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雷電為右エ門
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■史上最強力士RANKING−INDEX■■■■■

雷電為右エ門 谷風梶之助 太刀山峰右エ門 栃木山守也 梅ヶ谷藤太郎(初代)
双葉山定次 大鵬幸喜 常陸山谷右エ門 稲妻雷五郎 陣幕久五郎
小野川喜三郎 北の湖敏満 千代の富士貢 大錦卯一郎 玉錦三右エ門
貴乃花光司 羽黒山政司 鬼面山谷五郎 栃錦清隆 若乃花幹士(初代)
 

■雷電為右エ門■記録と伝説を作った史上最強力士 (RANKING 1位)

雷電 為右エ門(らいでん ためえもん)
本名・関 太郎吉〜出身地・長野県〜身長197cm、体重170kg
生没年月日・明和4(1767)年−文政8(1825)年2月21日
最高位・大関
■コメント
雷電為右エ門は、その圧倒的な成績と記録、伝説、逸話から史上最強力士といわれることが多いようです。

「横綱力士碑」を建立した12代横綱である陣幕久五郎も「
無類力士」として雷電を「横綱力士碑」に顕彰し、特別視しています。

管理者も雷電を
史上最強力士に推します。
(注意・雷電の名前を「爲」右エ門ではなく、「為」右エ門の表記で統一しています)

雷電為右エ門を知るおすすめ作品

▼履歴

▽初土俵まで
雷電は、明和4(1767)年に現在の長野県に生まれました。

少年期からその巨体と怪力で知られた雷電は、15歳の時に大名行列の前に立ち往生した荷車を担いで、行列を通したそうです。

この出来事をきっかけに雷電に読み書きを教えていた庄屋の上原源左衛門の元に、天明3(1783)年に日本中が飢饉となり、特に浅間山の噴火により、北陸巡業で困窮を極めた浦風一行の力士たちが転がり込みます。

9ヶ月間を力士とともに生活した雷電は、天明4(1784)年9月に浦風に入門し、江戸に上ります。


江戸では、当時の第一人者である谷風梶之助の預かり弟子として初土俵までの6年間を過ごすことになります。
(恵まれた体格と才能を持ったうえに第一人者から直接指導をみっちり受けるわけですから強くなるはずです・・・)
(雷電の初土俵は、こうした万全な準備期間を経た満を期してのものといってよいかもしれません)

この間に期待の大きさからか初土俵前ながら松江藩に抱え上げられる異例の待遇を受けます。


▽現役時代
寛永元(1789)年7月に大坂で小結を務めた(全休)後、寛永2(1790)年11月に関脇として江戸でデビューします。

関脇に張り出されるあたりは、やはり期待の大きさでしょうか。

その期待通りにいきなり小野川との預かりを含む8勝2預の優勝相当の成績を残します。

以後、35場所(出場34場所)で優勝相当28回、通算成績254勝10敗2分14預5無勝負41休、勝率9割6分2厘、9連覇、7連覇、44連勝、43連勝など圧倒的成績を残すことになります。



雷電には「全盛期」が無いといってよいかもしれません。

なぜなら初土俵から引退まで一貫して圧倒的に強かったからです



2敗以上した場所は1場所もなく、同じ相手に2敗したのも花頂山のみ、わずか10個の黒星もほとんどは取りこぼしであったといわれます。

雷電の名は、雷電為右エ門の登場以前には為右エ門より前の時代の為五郎、同時代の灘之助(雷電同士の対決も実現しますが、後に手柄山繁右エ門に改名、対戦成績は為右エ門の2勝1預)など散見されますが、雷電為右エ門の登場以後は、明治期に兜山和助が雷電震右エ門を名乗った(後に病気による大関陥落で阿武松和助に改名)例外を除くと、以後は名乗るものはなく、いわゆる「止め名」となっています。

なお、兜山が雷電を名乗る際に、雷電ゆかりの松江藩に伺いを立てたといわれます。


禁じ手伝説
この圧倒的強さから、雷電には「
張り手」「鉄砲」「閂(かんぬき)」、さらには「鯖折」が禁止されたとの伝説があります。

多くの文献にも見られる「
禁じ手伝説」は事実ではないとの見方が有力ですが、このような伝説が生まれるところに雷電の圧倒的な強さがうかがえます。


なぜ横綱になれなかったか
大相撲史における最大の謎のひとつに史上最強力士といわれる雷電が横綱になれなかったことがあります。

いくつかの説を列記し検証してみます。


・上覧相撲など横綱免許の機会がなかった
享和2(1802)年に上覧相撲があり、雷電も出場していることからこの説は疑問視される


・ペアで授与される横綱免許に雷電に見合う相手がいなかった
実質上初の横綱とされる谷風と小野川がペアで横綱免許を受けており、雷電の圧倒的強さから、雷電の実力に見合う相手としてのペアが見つからなかったとする説です

