大鵬幸喜 |
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■大鵬幸喜■優勝32回、記録の巨人 (RANKING 7位) |
大鵬 幸喜(たいほう こうき) |
本名・納谷 幸喜〜出身地・北海道〜身長187cm、体重153kg |
生没年月日・昭和15(1940)年5月29日−平成25(2013)年1月19日 |
最高位・横綱 |
■コメント |
大鵬幸喜(たいほう・こうき)は、史上2位となる優勝32回、史上2位タイとなる全勝8回を記録し、他にも6場所連続優勝2回、45連勝なども記録しています。 第48代横綱 大鵬幸喜―甦る昭和の大横綱CD BOOK 昭和の大横綱・大鵬幸喜のCDBOOKです 新入幕から引退まで優勝しなかった年は1度も無く、柔らかい巨体を利した「負けない相撲」を完成し、10年余りも相撲界に君臨しました。 その人気と知名度の高さは、当時の子供たちが好きだったものを並べた「巨人、大鵬、卵焼き」という言葉にもあらわれています。 優勝30回を機に「一代年寄」を認められ、引退後に現役時代の大鵬の名を年寄名跡として大鵬部屋を興しました。 昭和の大横綱として双葉山、北の湖、千代の富士とともに必ず名前が挙がります。 さらに平成の大横綱で挙げれば貴乃花(2代目)、朝青龍、現役の白鵬でしょうか。 個人的に昭和の大横綱を絞って選べば、双葉山と大鵬となります。 □大鵬幸喜を知るおすすめ作品 ▼履歴 ▽入門まで 大鵬幸喜は、父がウクライナ人、母が日本人のハーフとして樺太に生まれました。 その後、敗戦を機に母や兄弟とともに北海道に移ります。 母子家庭であったためか、生活は苦しく各地を転々としたといわれます。 中学卒業後に定時制高校に通いながら働いていましたが、昭和31(1956)年7月に二所ノ関一行が巡業に来たのがきっかけで二所ノ関部屋に入門することになります。 ▽現役時代 昭和31(1956)年9月に本名の納谷で初土俵を踏み、順調に出世していきます。 昭和34(1959)年5月に十両に昇進し、師匠の二所ノ関が有望な弟子につけようと温めていた「大鵬」に改名します。 大鵬は、二所ノ関が中国の古典「荘子」から取ったといわれています。 昭和35(1960)年1月に新入幕、初日から11連勝し注目されます。 12日目に対戦したのが、後にライバルとなる小結の柏戸で、この一番に敗れ、大鵬の連勝は「11」でストップします。 この場所は結局12勝3敗、新入幕ながら優勝した栃錦(14勝1敗)に次ぐ成績で敢闘賞を受賞します。 翌場所の同年3月は、さすがに上位の「壁」で7勝8敗と負け越しますが、続く同年5月は11勝4敗で敢闘賞の受賞と金星(朝汐)を獲得、同年7月は小結に昇進し11勝4敗、同年9月は関脇に昇進し12勝3敗で技能賞を獲得しました。 そして同年11月に関脇2場所目で13勝2敗で初優勝を果たし、翌場所の大関昇進を決めています。 入幕から6場所目、入幕した年の初優勝でした。 しかもこの年は栃錦の引退、若乃花(初代)の晩年で、若乃花は年間の優勝が3回ながら2場所の休場があったこともあり、大鵬が66勝24敗で年間最多勝の成績を挙げています。 ちなみにこの年の栃錦の成績は28勝5敗(優勝1回、同年5月引退)、若乃花(初代)の成績は59勝13敗18休(優勝3回)でした。 昭和36(1961)年1月に大関昇進、同年7月から昭和37(1962)年1月にかけて4連覇をし、その間の昭和36(1961)年9月に2連覇を優勝決定戦でライバル・柏戸を下して飾り、柏戸とともに翌場所の同年11月に横綱に昇進しています。 入幕した年に年間最多勝の獲得、大関昇進を決めたのも、入幕の翌年に横綱に昇進したのも大鵬が初であり、その後も出現していません。 昭和37(1962)年7月から昭和38(1963)年5月にかけて6連覇を達成するが、この頃から「大鵬の相撲には型が無い」との批判を受けるようになります。 昭和38(1963)9月、4場所連続休場で再起をかけていた柏戸との全勝での千秋楽決戦に敗れます。 しかしこの一番は、石原慎太郎によって「大鵬の一方的な八百長ではないか」との批判を受けます。 (大鵬は否定、後に石原は謝罪) 昭和40(1965)年5月、巡業先のアメリカから柏戸や北の富士とともに拳銃を密輸入していることが発覚し、書類送検させるが、相撲協会からの処分は謹慎にとどまります。 昭和40(1965)年5月は、三役昇進以後では皆勤した場所では唯一10勝を下回る9勝6敗の成績となります。 昭和41(1966)年3月から昭和42(1967)年1月にかけて再び6連覇を達成します。 昭和42(1967)年9月には左肘を故障し途中休場、翌場所の同年11月は全勝で再起を果たすが、その後は途中休場も含め、その他のケガや病気もあり5場所連続休場、しかも最近3場所は全休で、限界かといわれて迎えた昭和43(1968)年9月に進退を賭けて久々に出場します。 初日に敗れた時はもうダメかと思われましたが、慎重な相撲で引き技の多さは目立つものの、2日目から連勝を続け、14勝1敗で優勝し、再起を飾ります。 さらに2場所連続で全勝優勝で3連覇を達成します。 