陣幕嶋之助 |
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■陣幕嶋之助■雷電為右エ門に一気の正攻法で勝った強豪 |
陣幕 嶋之助(じんまく しまのすけ) |
本名・灘屋 〜出身地・愛媛県〜身長189cm、体重146kg |
生没年月日・明和8(1771)年−文化6(1809)年2月10日 |
最高位・大関 |
■コメント |
陣幕嶋之助(じんまく・しまのすけ)は、敗戦のほとんどが取りこぼしであったといわれる雷電為右エ門を寛政3(1791)年6月の上覧相撲において喉輪で一気に下しました。 雷電がここまで正攻法な攻めで敗れたのは、記録に残る限り他にありません。 雷電が三役相手に敗れたのも本場所の柏戸宗五郎と陣幕(上覧相撲が行われた時期の陣幕の本場所での番付は関脇)のみです。 陣幕の勝利は本場所での取り組みではありませんでしたが、上覧相撲は本場所以上の「公式戦」とされていました。 ▼履歴 陣幕は、天明8(1788)年8月に大坂相撲で陣幕長兵衛の弟子として龍門鯛之助を名乗っていました。 寛政元(1789)年11月に江戸に下り、藤嶋甚助の弟子となります。 (この場所は番附編成変更で大関格に遇されたようです) 翌場所の寛政2(1790)年3月に西関脇でいきなり6勝3敗の好成績を挙げます。 その1年後に前述したとおり上覧相撲で雷電を破ります。 実力はありましたが、地元の松山藩主とは反りが合わず、寛政7(1795)年3月から3場所のみ阿波藩の抱えとなりました。 享和2(1802)年11月に大坂相撲へ戻り、文化元(1804)年6月に引退します。 引退後は頭取などを務めますが、文化4(1807)年7月に廃業し、以後は地元で土地相撲を指導します。 ▼ライバル 陣幕嶋之助が歴史に名を残したのは、雷電を上覧相撲で一気の正攻法で下したからです。 (対戦成績は陣幕から見たものです) 雷電為右エ門 長野県出身、身長197cm、体重170kg 通算成績 35場所 254勝10敗2分14預5無勝負41休 勝率9割6分2厘 優勝相当28回 最高位・大関 雷電はその圧倒的な成績と記録から史上最強力士といわれています 陣幕は上覧相撲で雷電に勝って以後、本場所で雷電に勝つことはありませんでした 対戦成績 (1勝)6敗1預 (○)●●預●●●● 雷電為右エ門についての更なる詳細は、史上最強力士RANKINNG内の雷電為右エ門を参照 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
寛政2(1790)年3月 | 西関脇 | 6勝3敗 | ○○○○○○●●● | ||
寛政2(1790)年11月 | 東関脇 | 5勝1敗1預3休 | ●○○休休休○預○○ | ||
寛政3(1791)年6月 | 東関脇 | 3勝2敗1分1預1無勝負1休 | ○○無預○分休●●休 | ||
寛政3(1791)年11月 | 東関脇 | 5勝1敗2無勝負2休 | ○○休○○無休●○無 | ||
寛政5(1793)年10月 | 東関脇 | 5勝1分1預3休 | 預○○○○分○休休休 | ||
寛政6(1794)年3月 | 東関脇 | 5勝4敗1預 | ○○●○○●●預●○ | ||
寛政6(1794)年11月 | 東関脇 | 7勝2分1無勝負 | ○○○○○○分分無○ | ||
寛政7(1795)年3月 | 東関脇 | 2勝1分1預1休 | 休○○分預 | ||
寛政7(1795)年11月 | 東大関 | 3勝4預3休 | ○○預預○預預休休休 | ||
寛政8(1796)年3月 | 東大関 | 4勝3敗3休 | ○○●○●○●休休休 | ||
寛政8(1796)年10月 | 番付外 | 4勝3敗1預1無勝負1休 | ○○○○預●●●無休 | ||
寛政9(1797)年3月 | 東大関 | 6勝1敗1分1無勝負1休 | ○○○分○○無○●休 | ||
寛政11(1799)年11月 | 東関脇 | 2勝2敗1分4預1休 | ○預預預分●○預●休 | ||
寛政12(1800)年11月 | 東大関 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
享和元(1801)年11月 | 東大関 | 6休 | 休休休休休休 | ||
享和2(1802)年11月 | 東小結 | 3勝2敗2分1無勝負2休 | 休○○○分分●無●休 | ||
幕内通算成績 17場所 60勝22敗9分14預7無勝負38休 勝率7割3分2厘 | |||||
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