たしかに雷電の圧倒的強さに見合う相手はおらず、ある程度の説得力があると思います


・横綱免許は谷風、小野川のみに授与する予定だった
谷風、小野川に横綱免許が授与されてから阿武松緑之助が横綱免許を授与されるまでしばらく空白期間が続きました

ただし、その間に柏戸利助と玉垣額之助(4代)に横綱免許の打診がありました(両者辞退)


・遺恨相撲で相手を投げ殺し横綱免許が取り消された
講談などで語られるこの説は完全な創作とされ否定されています


管理者の個人的見解としては「ペアで授与される横綱免許に雷電に見合う相手がいなかった」とする説が有力と思います。

谷風、小野川に続く横綱免許に柏戸利助と玉垣額之助(4代)が打診されたことからもこの説は有力なのではと考えます。

さらに「横綱免許は谷風、小野川のみに授与する予定だった」との説も可能性があると思います。



雷電の体格
雷電の体格は、現在においても巨人といえる
身長197cm、体重170kgの筋肉質の体格(異説もあり)といわれます。

巨人にありがちな脆さもない
「規格外」の体格であり、現在よりも平均的に小型の体格であった江戸時代においては想像を絶するサイズだったと思われます。

現存する雷電の手形は長さ23.3cm、幅13cmで、多くが左手での手形であることから左利きだったのではといわれています。



「勝つ相撲」の具現者
雷電は太刀山とともに、より積極的に攻撃的に勝利を目指す「勝つ相撲」の具現者と考えます。

雷電の成績で特徴的なのは、
当時としては驚くほど少ない2回の引き分けです。

「勝つ相撲」で他を圧倒していた雷電は、引き分けになる以前にその圧倒的実力差で「勝ってしまう」ので驚くほど引き分けが少なかったと考えます。


敗戦のほとんどが
取りこぼしであったのは、対戦相手が(本場所において)柏戸以外は三役ではなかったことからもうかがえます。

勝つことが当たり前の雷電にとっては、ある意味で油断があったと推測され、その油断がなければ、連勝記録も更に伸びたのではないかと個人的には考えます。

圧倒的強さの雷電ですが、連勝記録については44が最高で、史上8位と控えめにとどまっているのが惜しまれます。



酒豪伝説
雷電は酒も非常に強かったといわれます。

享和2(1802)年の長崎巡業において、中国の学者で「李白の生まれ変わり」と噂された酒豪・陳景山との飲酒対決を行ったといわれます。

陳が1斗(18リットル)を飲んでダウンした後で、雷電はさらに1斗、合計2斗(36リットル)を飲み干し、高下駄を突っかけ傘を差して雨の中を宿へ帰ったというから、酒量の限界はまだまだのようです。

翌日の夕方まで寝込んだ陳はあらためて雷電の酒豪ぶりに脱帽し、絵と書を贈ったそうです。

雷電の敗戦に引き技と思われる決まり方が多いといわれるのは、
油断からくる飲酒が影響しているのかもしれません。

▽現役引退後
雷電は文化8(1811)年閏2月を最後に現役引退後、松江藩相撲頭取として、強豪・稲妻雷五郎を見出します。

文化11(1814)年に大火で焼失した報土寺の鐘楼と釣鐘の再現に尽力しますが、この鐘の形状などが幕府上役の不興を買い、江戸払いにとなり、文政2年(1819)年には藩財政緊縮の流れの中で相撲頭取職を解任となります。

