栃錦清隆 |
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■栃錦清隆■技能から正攻法へ変化 (RANKING 19位) |
栃錦 清隆(とちにしき きよたか) |
本名・大塚 清→中田 清〜出身地・東京都〜身長178cm、体重132kg |
生没年月日・大正14(1925)年2月20日−平成2(1990)年1月10日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
栃錦清隆(とちにしき・きよたか)は小兵ながら正攻法の寄り、押し相撲を完成させ、若乃花幹士(初代)とともに「栃若」時代を築きました。 平幕から三役にかけての技能力士ぶりから大関、横綱になってからの正攻法の寄り、押しの相撲への激的な「変化」も特質するものがありました。 栃錦は技能から正攻法へ変化した力士です。 ▼履歴 少年時代から運動神経抜群で、自身の力士への憧れや近所の八百屋からの後押しもあり春日野部屋に入門しました。 新弟子検査をギリギリで合格し、昭和14(1939)年1月に初土俵を踏みます。 下位で初切(しょっきり)をやっていた頃はあまり期待されてはいませんでしたが、「マムシ」とあだ名された食い下がるしぶとい相撲で番付を上がっていきました。 平幕から三役にかけては軽量であったこともあり、相撲の技は全て使ったといわれるほどの業師ぶりを発揮し、大関昇進直前までの5場所連続を含む9回の技能賞を獲得しています。 昭和26(1951)年1月には初日から7連敗するも、翌日から8連勝して勝ち越す記録もつくっています。 7連敗で「後」がなくなってからの8連勝は驚くべき「集中力」だと思います。 昭和28(1953)年1月に大関に、昭和30(1955)年1月に横綱に昇進します。 大関から横綱にかけて体重の増量とともに正攻法の相撲に変化していき晩年は相撲の基本といわれる押し相撲になっていました。 若乃花幹士(初代)とともに「栃若」時代を築きます。 若乃花との対戦は白熱の対決が多く、水入りになることもしばしばで、大いなる人気を博しました。 対戦成績は栃錦の19勝15敗(優勝決定戦を含めると19勝16敗)でした。 (対戦成績には若乃花休場による若乃花の不戦敗、栃錦から見れば不戦勝が1回あり) 昭和34(1959)年5月、千秋楽まで全勝でトップに立っていたものの、千秋楽に1敗の若乃花に敗れ、相星となり決定戦でも若乃花に敗れて優勝を逃します。 昭和35(1960)年3月、若乃花との千秋楽の全勝決戦に敗れます、同年(1960)年5月、前場所は14日目まで全勝で千秋楽の若乃花との全勝対決には敗れたものの、まだまだ余力はあると思われましたが、師匠の春日野(栃木山)の引き際(3場所連続優勝をしながら引退)を見習ったのか、初日から2連敗するとあっさり引退しています。 引退の前場所までの7場所の勝率は9割を超えていました。 ある意味栃錦の晩年は「円熟の境地」に達していたのかもしれません。 ▽現役引退後 引退後は年寄・春日野として多くの幕内力士を育てる一方で、後に理事長として「安定長期政権」を築き、新たな両国国技館建設や相撲茶屋の改革などを断行しました。 両国国技館建設は借入金無しで実現しました。 昭和60(1985)年5月にその両国国技館で還暦土俵入りを露払いに出羽海(佐田の山)、太刀持ちに二子山(若乃花)を従えて披露しています。 平成2年(1990年)1月10日の死去 相撲界としては初めての従四位・勲二等瑞宝章を追贈 小柄ながら多彩な技の技能力士から体重の増加で正攻法の寄り・押し相撲へ変化した栃錦清隆の熱戦の数々を収録した大相撲名力士風雲録5−月刊DVDマガジン 栃錦 横綱になり、相撲の基本へ デビューから引退までを語る。 「栃錦一代」の改題。 栃錦清隆ー栃錦一代(人間の記録(39)) ▼ライバル 栃錦のライバルとしては栃錦とともに「栃若」時代を築いた若乃花幹士(初代)を挙げます。 (対戦成績は栃錦から見たものです) 若乃花幹士(初代) 青森県出身、身長179cm、体重107kg 幕内通算成績 57場所 546勝235敗4分55休 勝率6割9分9厘 優勝10回 青森県のりんご農家に生まれ、昭和29(1934)年の室戸台風で農園が全滅し、北海道へ移ります 二所ノ関一門の巡業の際に、飛び入り参加で力士に勝ったのがきっかけで二所ノ関部屋に入門しました 後にプロレス入りする兄弟子・力道山との猛稽古の際にあまりの厳しさに力道山の脛にかみつき部屋から脱走し隅田川に飛び込んだという逸話があります(力道山のプロレスでの黒タイツは、この古傷を隠すためともいわれています) 入門後、順調に番付を上がっていき、3年足らずで十両昇進を果たしますが、弟弟子たちとの昇進祝いの祝杯でお金が足りなくなり、当時の横綱・東富士に借金をしたことが問題となります 