鶴岡一人 |
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■鶴岡一人■野球選手■初代ミスターホークス、親分 右投右打 身長173センチ、体重68キロ 1916年7月27日−2000年3月7日 鶴岡一人(つるおか・かずと(かずんど))は、選手としてもまずまずの活躍をしましたが、一軍監督として通算1773勝を挙げたプロ野球史上最多勝監督 勝率6割0分9厘は、300試合以上経験した歴代監督で唯一の6割超え 1946年から1958年は山本一人(やまもと・かずと) 南海黄金時代の名監督で日本プロ野球を代表する指導者の一人 愛称は親分、初代ミスターホークス、ツルさん、ドンなど ■履歴 ▼プロ入り前 広島県出身で小学校の頃から野球を始め、県立広島商業高校へ進学 1931年に遊撃手として第8回選抜中等学校野球大会で全国制覇 同年中には、選抜優勝の特典でアメリカ遠征 1933年の第10回選抜中等学校野球大会にエース兼4番打者でベスト4進出 法大に進学し、連覇などに貢献 通算88試合出場、331打数99安打、打率2割9分9厘・2本塁打・56打点、首位打者1回と活躍した 1939年に創設初年度の南海軍に入団 ▼プロ プロ入り初年度の1939年から活躍 10本塁打で本塁打王獲得 10本塁打は1938年秋の中島治康(巨人)と並ぶ戦前最多タイ 1940年に兵役へ 兵役を5年間 その間の1944年に結婚、婿入りし山本一人に改名 1946年に復員し、同年から1952年まで選手兼監督 1946年には俊足の選手を集め「機動力野球の元祖」を実践 チームのリーグ優勝、山本(当時)は95打点で打点王となり、最初のMVP 1948年は最終打席で敬遠されわずかの差で首位打者を逃すがチームは優勝し2度目のMVP 1949年にファーム(2軍)を創設 チームも優勝し、3度目のMVP 1950年に2リーグ制となり、南海はパ・リーグに 1951年・1952年と連続リーグ優勝したが、1952年限りで現役引退 専任監督へ 1953年から専任監督となり、1968年までの通算23年間監督を務め、リーグ優勝11回、日本シリーズ制覇2回を記録 監督通算の勝利数・勝率は前述のようにともに歴代1位 その間の1957年に妻が死去し、翌年再婚し、鶴岡姓に戻っている 1962年のシーズン途中に連敗が続き、蔭山和夫ヘッドコーチを代理監督に立て休養したが、周囲の懇願で監督復帰 しかし1965年シーズン終了後辞任 ところがその日の午後に後任の蔭山和夫新監督が急死 蔭山の球団葬の後、鶴岡監督復帰 弔い合戦となった1966年はリーグ優勝したものの、1967年は自身初のBクラス(4位)、翌年1968年は優勝争いの末2位、1968年のシーズン終了後に辞任した ▼南海退団後 南海を退団後の鶴岡は「少年野球」に注力 死去まで解説者などを務めた 2000年3月7日、83歳で死去 南海ホークス栄光の歴史―1938ー1988 南海ホークスの栄光の歴史を振り返る ■特徴 杉浦忠のように鶴岡の監督の資質を評価する人がいる一方、野村克也のように評価の複雑な人も・・・ しかし、野村は後年になって鶴岡野球を評価する発言も・・・ 鶴岡野球は野村野球に影響を与えているとも発言している 鶴岡は専属スコアラーを導入するなどデータ野球の先駆けとなった 打撃成績・・・ 8年、754試合、2681打数790安打、61本塁打、467打点、打率2割9分5厘 最高殊勲選手(MVP)3回 本塁打王1回、打点王1回 ベストナイン1回 投手成績・・・ 1年、1試合、1回、0勝0敗、1失点、1自責点、防御率9.00 監督成績・・・ 23年、2994試合、1773勝1440敗81分、勝率6割0分9厘 リーグ優勝11回、日本一2回・Aクラス22回、Bクラス1回 野球殿堂入り(日本)(1965年) 勲四等旭日小授章(1991年) 従五位(2000年) |
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