晩年は、妻の実家のある現在の千葉県佐倉市に移り、その地で暮らして、文政8(1825)年2月21日に亡くなったとされます。

享年58歳。

雷電は当時の相撲取りとしては高い教養を持ち、「諸国相撲控帳」(通称「雷電日記」)、「萬相撲控帳」を残しており、これらは江戸の風俗を知る貴重な資料となっています。

史上最強力士は、文武両道でもありました。



▼成績と記録
通算成績 254勝10敗2分14預5無勝負41休、勝率9割6分2厘、35場所で優勝相当28回

この成績を記録で分析してみます。

▽勝率〜9割6分2厘〜史上1位
雷電が史上最強力士といわれる大きな根拠として、この圧倒的な勝率が挙げられます。

▽優勝相当〜28回〜史上3位
優勝相当28回は、年2場所の時代にあっては、この記録を抜くものはなく、年6場所の時代になっても、白鵬(34回、現役で平成27年春場所現在)、大鵬(32回)と千代の富士(31回)がこの記録を上回ったにすぎません。

しかも
35場所(引退場所は全休なので出場34場所での記録で、ほとんどの場所で優勝相当の成績だったということになります。
(白鵬は、史上4位タイの25回優勝(2013年5月現在)していますが、現役中で変動の可能性あり)

▽連覇〜9〜史上1位
文化3(1806)年11月から文化7(1810)年10月にかけての
9連覇は史上1位です。

その翌場所の文化8(1811)年閏2月に全休してそのまま引退していますから、
最強力士としての余力を十分に残しての引退といってよいかもしれません。

雷電は9連覇のほかに、寛政8(1796)年10月から寛政11(1799)年11月にかけての史上2位タイとなる7連覇、さらに寛政5年(1793)11月から寛政11(1799)年11月の間に
出場場所11連覇という驚くべき記録も達成しています。

ちなみに享和元年(1801)3月から文化2(1805)年10月の間にも
出場場所7連覇を記録しています。


▽連勝〜44〜史上8位
雷電を上回る連勝を記録したのは、双葉山(69)、谷風(63)、白鵬(63)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(58)、太刀山(56)、千代の富士(53)、大鵬(45)です。
(白鵬は、史上2位タイの63連勝(2013年5月現在)していますが、現役中で変動の可能性あり)

▼雷電に勝った力士
雷電は本場所においてわずか
10敗で、2敗した場所は1場所もなく、2敗した相手も花頂山のみです。

雷電に勝つことは、それだけで相撲史に大きな足跡を残したことになります。


雷電に勝った力士を以下に列記します。

ここでは、本場所の敗戦ではありませんが、上覧相撲において雷電に勝った陣幕も列記しています。
(前頭筆頭、幕下筆頭は、あえて1枚目で表記しました)
(対戦成績は雷電から見たものです)

陣幕嶋之助
(寛政3年6月の上覧相撲〜本場所での番付・東関脇)
最高位・大関

寛政3(1791)年4月の本場所を中断しての上覧相撲においての雷電の敗戦です。
本場所ではありませんが、
上覧相撲は、本場所以上の「公式戦」とされていました。

対戦成績 6勝1預(1敗)
(●)○○預○○○○

詳細は後述の▼ライバルを参照


梶ヶ濱力右エ門
(寛政3年4月5日目〜東前頭4枚目)
最高位・前頭4枚目

寛政3(1791)年4月の本場所が雨天順延でずれ込み、上覧相撲を経ての本場所の再開後であり、雷電の公式戦初黒星ですが、時期としては上覧相撲での陣幕からの敗戦に次ぐものです。

対戦成績1勝1敗
●○


花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)
(寛政5年3月8日目〜東幕下1枚目〜常山五郎吉)
(寛政9年3月7日目〜東前頭2枚目〜花頂山五郎吉)
最高位・大関

