照国万蔵 |
ホーム>>>スタディ>>>大相撲>>>個性派力士>>> ■個性派力士−INDEX■■■■■
■照国万蔵■相撲の天才 |
照国 万蔵(てるくに まんぞう) |
本名・大野万蔵(旧姓・菅)〜出身地・秋田県〜身長173cm、体重161kg |
生没年月日−1919年1月10日−1977年3月20日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
(注)照「國」万蔵は照「国」万蔵に表記を統一します 照国万蔵(てるくに・まんぞう)は身長173センチ、体重161キロのアンコ型の力士であまり前にバッタリと倒れない抜群のバランス感覚を持っていました。 天才型の力士でリズミカルな動き、博多人形のような身体、さらに紅をさす身体から「桜色の音楽」「ばら色の交響詩」「白い殿堂」「動く錦絵」などといわれました。 優勝は2回しかしていないが、成績以上に強さと奥行きを見せた横綱でした。 双葉山に3勝2敗と勝ち越している数少ない力士で、羽黒山に6勝8敗地と負け越していますが、照国が体調を崩したこともあるかもしれません。 ▼履歴 1919年1月20日に秋田県で生まれます。 本人に乗り気はなかったが、自分の体格を生かすため(「怪童」と呼ばれていた)伊勢ヶ濱部屋に入門します。 1935年1月に初土俵を踏みます。 最初は番付があまり上がりませんでしたが、エビオス錠を服用したあたりから強くなります。 当時の最年少記録を軒並み更新し、1939年5月に新入幕。 入幕後もまたたく横綱までかけあがりました。 (新入幕の場所後に虫垂炎になるも奇跡的回復をします) 1942年5月に当時の番付上位優勝制度で優勝はなりませんでしたが、優勝同点で翌場所横綱へ 当時の最年少横綱 新横綱の場所は14勝1敗の好成績ながら、優勝は15戦全勝の双葉山でした。 その後はケガや病気に悩まされます。 なかなか優勝できませんでしたが、1950年9月に決定戦を勝ち初優勝、翌1951年1月には全勝で2連覇をしています。 その後はまたもケガや病気で成績が伸びず、1953年1月に3敗12休で現役を引退します。 引退後は荒磯の名跡で荒磯部屋、伊勢ヶ濱の退職後は伊勢ヶ濱の名跡を継ぎ、伊勢ヶ濱部屋を経営します。 1977年3月20日死去。 享年58歳。 ▼照国の特徴 アンコ型で柔らかい下半身と重い体重を生かした相撲を取りました。 (三段目時代に、心臓病を患い、医者から激しい稽古を止められていたためアンコ型(肥満)になったとも・・・) ▼照国のエピソード 前述のように大横綱・双葉山に対戦成績で勝ち越した数少ない力士。 ・手のひらを常に上にすることによる力のベクトルを上にもっていき、「力学」の応用であまりバッタリと前へは倒れませんでした。 ・「下半身はがっちりと安定させ、上半身の体重を相手に預けていた」(照国)といわれます。 相撲評論家の中沢潔氏いわくこれができるのは「相撲の天才」だろうといっています。 伊勢ヶ濱親方(照国)によると「大鵬も同じことをやっていた」そうで、まさに「名人は名人を知る」で「天才は天才を知る」といったところでしょうか。 これらのエピソードは中沢潔氏の著書「相撲もの知り博士」に書かれています。 ・まわしがゆるみやすく「ゆるふん」といわれていました。 (本人いわくきつくしめていたようだが・・・) 横綱照国物語 [相撲の天才」照国万蔵の生涯 照国の関連記事・・・大鵬幸喜 伊勢ヶ濱親方(照国)が発言したとされる「相撲の天才」とされる「下半身はがっちりと安定させ、上半身の体重を相手に預けていた」ことを大鵬も行っていたこと(本記事にも掲載)が載っています。 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
昭和14(1939)年5月 | 西前15 | 11勝4敗 | ○○●○○○○○○○●●●○○ | ||
昭和15(1940)年1月 | 東前2 | 12勝3敗 | ○●○○○○○○○○●○○●○ | 金 | |
昭和15(1940)年5月 | 東張関 | 11勝4敗 | ○○●○○○○○○●○○●●○ | ||
昭和16(1941)年1月 | 西関脇 | 12勝3敗 | □○○●○○○○●○○○●○○ | ||
昭和16(1941)年5月 | 西関脇 | 13勝2敗 | ○○○○○○●○○○○○●○○ | ||
昭和17(1942)年1月 | 東大関 | 12勝3敗 | ●○○○○○○○○○●○○○● | ||
昭和17(1942)年5月 | 西張大 | 13勝2敗 | ○○○○○●○○○○●○○○○ | 同 | |
昭和18(1943)年1月 | 東張横 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○●○ | ||
昭和18(1943)年5月 | 西横大 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○●○○○○○● | ||
昭和19(1944)年1月 | 東横大 | 11勝4敗 | ○○●●○○○○○○□●○●○ | ||
昭和19(1944)年5月 | 西横大 | 6勝4敗 | ●○○○●○●○○● | ||
昭和19(1944)年11月 | 西横綱 | 4勝2敗4休 | ○○○○●■休休休休 | ||
昭和20(1945年)6月 | 東横綱 | 5勝2敗 | ○○●○○○● | ||
昭和20(1945)年11月 | 東張横 | 9勝1敗 | ○○○○○○○○●○ | ||
昭和21(1946)年11月 | 東横綱 | 3勝3敗7休 | ○●○○●■休休休休休休休 | ||
昭和22(1947)年6月 | 西横綱 | 7勝3敗 | ○○○●○●○○○● | ||
昭和22(1947)年11月 | 西横綱 | 7勝4敗 | ○○○○●○●○○●● | ||
昭和23(1948)年5月 | 西横綱 | 9勝2敗 | ○○●○○○○○○●○ | ||
昭和23(1948)年10月 | 東横綱 | 2勝5敗4休 | ●●○○●●■休休休休 | ||
昭和24(1949)年1月 | 東張横 | 13休 | 休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和24(1949)年5月 | 東張横 | 12勝3敗 | ○○○○○●○○●○●○○○○ | ||
昭和24(1949)年10月 | 東横綱 | 8勝2敗5休 | ○○○○○○○□●■休休休休休 | ||
昭和25(1950)年1月 | 東張横 | 2勝2敗11休 | ○●○■休休休休休休休休休休休 | ||
昭和25(1950)年5月 | 東張横 | 11勝4敗 | ○○○○●○○○○●●○○●○ | ||
昭和25(1950)年9月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○●○○○○○○○●○○ | 1 | 決 |
昭和26(1951)年1月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 2 | |
昭和26(1951)年5月 | 東横綱 | 10勝5敗 | ●○○○○○○○○○○●●●● | ||
昭和26(1951)年9月 | 西横綱 | 11勝4敗 | ○●○○○○○○●●○○○○● | ||
昭和27(1952)年1月 | 西横綱 | 10勝5敗 | ○○○○●○○○○●○○●●■ | ||
昭和27(1952)年5月 | 東張横 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和27(1952)年9月 | 西張横 | 6勝6敗3休 | ○○○○○●○●●●●■休休休 | ||
昭和28(1953)年1月 | 東張横 | 3敗12休 | ●●■休休休休休休休休休休休休 | ||
幕内通算成績 32場所 271勝91敗74休 勝率7割4分9厘 金星1個 |
照国万蔵 |