豊田泰光 |
ホーム>>>スタディ>>>スポーツ>>>日本プロ野球選手>>>た>>> |
■豊田泰光■野球選手■勝負強い大型遊撃手 右投右打 身長176センチ、体重82キロ 1935年2月12日−2016年8月14日 豊田泰光(とよだ・やすみつ)は、チャンスに強い勝負強い強打者で、遊撃手は守備が優先された時代に強打の攻撃的な遊撃手であり、2番打者はつなぎの役割が多かったが、攻撃的な2番打者でもあった ■履歴 ▼プロ入り前 水戸商で1952年の夏に甲子園に出場するが、2回戦敗退 大学進学も考えたが、父の病気などで、進学をあきらめ、西鉄入団 ▼プロ 1953年西鉄に入団し、守備で失策は多かったが、強打の遊撃手としてレギュラーとなり、115試合で、打率2割8分1厘、27本塁打、59打点、25盗塁で新人王 27本塁打は、当時の新人最多記録 2年目の1954年は、自身の打撃成績は落ちるが、チームはリーグ優勝 1956年は、首位打者 中西太と熾烈な首位打者争いをした、僅かに豊田がリードで、最終戦は、監督の三原脩が豊田と中西に休養を命じたため、豊田が首位打者に (二人の話し合いで、このままの成績で二人が休養したといわれる) ちなみに、1956年の豊田の打率は3割2分5厘1毛、中西の打率が3割2分4厘7毛 この年は、日本シリーズで活躍し、日本一に貢献し日本シリーズMVP 豊田は、他の年の日本シリーズでも活躍した その後も超攻撃的な「流線形打線」の2番打者で、活躍 「流線形打線」は、攻撃的な強打の2番打者を置くことがポイントで、豊田はその役割を見事に担った 1956年から1958年の3年連続日本一の頃の(安定感のあるエース・稲尾和久と大下弘、中西太、豊田泰光らを擁した流線形打線の)西鉄がプロ野球史上最強だったという人も 1962年に中西選手兼監督の補佐で選手兼助監督を務めるが、このシーズン限りで助監督を辞め、選手専念で1963年に国鉄スワローズに移籍 国鉄移籍後も2年間は中心打者で成績を残すが、3年目以後は成績が低下し、出場機会も減り、1967年に105試合に出場するが、次の年から2桁試合出場で1969年に現役引退 (チームは1965年途中からサンケイ、1969年からアトムズに名称変更) ▼現役引退後 引退後は、解説者やコーチなどを務めた 2006年に野球殿堂入り(日本) 2016年に死去 ■特徴 強打の遊撃手であり、前述のように、超攻撃的「流線形打線」でポイントの強打の攻撃的2番打者を担った 守備は上手いとはいえなかったが、2番打者によく見られる俊足であり、強打者でもあり、「流線形打線」に豊田は重要な存在だった 1956年の日本シリーズMVP(他の年の日本シリーズも活躍)でもわかるように、日本シリーズなど大試合に強く、チャンスに強い勝負強い強打者だった 打撃成績・・・ 17年、打率2割7分7厘、263本塁打、888打点 新人王、首位打者1回 最高出塁率2回(当時は表彰なし) ベストナイン6回 日本シリーズMVP1回 野球殿堂入り(日本)(2006年) 豊田泰光108の遺言 辛口で知られる豊田泰光の野球界への未来のメッセージ |
■ネットビジネス研究 □お小遣いサイト お財布.com □アフィリエイト おすすめレンタルサーバーとホームページ作成ソフト おすすめASP ■ホームページ制作 |
豊田泰光 |