4連覇と更なる連勝を目指した昭和44(1969)年3月2日目の平幕の戸田戦で敗れて、連勝が「45」でストップします。 しかしこの一番は、ビデオ映像や写真で押し出したと思われた戸田の足が先に出ており、誤審であると問題になり、勝負判定にビデオを参考にするきっかけとなります。 連勝は「45」でストップしたものの、勝負判定にビデオを参考にするという「科学」を持ち込んだ意義は大きかったといえます。 大鵬の連勝ストップは、双葉山の連勝ストップとは別の意味でのインパクトとエポック・メイキングな出来事だったといえるかもしれません。 昭和44(1969)年5月に30回目の優勝をし、同年9月初日に相撲協会から「一代年寄」を認められます。 晩年になっても引き技を多用するある意味「無理のない相撲」で力を温存して、台頭してきた北の富士や玉の海といった「若い力」にも温存してためていた力を勝負所で発揮して対抗しました。 実際に大鵬は北の富士、玉の海の「最後の壁」となっていました。 昭和45(1970)年11月に玉の海との優勝決定戦に敗れるも、翌場所の昭和46(1971)年1月には千秋楽に本割と優勝決定戦で玉の海を下し、逆転で32回目の優勝を飾ります。 続く同年3月は12勝3敗、まだまだ余力があると思われた同年5月初日に栃富士に敗れ尻から落ちたことで引き際を見極め、5日目に新鋭の貴ノ花に同じく尻から落ちて敗れたことで引退を表明しました。 ▽現役引退後 引退後は、「一代年寄」として年寄・大鵬を襲名し、大鵬部屋を興して関脇・巨砲らを育てます。 相撲協会においては理事を務めましたが、協会内で主流派ではない二所ノ関一門であることを考慮しても、現役時代の実績からは理事長クラスに就任してもおかしくはなかったと思います。 昭和52(1977)年に脳梗塞で倒れ、後遺症が残った健康面での問題が、理事長などの要職への道を閉ざしてしまったといわれます。 平成12(2000)年に北の湖(北の湖)、九重(千代の富士)を従えて還暦土俵入りを披露しています。 平成17(2005)年に相撲協会を定年退職して、長く空席だった相撲博物館館長に就任します。 これまで栃錦、若乃花と理事長経験者が就任することが慣例となっていた相撲博物館館長に、若乃花の後に理事長になった豊山や佐田の山ではなく理事長経験の無かった大鵬が就任したのは異例の抜擢といわれます。 平成20(2008)年11月の相撲協会理事会で健康面を理由に相撲博物館館長の退任を承認されました。 館長は同年12月26日で退きましたが、相撲への強い思いは変わらず、角界を温かくも厳しく見つめています。 平成25(2013)年1月19日に死亡しております。 72歳でした。 死後に「国民栄誉賞」を受賞しました。 大相撲名力士風雲録 3―月刊DVDマガジン 大鵬 (ベースボール・マガジン社分冊百科シリーズ) 柔らかい巨体を生かした「負けない相撲」を目指し、優勝32回をした大鵬幸喜のDVDマガジン ▼成績と記録 幕内通算成績 746勝144敗136休 勝率8割3分8厘 69場所で優勝32回 横綱在位成績 622勝103敗136休 勝率8割5分8厘 58場所で優勝29回 この成績を記録で分析してみます。 優勝〜32回〜史上2位 優勝32回は史上2位の記録です。 ちなみに1位は白鵬です。 全勝〜8回〜史上2位タイ 史上2位タイの記録ながら年2場所時代に双葉山も8回の全勝があり、その点で大鵬の記録は物足りないとの意見もあります 連覇〜6(2回)〜優勝制度制定以降では2位 6連覇は優勝制度制定以降では朝青龍、白鵬などが上回るのみで、しかも大鵬は2回記録しています 連勝〜45〜史上7位 大鵬の連勝記録を上回るのは双葉山(69)、谷風(63)、白鵬(63)、梅ヶ谷(初代)(58)、太刀山(56)、千代の富士(53)です 幕内勝率〜8割3分8厘〜昭和以降では2位 昭和以降では幕内勝率が8割を超えているのは驚異的です 現役では、白鵬が2013年終了時点で上回っています。 横綱勝率〜8割5分8厘〜昭和以降では4位 昭和以降で、9割に迫る双葉山(8割8分2厘)は別格、大鵬を上回るのは若き現役死で勝率が落ちなかった玉の海(8割6分7厘)、白鵬だけです 現役では、白鵬が2013年終了時点で上回っています。 連続年間最多勝〜5年〜史上2位タイ 大鵬は入幕した年から5年連続で記録しています 史上1位は、現役の白鵬が2013年終了時点で7場所連続 大鵬の記録では、入幕した年から引退の年までの12年間で毎年優勝している記録は、今後「破りにくい記録」の筆頭かもしれません ▼負けない相撲 大鵬は柔らかい巨体を利した「負けない相撲」を完成させたといわれます。 たしかに年6場所時代にあって幕内での敗戦数の少なさ(144敗)は驚異的といえるかもしれません。 個人的には大鵬の相撲に最も合う表現は「負けない相撲」というより「優勝する相撲」です。 柔らかい巨体ながら足腰はそれほど強くなく、がっぷり四つでは意外と苦戦することもありましたが、差し身のよさで双差しになるなど自分有利な体勢になることで勝ちにつなげました。 ▼型が無い相撲 大鵬の相撲には「型が無い」との批判は現役時代からありました。 双葉山のような右四つ左上手という「絶対的型」がありませんでしたが、基本は左四つながら右四つでも柔らかい巨体で相手を包み込んで力を発揮させませんでした。 