常陸山谷右エ門 |
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■常陸山谷右エ門■大横綱にして出羽一門を築いた角聖、御大 (RANKING 8位) |
常陸山 谷右エ門(ひたちやま たにえもん) |
本名・市毛 谷→市毛 谷右衛門〜出身地・茨城県〜身長174cm、体重146kg |
生没年月日・明治7(1874)年1月19日−大正11(1922)年6月19日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
常陸山谷右エ門(ひたちやま・たにえもん)は、梅ヶ谷藤太郎(2代)とともに一時代を築いた古今の強豪で、引退後はわずかの期間に出羽ノ海部屋を一大勢力にし、角界への貢献、功績から「角聖」「御大」と称えられました。 ▼履歴 明治23(1890)年に出羽ノ海の門に入った常陸山は、明治25(1892)年6月に御西山の名で初土俵を踏みます。 明治27(1894)年1月に師匠の現役時代の名をもらい常陸山と改名します。 明治28(1895)年に師匠の姪との交際の末の失恋で部屋に居づらくなり、巡業中に脱走し名古屋相撲へ、翌明治29(1896)年には大阪相撲に加入します。 明治30(1897)年春頃に東京相撲への復帰を許されます。 明治32(1899)年1月に新入幕を果たし、その場所8勝1分1休の優勝相当の成績を挙げると、その後も順調に好成績を挙げ、明治34(1891)年5月に大関に昇進、明治36(1893)年5月には横綱に推挙されます。 横綱推挙の際に梅ヶ谷藤太郎(2位)も一緒に昇進させてほしいと常陸山が希望して受け入れられました。 梅ヶ谷藤太郎(2代)と同時昇進です。 明治40(1897)年に門弟3人を連れて欧米に渡り、アメリカではルーズベルト大統領と会見し、土俵入りも披露しています。 大正3(1914)年6月、引退し出羽ノ海を襲名します。 年寄としては栃木山守也、大錦卯一郎、常ノ花寛市の3人の横綱を筆頭に多くの幕内力士を育てました。 大正11(1922)年6月19日死去。 ▼横綱相撲 常陸山の相撲は相手に十分に取らせてから反撃するいわゆる「横綱相撲」でした。 このような相撲は余程の力量差がなければ不可能で全盛期の強さは驚異的であったことが推測されます。 ▼貢献と功績 常陸山は現役時代から力士の社会的地位向上に努め、力士のあるべき姿を模索していました。 現役時代に第一人者として角界を牽引した功績はもちろんですが、引退後に年寄としてわずかの期間に3横綱4大関を筆頭に多くの幕内力士を育て出羽ノ海部屋を一大勢力とし、今日に続く出羽一門の基礎を築きました。 面倒見のよさから現役時代から一門以外の力士にも稽古をつけた度量の大きさもありました。 角界への貢献、功績から常陸山は「角聖」「御大」と称えられました。 ▼エピソード 角界屈指の艶福家としても知られ一説には55人もの子供を認知し十分な援助をしていたといわれます 力士に絣の着物と袴の着用を徹底させ、ちゃんこや後援会の創始者とされています 葬儀は史上初の協会葬で行われ、葬列は上野駅から両国橋まで途切れることなく続いたとされます 常陸山の出羽ノ海に敬意を払い、以後の(名跡を継承した)出羽ノ海からは「ノ」を抜いた出羽海を名乗るようになります。 ▼ライバル 常陸山のライバルといえば同時に横綱昇進し、ともに一時代を築いた梅ヶ谷藤太郎(2代)です 梅ヶ谷藤太郎(2代) 福岡県出身、身長168cm、体重158kg 幕内通算成績 36場所 168勝27敗47分2預116休 勝率8割6分2厘 優勝相当3回 金星2個 最高位・横綱 梅ヶ谷藤太郎(2代)は常陸山とともに一時代を築いた強豪です 常陸山と梅ヶ谷の対決は当初は黄金カードでしたが、対戦を重ねた後半期になると「お決まり」の引き分けでの決着にブーイングが飛んだといわれます。 梅ヶ谷藤太郎(2代)についての更なる詳細は、史上最強力士RANKING内(RANKIG外の強豪力士)の梅ヶ谷藤太郎(2代)を参照 対戦成績 6勝3敗5分1休 ○分○○●●○○○休●分分分分 |
▼幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
明治32(1899)年1月 | 東前4 | 8勝1分1休 | ○○○○分○○○○休 | (1) | |
明治32(1899)年5月 | 東前1 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治33(1900)年1月 | 東前1 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○○●分○休 | ||
明治33(1900)年5月 | 東関脇 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○○分○●休 | ||
明治34(1901)年1月 | 東関脇 | 8勝1分1休 | ○○○○○○○分○休 | (2) | |
明治34(1901)年5月 | 西大関 | 7勝2敗1休 | ○○○○●○○○●休 | ||
明治35(1902)年1月 | 西大関 | 8勝1敗1休 | ○○○○休○○○●休 | ||
明治35(1902)年5月 | 西大関 | 6勝4休 | ○○○○○○休休休休 | ||
明治36(1903)年1月 | 西大関 | 8勝1分1休 | ○○○○○○○○分休 | (3) | |
明治36(1903)年5月 | 西大関 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (4) | |
明治37(1904)年1月 | 西横大 | 7勝1敗2休 | 休○○○○●○○○休 | (5) | |
明治37(1904)年5月 | 西横大 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治38(1905)年1月 | 西横大 | 2勝8休 | ○○休休休休休休休休 | ||
明治38(1905)年5月 | 西横綱 | 5勝2分1預2休 | ○○○○○分分休預休 | ||
明治39(1906)年1月 | 西横綱 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (6) | |
明治39(1906)年5月 | 西横綱 | 8勝2休 | ○○○○○○○○休休 | (7) | |
明治40(1907)年1月 | 西横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治40(1907)年5月 | 西横綱 | 6勝2敗1分1休 | ○○○○○●○分●休 | ||
明治41(1908)年1月 | 西横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治41(1908)年5月 | 西横綱 | 5勝5休 | ○○○○○休休休休休 | ||
明治42(1909)年1月 | 東横綱 | 6勝4休 | ○○○○○○休休休休 | ||
明治42(1909)年6月 | 東横綱 | 7勝1敗2分 | ○○●○○○○○分分 | ||
明治43(1910)年1月 | 東横綱 | 7勝2分1休 | ○○○分休○○○○分 | 1 | |
明治43(1910)年6月 | 東横綱 | 2勝8休 | ○○休休休休休休休休 | ||
明治44(1911)年1月 | 東横綱 | 5勝2敗3分 | ○分●○○○○●分分 | ||
明治44(1911)年6月 | 東横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
明治45(1912)年1月 | 西横綱 | 5勝1敗4分 | ○○○○○●分分分分 | ||
明治45(1912)年5月 | 東横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
大正2(1913)年1月 | 東横綱 | 6勝1敗3休 | ○○分○○○●○分分 | ||
大正2(1913)年5月 | 西横綱 | 2勝1預7休 | ○○預休休休休休休休 | ||
大正3(1914)年1月 | 西横綱 | 1勝2敗7休 | ●○●休休休休休休休 | ||
大正3(1914)年5月 | 東横綱 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
幕内通算成績 32場所 150勝15敗22分2預131休 勝率9割0分9厘 優勝相当7回 優勝1回 |
優勝欄の( )内数字は優勝相当回数、( )の無い数字は優勝回数を示します |
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常陸山谷右エ門 |