除名になりかけますが、羽黒山の取り成しで免れます 足腰が強く、110キロに満たない軽量ながら正攻法の相手をねじふせる相撲を取り、「異能力士」といわれました 他のニックネームには「キツネ」があり、後に「オオカミ」、さらには「土俵の鬼」と変わります 昭和28(1953)年、二所ノ関部屋から師匠の大ノ海が引退した際に、ともに独立し花籠部屋(独立直後は芝田山部屋)に移ります 小部屋ゆえの苦労もあったが、猛稽古で補い、さらに昇進していきます 昭和34(1959)年5月に全勝の栃錦を千秋楽の本割で下し、優勝決定戦も勝っての逆転優勝、昭和35(1960)年3月には栃錦との千秋楽全勝決戦を制し優勝など栃錦との歴史的名勝負を繰り広げます 引退後は年寄・二子山として横綱・若乃花(2代)、隆の里や大関・貴ノ花を始め多くの幕内力士を育てる一方で春日野理事長の下では春日野を補佐し、春日野勇退後はその後を継ぎ理事長に就任し、立ち合いの正常化などの改革に尽力しました 詳細は史上最強力士RANKING内の若乃花幹士(初代)を参照 対戦成績19勝15敗 ●○●○○○○●●●○○●○○○●□○●○○○●●○●●○●○●○● (上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に両者は優勝決定戦で1回対戦して若乃花が勝っています) |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
昭和22(1947)年6月 | 西前18 | 4勝6敗 | ●●○●○●●○○● | ||
昭和22(1947)年11月 | 西前18 | 9勝2敗 | ○○●○○○○●○○○ | ||
昭和23(1948)年5月 | 西前8 | 5勝5敗1分 | ○●○●○分●●●○○ | ||
昭和23(1948)年10月 | 西前7 | 7勝4敗 | ○●●●○○●○○○○ | ||
昭和24(1949)年1月 | 西前3 | 7勝6敗 | ●○●●●○●○○●○○○ | 技 | |
昭和24(1949)年5月 | 西前3 | 4勝11敗 | ●●●●●●●●●●○○○○● | ||
昭和24(1949)年10月 | 西前7 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○●○○○○●○ | 技 | |
昭和25(1950)年1月 | 西張小 | 8勝7敗 | ○●○●○○●○●○●●○○● | 技 | |
昭和25(1950)年5月 | 東小結 | 5勝10敗 | ○○○●●●●●●●○○●●● | ||
昭和25(1950)年9月 | 東前3 | 8勝7敗 | ●●●●○○●○○●○○○●○ | 技、金 | |
昭和26(1951)年1月 | 東前2 | 8勝7敗 | ●●●●●●●○○○○○○○○ | ||
昭和26(1951)年5月 | 東小結 | 9勝6敗 | ○●○○○○●●○●○●○○● | 技 | |
昭和26(1951)年9月 | 西関脇 | 9勝6敗 | ○●●●○○○●○○●○○○● | 技 | |
昭和27(1952)年1月 | 東張関 | 10勝5敗 | ○●○○●○●○○○●●○○○ | 殊技 | |
昭和27(1952)年5月 | 東関脇 | 10勝5敗 | ○○○○○○●○●●○○●●○ | 技 | |
昭和27(1952)年9月 | 西関脇 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○●○○○ | 1 | 技 |
昭和28(1953)年1月 | 東張大 | 11勝4敗 | ○○○●○○○○○○○○●●● | ||
昭和28(1953)年3月 | 東大関 | 14勝1敗 | ○○○○○○○●○○○○○○○ | 2 | |
昭和28(1953)年5月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○○○●○● | ||
昭和28(1953)年9月 | 西大関 | 8勝7敗 | ●○●○○○●●○○●●●○○ | ||
昭和29(1954)年1月 | 西大関 | 9勝6敗 | ○○○●○○●○○●○●○●● | ||
昭和29(1954)年3月 | 西大関 | 9勝6敗 | ●○○○○●●●○○●○○○● | ||
昭和29(1954)年5月 | 西大関 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○●○○○○ | 3 | |
昭和29(1954)年9月 | 東大関 | 14勝1敗 | ●○○○□○○○○○○○○○○ | 4 | |
