梅ヶ谷藤太郎(2代) |
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RANKING外の強豪力士
■梅ヶ谷藤太郎(2代)■常陸山のライバル (RANKING外) |
梅ヶ谷 藤太郎(2代)(うめがたに とうたろう) |
本名・押田音次郎→小江音松 〜出身地・富山県〜身長168cm、体重158kg |
生没年月日・1878年3月11日−1927年9月2日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
梅ヶ谷藤太郎(2代)(うめがたに・とうたろう)は、常陸山谷右エ門とともに一時代を築いた強豪です。 ▼履歴 ▽デビューまで 梅ヶ谷藤太郎(2代)は、1878年3月11日に富山県で生まれます。 1891年に西ノ海 嘉治郎(初代)・劔山谷右エ門(2代)一行が、富山県へ巡業で来た際に、劔山谷右エ門(2代)に(梅ヶ谷(2代)となる)少年の恵まれた体格から熱心に勧誘を受け、雷部屋に入門します。 (劔山谷右エ門(2代)とは「天保の三傑」といわれた江戸時代の名大関劔山谷エ門とは別人) ▽現役時代 同年1月に初土俵。 雷親方(梅ヶ谷(初代))の「ワシの弟子ということで、四股名は「梅ノ谷」だ」の発言で四股名は「梅ノ谷音松」となります。 当時はまだ12歳ながら周囲の英才教育でめきめき育ちます。 1898年1月に新入幕すると、この場所で小錦八十吉(初代)から金星、翌場所も同じく小錦八十吉から金星を挙げます。 次の1899年1月に小結、同年5月に関脇に昇進、翌場所は勝ち越したのに小結に降格しますが、次の1900年5月に大関昇進。 大関昇進で「梅ヶ谷」の名跡継承を願い出ますが、雷に却下されます。 しかし1902年1月から「梅ヶ谷藤太郎(2代)」を襲名します。 1903年5月の9日目(当時は1場所10日で、幕内力士は千秋楽休場)に全勝対決で常陸山に敗れたものの、横綱に (横綱昇進は、当時の最年少記録) 横綱が決まった常陸山の「できれば梅ヶ谷関も一緒に(横綱に)」の発言も昇進へつながったと思います。 横綱を実に12年も務めました。 晩年は守り重視の相撲だったようです。 ▽現役引退後 現役引退後は、雷の廃業に伴い、年寄・雷及び雷(いかづち)部屋を継承しますが、先代・雷より早い1927年9月2日に死去します。 享年49歳。 ▼ライバル 梅ヶ谷藤太郎(2代)のライバルといえば同時に横綱に昇進した常陸山谷右エ門です。 (対戦成績は梅ヶ谷藤太郎(2代)から見ています) 常陸山谷右エ門 茨城県出身、身長174cm、体重146kg 幕内通算成績 32場所 150勝15敗22分2預131休 勝率9割0分9厘 優勝相当7回 優勝1回 最高位・横綱 対戦成績 3勝6敗5分1休 常陸山谷右エ門は梅ヶ谷藤太郎(2代)とともに一時代を築いた強豪です 常陸山と梅ヶ谷の対決は当初は黄金カードでしたが、対戦を重ねた後半期になると「お決まり」の引き分けでの決着にブーイングが飛んだといわれます。 常陸山についての更なる詳細は、史上最強力士RANKING内の常陸山谷右エ門を参照 ○分○○●●○○○休●分分分分 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
明治31(1898)年1月 | 西前5 | 5勝2敗1分1預1休 | ○○○●○分預●○休 | 金 | |
明治31(1898)年5月 | 西前2 | 7勝1敗1分1休 | ○●分○○○○○○休 | 同、金 | |
明治32(1899)年1月 | 西小結 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○分○○●休 | ||
明治32(1899)年5月 | 西関脇 | 6勝2敗1分1休 | ●○○分●○○○○休 | ||
明治33(1900)年1月 | 西小結 | 5勝2敗2分1休 | ○○●○●○○分分休 | ||
明治33(1900)年5月 | 西大関 | 6勝1敗1分2休 | ○○○休○分○●○休 | ||
明治34(1901)年1月 | 西大関 | 8勝1敗1休 | ○○○○○○○○●休 | ||
明治34(1901)年5月 | 東大関 | 6勝2敗1分1休 | ○●●○○分○○○休 | ||
明治35(1902)年1月 | 東大関 | 8勝1分1休 | ○○○○○分○○○休 | (1) | |
明治35(1902)年5月 | 東大関 | 8勝1敗1休 | ○○○○○○●○○休 | ||
明治36(1903)年1月 | 東大関 | 4勝1分5休 | ○○○分○休休休休休 | ||
明治36(1903)年5月 | 東大関 | 8勝1敗1休 | ○○○○○○○○●休 | ||
明治37(1904)年1月 | 東横大 | 7勝1敗1預1休 | ○○預○○○○○●休 | 同 | |
明治37(1904)年5月 | 東横大 | 6勝1敗1分2休 | ○○○○○休○●分休 | ||
明治38(1905)年1月 | 東横大 | 8勝1敗1休 | ○○○○●○○○○休 | ||
明治38(1905)年5月 | 東横綱 | 5勝5休 | ○○○○休○○休休休 | ||
明治39(1906)年1月 | 東横綱 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○○○分●休 | ||
明治39(1906)年5月 | 東横綱 | 7勝1分2休 | ○○○○○○○分休休 | ||
明治40(1907)年1月 | 東横綱 | 1勝9休 | ○休休休休休休休休休 | ||
明治40(1907)年5月 | 東横綱 | 6勝2敗1分1休 | ○分○○●○○●○休 | ||
明治41(1908)年1月 | 東横綱 | 8勝1分1休 | ○○○○○○○○分休 | (2) | |
明治41(1908)年5月 | 東横綱 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○○○分●休 | ||
明治42(1909)年1月 | 西横綱 | 7勝1分2休 | ○○○○○○○分休休 | (3) | |
明治42(1909)年6月 | 西横綱 | 5勝5分 | 分○分分○○分○○分 | ||
明治43(1910)年1月 | 西横綱 | 1敗9休 | ●休休休分休休休休休 | ||
明治43(1910)年6月 | 西横綱 | 1分9休 | 休休休休分休休休休休 | ||
明治44(1911)年2月 | 西横綱 | 3勝1敗6分 | 分○分分●○分○分分 | ||
明治44(1911)年6月 | 西張横 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治45(1912)年1月 | 東張横 | 5勝1敗4分 | 分○○○分分○●分○ | ||
明治45(1912)年5月 | 西張横 | 1勝1敗3分5休 | ○●分分分休休休休休 | ||
大正2(1913)年1月 | 西横綱 | 4勝1敗5分 | ○○○●分分○分分分 | ||
大正2(1913)年5月 | 東張横 | 1敗1分8休 | 分●休休休休休休休休 | ||
大正3(1914)年1月 | 東張横 | 2勝2分6休 | ○○分分休休休休休休 | ||
大正3(1914)年5月 | 西張横 | 1分9休 | 分休休休休休休休休休 | ||
大正4(1915)年1月 | 西張横 | 1勝2分7休 | 分分○休休休休休休休 | ||
大正4(1915)年6月 | 東横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
幕内通算成績 36場所 168勝27敗47分2預116休 勝率8割6分2厘 優勝相当3回 金星2個 |
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