陣幕久五郎 |
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■陣幕久五郎■わずか5敗の「負けず屋」 (RANKING 10位) |
陣幕 久五郎(じんまく きゅうごろう) |
本名・石倉 槇太郎〜出身地・島根県〜身長174cm、体重138kg |
生没年月日・文政12(1829)年5月3日−明治36(1928)年10月21日 |
最高位・大関(横綱免許) |
■コメント |
陣幕久五郎(じんまく・きゅうごろう)は右四つ左上手で守りを固める「負けない相撲」で幕内でわずか5敗しか喫しなかったことから「負けず屋」といわれました。 ▼履歴 現在の広島県尾道の力士である初汐久五郎の弟子になるなどした陣幕は、嘉永元(1848)年7月に初汐が亡くなると、大坂相撲に朝日山四郎右衛門の弟子として参加します。 嘉永3(1850)年11月に江戸で秀の山雷五郎の弟子として初土俵を踏むと、安永5(1858)年正月に入幕します。 徳島(阿波)藩の抱えでしたが、「阿波四天王」といわれた鬼面山、大鳴門、虹ヶ嶽、陣幕は皆強豪だったため、5年間で46勝4敗12分1預の陣幕も前頭2枚目に据え置かれます。 文久3(1863)年7月に松江藩に抱えが変わると、いきなり張出関脇となります。 翌年の元治元(1864)年には薩摩藩に抱えが変わりますが、元々の抱えであった徳島藩は短期間に簡単に抱えが変わった陣幕に嫌悪感を持ったようです。 慶応2(1866)年11月に大関となり、慶応3(1867)年4月7日目に「元・徳島藩抱えで現・薩摩藩抱え」陣幕と「徳島藩抱え」鬼面山谷五郎のかつての「阿波四天王」同士の対決はお互いの藩が殺気立つ異様な盛り上がりを見せました。 この勝負は水入り2回の末に引き分けとなっています。 慶応3(1867)年10月に横綱免許、同年11月の1場所のみの横綱ではありましたが、7勝3休で横綱在位勝率10割という今後も破られないであろう記録を残しました。 陣幕はその後、大坂に転じ、大坂相撲の発展に尽力しますが、大坂相撲の混迷(協力者の相次ぐ死去、多数の脱退者)で発言力を失い、慶応13(1877)年9月に廃業しています。 実業家に転じた陣幕は相撲関係の碑を多く建立し、「建碑狂」ともいわれました。 現在の歴代横綱の根拠となっている富岡八幡宮の「横綱力士碑」も陣幕によるものです。 晩年は横綱煎餅を売っていたといわれ、明治36(1903)年10月21日没。 ▼成績と記録 幕内通算成績 19場所 87勝5敗17分3預65休 勝率9割4分6厘 優勝相当5回 この成績を記録で分析してみます。 幕内勝率〜9割4分6厘〜史上4位 幕内勝率は雷電為右エ門(9割6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)、谷風梶之助(9割4分9厘)に続く史上4位です。 横綱在位勝率〜10割〜参考記録(1場所だけながら数字上は史上1位) 横綱在位勝率は1場所だけながら7勝3休で10割です。 1場所だけのため参考記録としていますが、数字上は史上1位となります。 横綱在位勝率10割は今後も並ぶ可能性はあっても破られない記録といえます。 ▽陣幕に勝った力士 陣幕は幕内で5敗しかしていません。 陣幕に勝った力士を以下に列記します。 (対戦成績は陣幕から見ています) 猪王山森右エ門 (安政6年11月6日目〜西関脇) 最高位・大関 対戦成績 1勝1敗 ○● 鷲ヶ濱音右エ門(常盤山小平次) (安政6年11月7日目〜東前頭6枚目) 最高位・関脇 対戦成績 5勝1敗2分 分分●分○○○○○ 境川浪右エ門 (万延元年3月6日目〜西大関) 最高位・大関 境川浪右エ門は陣幕と互角の対戦成績を残しています 対戦成績 2勝2敗1分1預 ●○預●分○ 最初の対戦は陣幕が幕下時代に幕内の境川と対戦したもので、陣幕の幕内での敗戦に含まれていません 小柳平助 (文久2年3月7日目〜西前頭3枚目) 最高位・前頭3枚目 小柳平助は陣幕を下した1ヵ月後に弟弟子により刃傷で現役死しています 対戦成績 2勝1敗 ○○● 小野川才助 (慶応2年3月6日目〜東小結) 最高位・関脇 小野川才助は虹ヶ嶽を名乗った徳島(阿波)藩抱え時代には陣幕、鬼面山、大鳴門とともに「阿波四天王」といわれました。 