前述のように差し身のよさで双差しになるなど自分有利の体勢になる「技術」もありました。 晩年には力の衰えを、引き技を多用することによりカバーし、勝負所で力を発揮するために力を温存し、「若い力」に対抗しました。 これらの引き技は懐の深さがあってこそだったと思います。 当時は批判された「型が無い」といわれた大鵬の相撲も最近では相手に対して臨機応変に対応する合理的かつ柔軟性のある相撲と評価されてもいます。 臨機応変に対応する相撲は、「自然体」ともいわれました。 個人的には臨機応変に対応する相撲は、ある意味「相撲の理想」と考えます。 江戸時代の名大関・劔山谷右エ門が残したとされる金言である「名人に得意なし」、「得意技が無いのが名人である」は「型が無い」臨機応変な相撲に最も合致すると思います。 大鵬の「型の無い相撲」が劔山の金言の領域に完全に達したとはいえませんが、近づいていたとは思います。 相撲の歴史において劔山の金言を体現した力士は現れてはいませんが、最も近づいた力士は金言を発した劔山と大鵬なのかもしれません。 ▼エピソード 柔らかい巨体で相手の力を吸収する相撲は「受けの強さ」があり、立ち合いもうまく最晩年の昭和46(1971)年3月6日目の大雪との初顔合わせでは1度目の仕切りで立ち、難なく下しています。 双葉山における竜王山戦のエピソードを思わせます。 中沢潔氏の「相撲もの知り博士」(KKベストセラーズ)の照國万蔵のエピソードの中で伊勢ヶ浜(照國)が語った「下半身は安定させ、上半身の体重を相手に預けてしまう相撲を大鵬が行っていた」との主旨の話があります。 これは伊勢ヶ浜が現役時代に横綱・照國万蔵として行ってきた相撲であり、中沢氏はこの相撲を行えるのは「相撲の天才」であるとしています。 私自身も「なるほど」と感心して読んだ記憶があります。 大鵬自身は天才といわれることを嫌い、自分は努力家だといっていたそうですが、大鵬は中沢氏の指摘の通りやはり「相撲の天才」だったのではないでしょうか。 もちろん大鵬自身が語っているように、人一倍の努力があったことも確かだと思います。 ▼ライバル 大鵬のライバルとしては大鵬とともに「柏鵬」時代を築いた柏戸剛を挙げます。 (対戦成績は大鵬から見たものです) 柏戸剛 山形県出身、身長188cm、体重139kg 幕内通算成績 66場所 599勝240敗140休 勝率7割1分4厘 優勝5回 最高位・横綱 柏戸は本名を名乗っていた富樫の頃から将来を期待され、順調に出世しました 入幕4場所目の昭和34(1959)年3月に伝統の四股名である柏戸に改名、昭和35(1960)年1月に小結として新入幕で西前頭13枚目の大鵬の初日からの連勝記録を11でストップさせ名を上げます その後大鵬とは「柏鵬」時代を築くことになります 「柏鵬」時代といっても柏戸の優勝回数5回に対し、大鵬32回とライバルに水を空けられたことは否めません しかし直接の対戦成績で柏戸は16勝21敗(最晩年の5連敗を除けばそれまで16勝16敗の五分)と拮抗しており、体が堅く、取りこぼしが多かったことが強さの割りに優勝回数を始め記録面で大鵬に差をつけられた要因とされています 詳細は史上最強力士RANKING(RANKIG外の強豪力士)内の柏戸剛を参照 対戦成績21勝16敗 ●○●●○●●●○●○○●○○○●●○○○●●●○○○●○○●●○○○○○ (上の対戦成績は本場所の本割でのもの、他に両者は優勝決定戦で2回対戦しており大鵬の2勝となっています) 流行語にもなった子供が好きなものを並べたタイトルの「巨人、大鵬、卵焼き−私の履歴書」 自ら(大鵬)の人生を語っています。 □大鵬幸喜を知るおすすめ作品 大鵬幸喜の関連記事・・・照国万蔵 伊勢ヶ濱親方(照国)が発言したとされる「相撲の天才」とされる「下半身はがっちりと安定させ、上半身の体重を相手に預けていた」ことを大鵬も行っていたこと(本記事にも掲載)が載っています。 |
■幕内通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
昭和35(1960)年1月 | 西前13 | 12勝3敗 | ○○○○○○○□○○○●○●● | 敢 | |
昭和35(1960)年3月 | 東前4 | 7勝8敗 | ○●●●○●●●●○○○●○○ | ||
昭和35(1960)年5月 | 東前6 | 11勝4敗 | ○●●○○○○●○○○○○○● | 敢、金 | |
昭和35(1960)年7月 | 西小結 | 11勝4敗 | ○○○●○○○●●○○○●○○ | ||
昭和35(1960)年9月 | 西関脇 | 12勝3敗 | ○○○○○○○○●○●○○●○ | 技 | |
昭和35(1960)年11月 | 東関脇 | 13勝2敗 | ○○○○○○●○○●○○○○○ | 1 | |
昭和36(1961)年1月 | 東張大 | 10勝5敗 | ○○●○○●○●○○●○●○○ | ||
昭和36(1961)年3月 | 西張大 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○○○●●○○○ | ||