雷電が唯一2敗した力士です。

花頂山は、寛政5(1793)年3月に幕内の雷電と幕下(現在の十両)時代に常山として対戦、さらに寛政9(1797)年3月に幕内で花頂山として連勝しました。

雷電はこの2敗をはさみ19連勝、43連勝、44連勝をしています。


対戦成績3勝2敗1預
●●○○○預

詳細は後述の▼ライバルを参照


鯱和三郎
(寛政12年10月初日〜東幕下3枚目)
最高位・前頭3枚目
寛政12(1800)年10月に雷電の連勝を44でストップしました。

鯱は、幕内と幕下を往復するエレベーター力士でしたが、
世紀の大番狂わせの主役となりました。

結果を見ずに観客が帰りかけたほど全く期待されていなかった幕下の鯱が、立ち合いに大きく変化していなしたか、後ろへ回り込んでの送り出しでの勝利だったようです。

雷電にとって最多連勝である44でストップしたこの痛恨の敗戦は、俳人の安井大江丸によって「
負けてこそ人にこそあれ相撲取」と詠まれました。

対戦成績3勝1敗
○●○○


柏戸宗五郎
(文化元年10月5日目〜東小結)
最高位・大関

文化元(1804)年10月に本場所では
三役で唯一勝った力士です。

雷電に唯一2勝した花頂山とともに、
雷電のライバルといってもよい力士であり、自身も強豪大関でした。

対戦成績 5勝1敗1分2預3無勝負
無●○○預○無無○預○分

詳細は後述の▼ライバルを参照


春日山鹿右エ門
(文化2年10月6日〜東前頭1枚目)
最高位・小結

対戦成績 10勝1敗
○○○○○○○○●○○


音羽山峰右エ門
(文化3年2月4日目〜東前頭4枚目)
最高位・前頭3枚目

対戦成績 6勝1敗
○●○○○○○


鏡岩濱之助
(文化5年10月4日目〜東前頭3枚目)
最高位・小結

対戦成績 9勝1敗
○○○○○●○○○○


立神盤右エ門
(文化6年10月3日目〜東前頭7枚目)
最高位・関脇

対戦成績 1勝1敗
●○


江戸ヶ崎源弥
(文化7年10月5日目〜東前頭1枚目)
最高位・関脇

対戦成績 11勝1敗2預
○預○○○○○預○○○○○●


▼ライバル
正確に言えば、圧倒的な強さと成績で他を圧倒していた雷電には、ライバルはいなかったのかもしれませんが、雷電と好勝負をした柏戸宗五郎と雷電に唯一2勝している花頂山はライバルといってよいかもしれません。

また、上覧相撲において記録に残る上で、唯一雷電を正攻法で下した陣幕と谷風のライバルだった小野川もライバルとして挙げました。

注意)前述の▼雷電に勝った力士と内容が重複する箇所があります
(対戦成績は雷電から見たものです)


柏戸宗五郎
埼玉県出身、身長184cm、体重116kg
幕内通算成績 30場所 156勝36敗9分12預11無勝負54休 勝率8割1分3厘 優勝相当1回
最高位・大関

雷電と渡り合うこと12回、雷電に本場所では唯一の三役で勝利した力士であり、最後の対戦(この対戦は、雷電にとって現役最後の一番)では雷電にとって2回しかない引き分けを記録しています。

雷電と同時代のため優勝相当は1回ですが、
優勝同点相当を6回記録しており、雷電と違う時代であれば、横綱の可能性もあった強豪大関です。

対戦成績 5勝1敗1分2預3無勝負
無●○○預○無無○預○分

柏戸宗五郎についての更なる詳細は、強豪力士内の柏戸宗五郎を参照


花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)
山形県出身、身長176cm
幕内通算成績 16場所 65勝23敗10分6預9無勝負30休 勝率7割3分9厘 優勝相当2回
最高位・大関

雷電に唯一2勝した力士です。

花頂山は、寛政5(1793)年3月の幕下時代(現在の十両)に幕内で、さらに寛政9(1797)年3月に幕内で雷電に連勝しています。

雷電は、花頂山からの2敗を間にはさんで、19連勝、43連勝、44連勝をしています。

つまりこの間に雷電は、花頂山以外には敗れておらず、花頂山は、「
雷電キラー」といってよいかもしれません。

優勝相当2回、享和2(1802)年2月に大関となり、花頂山浅右エ門から市野上浅右エ門に改名していますが、その場所を全休、同年8月13日に現役死しています。

劇的な相撲人生だったといえます。


対戦成績 3勝2敗1預
●●○○○預

花頂山五郎吉(市野上浅右エ門)についての更なる詳細は、強豪力士内の花頂山五郎吉を参照


陣幕嶋之助
愛媛県出身、身長189cm、体重146kg
幕内通算成績 16場所 60勝22敗9分14預7無勝負38休 勝率7割3分2厘
最高位・大関

実力のある力士でしたが、優勝相当はありません。

寛政3(1791)年4月の本場所を中断しての同年6月の上覧相撲において雷電を立ち合いから喉輪で一気に下したといわれます。
記録に残る限り、
雷電をここまで正攻法で下した力士は他にいません

