栃木山守也 |
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■栃木山守也■3連覇で引退、6年後に全日本力士選士権優勝 (RANKING 4位) |
栃木山 守也(とちぎやま もりや) |
本名・横田 守也→中田 守也〜出身地・栃木県〜身長172cm、体重103kg |
生没年月日・明治25(1892)年2月5日−昭和34(1959)年10月3日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
栃木山守也(とちぎやま・もりや)は、体重103kgの「史上最軽量横綱」ながら大正時代に無敵を誇り一時代を築いた強豪です。 現役時代の強さをもちろん引退から6年経って全日本力士選士権に年寄・春日野として出場して現役力士らを向こうにまわして優勝してしまいます。 (引退後のいくつかのエピソードからも現役時代の強さがうかがえます) また筈押しのスピード相撲を完成させて、兄弟弟子の大錦卯一郎とともに「近代相撲の先駆者」といわれることもあります。 ▼履歴 ▽入門まで 栃木山は自ら望んで相撲界に入ったといわれます。 ▽現役時代 明治44(1911)年2月の初土俵以来連勝を続け、大正2(1913)年5月の幕下まで21連勝をします。 入幕までにわずか3敗のスピード出世をします。 大正4(1915)年1月に入幕を果たします。 大正5(1916)年5月、新三役(東小結)の栃木山は、8日目に当時無敵を誇った太刀山峰右エ門の連勝記録を56でストップさせる大殊勲の白星を挙げます。 勝って花道を引き上げると背中に百円札が貼りついていたといわれます。 大正6(1917)年5月、大関に昇進すると、その場所に初優勝、以後5連覇をします。 連覇中の大正7(1918)年5月、横綱に昇進します。 栃木山はその後4回の優勝を積み重ねますが、3連覇した翌場所の大正14(1915)年5月直前に突然引退を表明して周囲を驚かせます。 まだまだこれからと何回優勝を積み重ねるのかと思われていた矢先でした。 最後の出場場所となった大正14(1915)年1月は10勝1分で負けなしの優勝でした。 栃木山の横綱在位成績は115勝8敗6分3預22休、勝率9割3分5厘です。 栃木山は横綱在位勝率9割を超えた最後の横綱です。 左利きだった栃木山は左筈、右おっつけで、相手にまわしを取らせず自分もまわしを取らない徹底した鋭い押し相撲を完成させます。 腰を割り、鋭いすり足により勝負が決した時には土俵に2本のレールのような線が出来ていたといわれます。 栃木山は相撲の型を完成した最後の力士といわれます。 その鋭いスピード相撲により近代相撲の先駆者ともいわれます。 体重管理においてもボクサー並みでベスト体重の27貫500(103kg)より軽いと軽く汗を流し、重いと稽古量を増やしベスト体重を保ったといわれます。 徹底した体重管理と猛稽古によって作られた体は、贅肉の削ぎ落とされた無駄の無い筋肉質の体でした。 身長172cm、体重103kgの体格ながら大変な怪力で知られ、強烈な右おっつけに相手は腕がねじ切れるかと思ったといわれます。 栃木山の所属した出羽ノ海部屋は、玉錦のように他の部屋から預けられた力士もいましたが、区別無く稽古をつけたといわれます。 また、出羽ヶ嶽のような他の力士が稽古を嫌う巨人力士とも積極的に稽古をしたといわれます。 本場所同様に稽古場でも圧倒的強さを示し、本場所では対戦の無かった同部屋の横綱である大錦や常ノ花も圧倒していました。 ▽現役引退後 引退後は養父の行司・木村宗五郎の持ち株だった年寄・春日野を襲名します。 (栃木山は現役時代に木村宗五郎の養子となります) 当時の出羽ノ海部屋の不文律「分家・独立は許さず」を例外的に認められて春日野部屋として独立します。 抜群の実績、人格が評価され、養父の株の継承であることもあり、不文律を作った出羽ノ海(元横綱・常陸山)が存命中に唯一認めた例外です。 引退から6年後の1931(昭和6)年に第1回全日本力士選士権に年寄・春日野として参加し、横綱・玉錦を始めとする現役力士を次々と撃破し、決勝でも関脇・天竜を下して優勝してしまいます。 翌年の第2回全日本力士選士権には選手権保持者として参加、トーナメントを勝ち上がった玉錦との3番勝負にストレートあっさりとで敗れます。 (前年、年寄ながら優勝してしまったために「現役力士の立場はどうなるんだ」、「大相撲をつぶす気か」と批判されたことを察して敗れたともいわれています、第3回全日本力士選士権からは現役力士のみの参加となります) 引退後6年もたったにもかかわらず横綱・玉錦を始めとする現役力士を撃破して第1回全日本力士選手権を制してしまうあたりすでに「怪物年寄」といえますが、この時代には栃木山の現役時代の13尺の土俵ではなく、現在と同じ15尺の土俵で行われた点も栃木山の評価を高めるポイントです。 栃木山の現役時代は前述のとおり13尺の土俵でした。 史上最強力士を論議する際に重要な論点となるのが、江戸から明治にかけて圧倒的強さを誇った力士が当時の13尺の土俵ではなく、現在の15尺の土俵でもあのような高い勝率を挙げることができたのかという点です。 13尺の土俵で突っ張りや押しを武器に活躍した力士が、15尺の土俵になり苦闘している事実もあります。 栃木山は引退から6年たっているにもかかわらず、現役時代の13尺ではなく、15尺になった土俵で第1回全日本力士選士権に優勝しています。 栃木山は現在の15尺の土俵でも「強さ」を示したことになります。 引退後6年もたった年寄であるにもかかわらず・・・。 事実、その強さは引退後の春日野(栃木山)に玉錦が稽古をつけてもらっても歯がたたなかったといわれています。 現役時代の強さ、引退してからも衰えぬ強さから栃木山を近代最強力士として、史上最強力士の1人として推す声もあります。 引退後の驚くべきエピソードは他にもあります。 晩年の栃木山が、弟子の栃光と付き人達が動かせなかった大火鉢を1人で軽々と持ち上げて動かしてしまいます。 渡米したおりに、酒場で力自慢(ボクシングの世界チャンピオンであるジーン・ターニーとの説もあり)が彼の前で鉄棒を捻じ曲げると、同じ鉄棒を元に戻してみせ「こうしておいた方が便利なのに」といってのけたといわれます。 力士のマスコミ対応やファン対応、言葉遣いにも厳しかったといわれます。 昭和27(1952)年5月31日に当時の蔵前仮設国技館で還暦土俵入りを披露しています。 ▼小さな大横綱 身長172cm、体重103kgの体格は歴代横綱でも小兵といえ、とくに体重は歴代横綱で最軽量です。 しかし生来の怪力と稽古で鍛え上げられた体は鋼のようで横綱として圧倒的な強さを誇りました。 3場所連続優勝のままで引退した引き際も見事なら、その6年後に年寄として第1回全日本力士選士権に出場して現役力士らを次々と撃破して優勝した「怪物年寄」ぶりも驚嘆に値します。 そのさまは晩年に至ってもその強さを内実させた武道の達人といったところでしょうか。 ▼ライバル 栃木山のライバルとしては入幕時に無敵を誇っていた太刀山峰右エ門、栃木山に2個の金星を献上した鳳谷五郎、栃木山が対戦成績で負け越した朝潮太郎(2代)、横綱時代に栃木山が唯一2敗した清瀬川敬之助、同時代の横綱・西ノ海嘉治郎(3代)を挙げます。 (対戦成績は栃木山から見たものです) 太刀山峰右エ門 富山県出身、身長188cm、体重150kg 幕内通算成績 31場所 195勝27敗10分5預73休 勝率8割7分8厘 優勝相当9回 優勝2回 最高位・横綱 太刀山は、大正期に無敵を誇った大横綱で、その強烈な突っ張りは一突き半(1月半)をもじって「四十五日の鉄砲」と恐れられました 栃木山は大正5(1916)年5月8日目にその無敵・太刀山を下し、太刀山の連勝記録を56でストップしています 太刀山峰右エ門についての更なる詳細は、史上最強力士RANKING内の太刀山峰右エ門を参照 対戦成績 1勝2敗 ●○● 鳳谷五郎 千葉県出身、身長174cm、体重112kg 幕内通算成績 24場所 108勝49敗7分8預68休 勝率6割8分8厘 優勝2回 最高位・横綱 鳳谷五郎は大正期に活躍した横綱です 大酒飲みで知られ巡業での土俵入りで酒の影響で尻餅をつき、土俵入りの手順も忘れ、周囲に助けられ土俵入りを終えたことがあります 栃木山の金星2個はいずれも鳳から獲得しています 対戦成績 5勝1敗 ○○●○○○ 朝潮太郎(2代) 愛媛県出身、身長176cm、体重113kg 幕内通算成績 26場所 98勝64敗25分7預66休 