谷沢健一 |
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■谷沢健一■野球選手■不屈の首位打者2回 左投左打 身長179センチ、体重75キロ 1947年9月22日− 谷沢健一(やざわ・けんいち)は、17年間、中日の主軸で活躍 2度の首位打者を獲得し、2度目の首位打者は酒マッサージによるアキレス腱痛を克服しての受賞 現役引退後は、解説者、評論家、西武の打撃コーチなどを歴任 ■履歴 ▼プロ入り前 千葉県の習志野市立習志野高で2年からレギュラー 打者として活躍したが、控え投手も 3年の1965年、夏の甲子園予選の南関東大会の県予選準決勝敗退 なお、谷沢はこの年のドラフト会議で阪急に4位指名されるが、進学のため入団を拒否 一般入試で早大第二文学部社会専修に入学 東京六大学リーグでは、レギュラーに定着した2年の1967年春季リーグで首位打者 1968年の秋季リーグでは優勝 第7回、第8回のアジア野球選手権大会の日本代表にも選出される 東京六大学では6度のベストナインで、4年時には主将 リーグ通算で、82試合、308打数111安打、18本塁打、63打点、打率3割6分0厘 1969年のドラフト会議で中日に1位指名され入団 1970年3月に大学卒業 ▼プロ 中日では、1年目の1970年から左翼手のレギュラーで、この年の新人王 1973年から主に一塁手 1974年にチームのリーグ優勝に貢献 同年のロッテとの日本シリーズでも、チームは敗れたが、谷沢は全6試合に出場し、23打数7安打6打点と活躍 1976年に背番号をそれまでの14から41に変更 この年、打率.355で首位打者を獲得 張本勲との熾烈な首位打者争いで、先に全日程を終了した張本が打率.35477だったが、谷沢は驚異の追い上げで、打率.35483のその差0.00006の差のプロ野球史上最も小さい差で首位打者 しかし、1978年頃から大学時代からのアキレス腱痛が悪化し、シーズン途中で2軍落ち 有効な治療法がなく、選手生命が危ぶまれたが、酒マッサージと出会い、治療を続け、ついに回復 同年の10月4日には併殺打でこの試合最後の打者 1979年のシーズン終盤の9月23日には七回に代打でヒットを放ち、健在をアピール 翌1980年は、打率3割6分9厘の高打率で2回目の首位打者 カムバック賞受賞 1981年にプロ野球記録タイの4打席連続本塁打 1982年は4番でリーグ優勝に貢献し、西武との日本シリーズでは敗れたが、22打数8安打6打点 1984年は、打率3割2分9厘、34本塁打、99打点 1985年10月23日に通算2000安打で名球会入り(後に退会 1986年のシーズン終了後に現役引退 ▼現役引退後 現役引退後の1987年から1993年まで解説者 1994年・1995年は、西武の打撃コーチ 1994年にリーグ優勝しているが、日本シリーズは敗れている その後は、解説者・評論家 1998年4月に早大大学院アジア太平洋研究科入学 国際的視野からのプロ野球球団経営を研究し、博士号取得 早大客員教授 その他クラブチームの結成や臨時コーチ、アドバイザーなど ■アキレス腱痛の克服と酒マッサージ 大学時代からの持病のアキレス腱痛が悪化し、2軍落ちし、有効な治療法を模索し、日本酒で患部をマッサージする酒マッサージと出会い、治療を続け、ついにアキレス腱痛を克服 そのおかげで、1980年に打率3割6分9厘で首位打者を獲得 ■特徴 不屈の2回の首位打者 谷沢は2回首位打者を獲得しているが、1回目の1976年は首位打者7回(イチローとタイ記録)・通算3085安打のプロ野球記録の張本勲との首位打者争いを驚異の追い上げで最も小さい僅差で制している 2回目の1980年は長年の持病だったアキレス腱痛を酒マッサージで克服し、日本プロ野球で終身打率が5000打数以上で歴代1位の若松勉を抑え、打率3割6分9厘の高打率で首位打者 2回の首位打者が日本プロ野球を代表する打撃(打率)名人の張本勲と若松勉に競り勝っている 打撃成績・・・ 17年、1931試合、6818打数2062安打、打率3割0分2厘、273本塁打、969打点 首位打者2回(1976年・1980年) 最多出塁数1回(1984年) 最多安打1回(1984年)(当時は表彰なし) 新人王(1970年) ベストナイン5回(1976年・1980年・1982年=1984年) カムバック賞1回(1980年) 谷沢健一(名球会comics) 不屈の首位打者2回の谷沢健一の物語 |
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