホームページ作成ソフト おすすめASP ■ホームページ制作 |
若乃花幹士(初代) |