昭和30(1955)年1月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ●○○●○○○○●●○●○○○ | ||
昭和30(1955)年3月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ●○●○●○○○○○○○○○○ | ||
昭和30(1955)年5月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○●○○○○○○ | 5 | |
昭和30(1955)年9月 | 東横綱 | 4勝3敗8休 | ○●○○●○■休休休休休休休休 | ||
昭和31(1956)年1月 | 西張横 | 9勝6敗 | ○○●○○○○○○●●●●●○ | ||
昭和31(1956)年3月 | 東張横 | 9勝6敗 | ○●○○○○○●○●○●●○● | ||
昭和31(1956)年5月 | 西横綱 | 5勝5敗5休 | ●○○●●○●○○■休休休休休 | ||
昭和31(1956)年9月 | 西張横 | 11勝4敗 | ○○○○○○○●○○○●●●□ | ||
昭和32(1957)年1月 | 東張横 | 11勝4敗 | ○○○○○●○○○●○○●○● | ||
昭和32(1957)年3月 | 西横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○●○○○○●○●○● | ||
昭和32(1957)年5月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ●○○○○○●○○○●○○○○ | ||
昭和32(1957)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ●○○○○○○○○○○○○●○ | 6 | |
昭和32(1957)年11月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○○●○○●○● | ||
昭和33(1958)年1月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○●○○○○○●○●● | ||
昭和33(1958)年3月 | 西横綱 | 11勝4敗 | ○○○●○○○○○○○○●●● | ||
昭和33(1958)年5月 | 東張横 | 14勝1敗 | ●○○○○○○○○○○○○○○ | 7 | |
昭和33(1958)年7月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○○○●○○○● | ||
昭和33(1958)年9月 | 西横綱 | 6勝5敗4休 | ●○○○○●●○○●■休休休休 | ||
昭和33(1958)年11月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和34(1959)年1月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○○●○○○○○●○●○●○● | ||
昭和34(1959)年3月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 8 | |
昭和34(1959)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | 決 | |
昭和34(1959)年7月 | 東張横 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 9 | |
昭和34(1959)年9月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○○●●○○○● | ||
昭和34(1959)年11月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○●○○○○○●○●○ | ||
昭和35(1960)年1月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 10 | |
昭和35(1960)年3月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | ||
昭和35(1960)年5月 | 西横綱 | 3敗 | ●●■ | ||
幕内通算成績 52場所 513勝203敗1分32休 勝率7割1分6厘 優勝10回 殊勲賞1回、技能賞9回 金星1個 |
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