昭和36(1961)年5月 | 西大関 | 11勝4敗 | ●●○○○○○○○○○●○●○ | ||
昭和36(1961)年7月 | 東大関 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○●○○○●○○ | 2 | |
昭和36(1961)年9月 | 東大関 | 12勝3敗 | ○○○●○○○○○●○○○●○ | 3 | 決 |
昭和36(1961)年11月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○●○●○○○○○○○ | 4 | |
昭和37(1962)年1月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○●○○○○○○○○●○ | 5 | |
昭和37(1962)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○●○○○○○○○○○○○● | 決 | |
昭和37(1962)年5月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○●○○○○○○○●●●○ | ||
昭和37(1962)年7月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○●○○○○○○○○○○○○○ | 6 | |
昭和37(1962)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○□○○●●○ | 7 | 決 |
昭和37(1962)年11月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○○●○○● | 8 | |
昭和38(1963)年1月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 9 | |
昭和38(1963)年3月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○●○○○○○○○○○○○ | 10 | |
昭和38(1963)年5月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 11 | |
昭和38(1963)年7月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○○○●●○○○ | ||
昭和38(1963)年9月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | ||
昭和38(1963)年11月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○●○○○○●○○○○○●○ | ||
昭和39(1964)年1月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○□○○○ | 12 | |
昭和39(1964)年3月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 13 | |
昭和39(1964)年5月 | 東横綱 | 10勝5敗 | ○○○●○○○●○○○●●○● | ||
昭和39(1964)年7月 | 東横綱 | 1勝4敗10休 | ○●●●■休休休休休休休休休休 | ||
昭和39(1964)年9月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○●○○○○○○○○○○○ | 14 | |
昭和39(1964)年11月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○●○○○○○ | 15 | |
昭和40(1965)年1月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ●●○○○○○○○○○●○○● | ||
昭和40(1965)年3月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○●○○○○○○○○○ | 16 | |
昭和40(1965)年5月 | 東横綱 | 9勝6敗 | ○●●○○●●○○○○○●○■ | ||
昭和40(1965)年7月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○●○○●○○○○ | 17 | |
昭和40(1965)年9月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○○○○○●○●○●● | ||
昭和40(1965)年11月 | 東張横 | 13勝2敗 | ○○○●○○○○○○○○○○● | 18 | |
昭和41(1966)年1月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和41(1966)年3月 | 東張横 | 13勝2敗 | ○○○○○○○●○●○○○○○ | 19 | |