久留米藩に抱えが変わってから小野川に改名しました。 対戦成績 4勝1敗3分 ○分分○●○分○ ▼ライバル 陣幕のライバルとして、一時代をともに築いた鬼面山谷五郎と幕下の時に通りですれ違う時に挨拶したところ鼻であしらわれて憤り対戦において1度も勝たせなかった不知火光右エ門を挙げます。 鬼面山谷五郎 岐阜県出身、身長186cm、体重140kg 幕内通算成績 27場所 143勝24敗16分8預63休 勝率8割5分6厘 優勝相当7回 最高位・大関(横綱免許) 鬼面山谷五郎は陣幕とともに一時代を築いた強豪です 守りを固める「負けない相撲」の陣幕に対し、鬼面山は勢いある攻撃的な「勝つ相撲」で対称をなしました 鬼面山谷五郎についての更なる詳細は、史上最強力士RANKING内の鬼面山谷五郎を参照 陣幕と鬼面山の対戦は前述の陣幕の「抱え変え」がからみ盛り上がった慶応3(1867)年4月7日目の引き分けの1戦のみです 対戦成績 1分 分 不知火光右エ門 福岡県出身、身長177cm、体重120kg 幕内通算成績 27場所 119勝35敗15分9預77休 勝率7割7分3厘 優勝相当3回 最高位・大関(横綱免許) 対戦は陣幕が不知火光右エ門を完全に圧倒しており、ライバルといえないかもしれませんが、陣幕には不知火に幕下時代に鼻であしらわれた「因縁」がありライバルとして挙げました 対戦成績 13勝2分 ○○分○分○○○○○○○○○○ |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
安政5(1858)年正月 | 東前6 | 5勝3分2休 | ○○○○分休分○分休 | ||
安政5(1858)年11月 | 東前4 | 中止 | 中止 | ||
安政6(1859)年正月 | 番付外 | 3勝1分6休 | 休休休休休○○○分休 | ||
安政6(1859)年11月 | 東前2 | 6勝2敗1預1休 | ○○○○預●●○○休 | ||
万延元(1860)年3月※ | 東前2 | 4勝1敗2分3休 | 休○分分○●休○○休 | ||
万延元(1860)年10月 | 東前2 | 5勝2分 | ○○分○○分○ | ||
万延2(1861)年1月 | 東前2 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (1) | |
文久元(1861)年10月 | 東前2 | 5勝1分4休 | ○○○○休○分休休休 | ||
文久2(1862)年3月 | 東前2 | 4勝1敗1分4休 | 分○○○休休●○休休 | ||
文久2(1862)年11月 | 東前2 | 5勝2分3休 | ○○分○○○休分休休 | 同 | |
文久3(1863)年7月 | 東張関 | 7勝1休2休 | ○○○分○○○○休休 | 同 | |
文久3(1863)年11月 | 東張関 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
元治元(1864)年10月 | 東張関 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
元治2(1865)年2月 | 東張関 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
慶応元(1865)年11月 | 東関脇 | 6勝1分1預2休 | ○○○分○預○○休休 | (2) | |
慶応2(1866)年2月 | 東関脇 | 6勝1敗1預2休 | ○○預○休●○○○休 | ||
慶応2(1866)年11月 | 西大関 | 8勝1分1休 | ○分○○○○○○○休 | (3) | |
慶応3(1867)年4月 | 西大関 | 7勝2分1休 | ○○○○○○分分○休 | (4) | |
慶応3(1867)年11月 | 西大関 | 7勝3休 | ○○○○○○休○休休 | (5) | 横綱 |
幕内通算成績 19場所 87勝5敗17分3預65休 勝率9割4分6厘 優勝相当5回 | |||||
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