本場所ではないものの、雷電にとって初土俵から初の敗戦であり、しかも
上覧相撲は、本場所以上の「公式戦」であったといわれています。

対戦成績 6勝(1敗)1預
(●)○○預○○○○

陣幕嶋之助についての更なる詳細は、強豪力士内の陣幕嶋之助を参照


小野川喜三郎
滋賀県出身、身長176cm、体重135kg
幕内通算成績 23場所 144勝13敗4分10預3無勝負40休 勝率9割1分7厘 優勝相当7回
最高位・大関(横綱免許)

谷風梶之助のライバルであり、谷風の連勝を63でストップしたことでも知られています。

自身も古今の強豪でしたが、
雷電との対戦では江戸で勝つことはありませんでした

対戦成績 2勝2預
預預○○

小野川喜三郎についての更なる詳細は、史上最強力士RANKINNG内の小野川喜三郎を参照


▼語り継がれる雷電為右エ門
圧倒的な成績と記録、伝説、逸話を作った雷電為右エ門・・・今後もその名は、永久不滅の光を放ち、
史上最強力士として語り継がれることでしょう。

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■通算成績
場所 番付 成績 星取表 優勝 備考
寛政2(1790)年11月 西関脇 8勝2預 ○○○預○○○預○○ (1)  
寛政3(1791)年6月 西関脇 6勝1敗1無勝負2休 ○○○○●○無休○休    
寛政3(1791)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○○○○預休  
           
寛政4(1792)年11月 西関脇 2勝1休 休○○    
寛政5(1793)年3月 西関脇 8勝1敗 ○○○○○○○●○   同 
寛政5(1793)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○預○○○休 (2)  
寛政6(1794)年3月 西小結 6勝1分1預2休 休○○○○○分預○休 (3)  
寛政6(1794)年11月 西関脇 8勝1預1休 ○○○○○○預○○休 (4)  
寛政7(1795)年3月 西大関 5勝 ○○○○○ (5)  
           
寛政8(1796)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (6)  
寛政9(1797)年3月 西大関 8勝1敗1休 ○○○○○○●○○休 (7)  
寛政9(1797)年10月 西大関 10勝 ○○○○○○○○○○ (8)  
寛政10(1798)年3月 西大関 8勝1無勝負1休 ○○○○無○○○○休 (9)  
寛政10(1798)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (10)  
寛政11(1799)年2月 西大関 6勝1休 ○○○○○○休 (11)  
寛政11(1799)年11月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (12)  
           
寛政12(1800)年10月 西大関 6勝1敗1預2休 ●○○○○○○預休休    
享和元(1801)年3月 西大関 6勝1預3休 休休○○○預○○○休 (13)  
            
享和2(1802)年11月 西大関 8勝2休 休○○○○○○○○休 (14)  
享和3(1803)年5月 西大関 5勝2預 ○○預○○預○ (15)  
享和3(1803)年10月 西大関 9勝1休 ○○○○○○○○○休 (16)  
           
文化元(1804)年10月 西大関 8勝1敗1休 ○○○○●○○○○休 (17)  
文化2(1805)年2月 西大関 10勝 ○○○○○○○○○○ (18)  
文化2(1805)年10月 西大関 9勝1敗 ○○○○○●○○○○ (19)  
文化3(1806)年2月 西大関 3勝1敗1休 ○○休●○    
文化3(1806)年11月 西大関 9勝1預 ○○○○○○預○○○ (20)  
文化4(1807)年2月 西大関 8勝1預1休 ○○○○○○○預○休 (21)  
文化4(1807)年11月 西大関 8勝1預1無勝負 ○○○○○預○無○○ (22)  
文化5(1808)年4月 西大関 7勝1無勝負2休 ○○○○○○○休無休 (23)  
文化5(1808)年10月 西大関 9勝1敗 ○○○●○○○○○○ (24)  
文化6(1809)年2月 西大関 8勝1預1休 ○○○○休○○○預○ (25)  
文化6(1809)年10月 西大関 7勝1敗2休 ○○●○○○○○休休 (26)  
文化7(1810)年2月 西大関 9勝1無勝負 ○○○無○○○○○○ (27)  
文化7(1810)年10月 西大関 7勝1敗1分1休 ○○○○●○○○分休 (28)  
文化8(1811)年閏2月 西大関 10休 休休休休休休休休休休    
 通算成績 35場所 254勝10敗2分14預5無勝負41休 勝率9割6分2厘 優勝相当28回


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