昭和41(1966)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ●○○○○○○○○○○○○○○ | 20 | |
昭和41(1966)年7月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○●○○ | 21 | |
昭和41(1966)年9月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○○○○○○○○○○●● | 22 | 決 |
昭和41(1966)年11月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 23 | |
昭和42(1967)年1月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 24 | |
昭和42(1967)年3月 | 東横綱 | 13勝2敗 | ○○○○●○○○○○○○○●○ | ||
昭和42(1967)年5月 | 東横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○○○○○● | 25 | |
昭和42(1967)年7月 | 東横綱 | 2勝1敗12休 | ○○■休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和42(1967)年9月 | 東張横 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 26 | |
昭和42(1967)年11月 | 東横綱 | 11勝2敗2休 | ○○○○○○○○○○●○■休休 | ||
昭和43(1968)年1月 | 東横綱 | 1勝3敗11休 | ○●●■休休休休休休休休休休休 | ||
昭和43(1968)年3月 | 東張横 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和43(1968)年5月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和43(1968)年7月 | 西横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和43(1968)年9月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ●○○○○○○○○○○○○○○ | 27 | |
昭和43(1968)年11月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 28 | |
昭和44(1969)年1月 | 東横綱 | 15勝 | ○○○○○○○○○○○○○○○ | 29 | |
昭和44(1969)年3月 | 東横綱 | 3勝2敗10休 | ○●○○■休休休休休休休休休休 | ||
昭和44(1969)年5月 | 西横綱 | 13勝2敗 | ○○○○●○○○○●○○○○○ | 30 | |
昭和44(1969)年7月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○●○○○○○○○○●○●○● | ||
昭和44(1969)年9月 | 東横綱 | 11勝4敗 | ○○○○○○○●○●○○●●○ | ||
昭和44(1969)年11月 | 東横綱 | 6勝4敗5休 | ○●○○○○●●○■休休休休休 | ||
昭和45(1970)年1月 | 東横綱 | 15休 | 休休休休休休休休休休休休休休休 | ||
昭和45(1970)年3月 | 東張横 | 14勝1敗 | ○○○○○○●○○○○○○○○ | 31 | |
昭和45(1970)年5月 | 東横綱 | 12勝3敗 | ○○○○○○●○●○○●○○○ | ||
昭和45(1970)年7月 | 西横綱 | 2勝2敗11休 | ○○●■休休休休休休休休休休休 | ||
昭和45(1970)年9月 | 東張横 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○○○○○●●○ | ||
昭和45(1970)年11月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○●○○○○○○○○○○ | 決 | |
昭和46(1971)年1月 | 西横綱 | 14勝1敗 | ○○○○○○○○○○●○○○○ | 32 | 決 |
昭和46(1971)年3月 | 西横綱 | 12勝3敗 | ○○○○●○○○○○○○○●● | ||
昭和46(1971)年5月 | 西横綱 | 3勝3敗 | ●○○○●■ | ||
幕内通算成績 69場所 746勝144敗136休 勝率8割3分8厘 優勝32回 敢闘賞2回、技能賞1回、金星1個 |
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