勝率6割0分5厘 最高位・横綱 朝潮太郎(2代)は大正期に活躍した大関です 栃木山が幕内力士との対戦成績で負け越したのは太刀山とこの朝潮太郎だけです 対戦成績 1勝3敗1休 ●●○●休 (最後の休みは朝潮の休場によるもの、当時は相手が休場すると自身も休場となりました) 清瀬川敬之助 愛媛県出身、身長174cm、体重98kg 幕内通算成績 31場所 162勝142敗8分4預12休 勝率5割3分3厘 最高位・関脇 清瀬川敬之助は大正期の名人関脇です 栃木山は横綱時代に8敗しかしていませんが、そのうちの2敗が清瀬川によるものです 栃木山が横綱時代に唯一2敗したのも清瀬川だけで、他に2分1預を記録しており、ある意味で清瀬川は「栃木山の好敵手」といってよく、栃木山の現役最後の出場場所である大正14(1915)年1月の成績・10勝1分の引き分けも清瀬川によるものです 対戦成績 8勝2敗2分1預 ○○○○○預○●○●分○分 西ノ海嘉治郎(3代) 鹿児島県出身、身長185cm、体重124kg 幕内通算成績 30場所 134勝60敗2分2預116休 勝率6割9分1厘 優勝1回 最高位・横綱 西ノ海嘉治郎(3代)は大正期に活躍した横綱です 小心のためか仕切りが長かったといわれます 当初は出羽ノ海側でしたが、バランスを取るため大正11(1922)年1月の大関昇進を機に連合側にまわされ、栃木山ら出羽ノ海勢との対戦が実現しました 対戦成績 2勝1分 ○分○ |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
大正4(1915)年1月 | 東前16 | 8勝2敗 | ○○●○○○○●○○ | ||
大正4(1915)年6月 | 東前2 | 5勝4敗1分 | ○●○○●●●○○分 | 金 | |
大正5(1916)年1月 | 東前1 | 7勝3敗 | ○●○○●○●○○○ | 金 | |
大正5(1916)年5月 | 東小結 | 6勝3敗1休 | ●○○休○○●○○● | ||
大正6(1917)年1月 | 西関脇 | 6勝3敗1休 | ○休○●○●●○○○ | ||
大正6(1917)年5月 | 西大関 | 9勝1預 | ○○○預○○○○○○ | 1 | |
大正7(1918)年1月 | 東大関 | 10勝 | ○○○○○○○○○○ | 2 | |
大正7(1918)年5月 | 東張横 | 9勝1敗 | ○○○○○○○●○○ | 3 | |
大正8(1919)年1月 | 東横綱 | 9勝1休 | ○○○○○休○○○○ | 4 | |
大正8(1919)年5月 | 東横綱 | 10勝 | ○○○○○○○○○○ | 5 | |
大正9(1920)年1月 | 東横綱 | 8勝2敗 | ○○○○●○●○○○ | ||
大正9(1920)年5月 | 西張横 | 8勝1分1預 | 預○○○○○○○分○ | 同 | |
大正10(1921)年1月 | 西張横 | 9勝1預 | ○○○預○○○○○○ | ||
大正10(1921)年5月 | 東張横 | 9勝1敗 | ○○●○○○○○○○ | ||
大正11(1922)年1月 | 東張横 | 8勝1敗1預 | ○○○預●○○○○○ | ||
大正11(1922)年5月 | 西横綱 | 7勝1敗1分1休 | ●○○○○分○休○○ | ||
大正12(1923)年1月 | 東張横 | 8勝1敗1分 | ○○○○○●○○○分 | 6 | |
大正12(1923)年5月 | 西横綱 | 1勝1分9休 | ○分休休休休休休休休休 | ||
大正13(1924)年1月 | 西横綱 | 9勝1分 | ○○○○○○○○分○ | 7 | |
大正13(1924)年5月 | 東張横 | 10勝1敗 | ○○○○○●○○○○○ | 8 | |
大正14(1925)年1月 | 東張横 | 10勝1分 | ○○分○○○○○○○○ | 9 | |
大正14(1925)年5月 | 西張横 | 11休 | 休休休休休休休休休休休 | ||
幕内通算成績 22場所 166勝23敗7分4預24休 勝率8割7分8厘 優勝9回 金星2個 |
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