小鶴誠 |
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■小鶴誠■野球選手■和製ディマジオ 右投右打 身長176センチ、体重71キロ 1922年12月17日−2003年6月2日 小鶴誠(こづる・まこと)は、美しい打撃フォームと風貌から、大リーグ記録の56試合連続安打のジョー・ディマジオにちなみ、「和製ディマジオ」とも呼ばれた シーズンの打点数(161)、塁打数(376)、得点数(143)のプロ野球記録を持つ (いずれも1950年) ■履歴 ▼プロ入り 小鶴は、八幡製鉄所で社会人野球をしていたが、軍需工場で就職ができないため、日本大進学を名目に「飯塚誠」の偽名で、これを登録名とし、1942年に名古屋軍に入団 1942年8月31日まで飯塚姓、同年9月1日から本名の小鶴 ちなみに、日本大の夜学に通い卒業 ▼プロ 1年目の1942年からレギュラー、1944年からは兵役で出場せず、1946年に中部日本軍に復帰すると、1948年に、急映に移籍し、後に松竹の監督などとなる新田恭一の指導で、膝の回転を使ってダウンスイングで打つ「ゴルフスイング打法」を習得 ゴルフスイング打法は、名称イのメージから「下からアッパースイングで打つ打法」かと誤解をしてました 1949年に、大映に移籍し、打撃奨励の本塁打ブームなどで「ラビットボール」の飛ぶボールが採用されたこともあり、打撃が飛躍的に向上し、打率3割6分1厘で首位打者に 1950年に松竹に移籍すると、「水爆打線」と呼ばれる強力打線で打ちまくり、161打点、376塁打、143得点のプロ野球記録と当時のプロ野球記録の51本塁打を記録 本塁打王と打点王の2冠となり、打率は3割5分5厘の高率ながら、藤村富美男(打率3割6分2厘)に及ばず だが、上記の好成績でセ・リーグMVPに この年は28盗塁で、日本球界唯一の50本塁打20盗塁達成 しかし日本シリーズは椎間板ヘルニアで活躍できず 「ボールが止まって見えた」の川上哲治とされる発言も小鶴が1950年に、50本塁打を達成した時のものとされる (知名度のない小鶴の発言を新聞記者が記事として成立させるため、知名度のある川上の発言としたといわれる) 翌1951年は、ラビットボールの廃止と椎間板ヘルニアの悪化で成績が落ちた 1953年に広島に移籍、この年は自己最多の33盗塁 1958年に現役引退 通算240盗塁で俊足で、守備も強肩だった ▼現役引退後 引退後は、解説や打撃コーチ、スカウトなどを歴任 球界を離れた後はビル管理会社を経営 還暦までバッテングセンターに通い続けたようだ 1980年に野球殿堂入り(日本) 2003年に死去、80歳没 打撃成績・・・ 15年、打率2割8分0厘、230本塁打、923打点、240盗塁 MVP1回、首位打者1回、本塁打王1回、打点王1回 |
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