谷風梶之助 |
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■谷風梶之助■古今並びなき大横綱 (RANKING 2位) |
谷風 梶之助(たにかぜ かじのすけ) |
本名・金子 与四郎〜出身地・宮城県〜身長189cm、体重169kg |
生没年月日・寛延3(1750)年8月8日−寛政7(1795)年1月9日〜現役死 |
最高位・大関(横綱免許) |
■コメント |
谷風梶之助(たにかぜ・かじのすけ)は、第4代横綱ですが、実質上最初の横綱とされています。 古今の最強力士といえば、雷電為右エ門、谷風梶之助が不動の1位、2位といわれることが多いようです。 両力士はそれだけ大相撲において抜きん出た存在であり、特別視され、別格で扱われています。 管理者も雷電に続く最強力士として谷風を推します。 ▼履歴 谷風は、寛永3(1750)年8月8日に現在の宮城県に生まれました。 明和6(1769)年4月に伊達ヶ関の名で看板大関として初土俵を踏みますが、翌場所には、仙台藩主である伊達家を憚って達ヶ関に改名します。 看板大関ではありましたが、相撲の実力でも非凡な面を示します。 看板大関を3場所務めた後、その待遇をよしとせず、明和7(1770)年11月に前頭1枚目から再スタートします。 安永5(1776)年11月に谷風に改名します。 安永7(1778)年3月から天明2(1782)年2月にかけて63連勝をします。 (63連勝は双葉山が69連勝をするまで約150年間も連勝記録となっていました) 連勝をストップさせたのが、後にライバルとなる小野川喜三郎(当時・幕下3枚目、当時の幕下は現在の十両)でした。 連敗がストップした翌日から谷風は再び43連勝をしています。 寛政元(1789)年11月に小野川とともに横綱免許を受けます。 寛政7(1795)年1月9日に流行していたインフルエンザにより谷風は現役死します。 享年44歳。 この時35連勝中でした。 そして死因となったこのインフルエンザは「御猪狩風」と呼ばれました。 ちなみによく混合される「タニカゼ」といわれたのは、インフルエンザではなく、天明4(1784)年頃に流行り、谷風が「土俵上で儂を倒すことはできない。倒れているのを見たければ儂が風邪にかかった時に来い」と語ったといわれる流感だといわれます。 以後、この古今並びなき偉大な大横綱である谷風の名を名乗るものは無く、当然のごとく、「止め名」となっています。 ▼谷風に対する人物評 当時の谷風に対する人物評は、「いつもにこやかで少しもおごったところが無い」、「力量すぐれ、相撲は達人、腰低く寄り足は早い・・・寛永このかた、こんな完璧な力士はいない」といったものです。 怪力で多くの逸話、伝説も持ち、力量に優れながらもおごらず堅実な相撲を取っていたようです。 人物としてのスケール、度量の大きさも称えられていました。 一方で負けず嫌いでも知られ、物言いをよくつけたといわれます。 史上最強力士といわれる雷電為右エ門を預かり弟子として江戸へ上ってから初土俵まで6年間育てたのも谷風の功績かも知れません。 両力士は同じ片屋で本場所での対戦はありませんが、この両力士の対戦は「究極のドリーム・マッチ」といえます。 ▼谷風の体格 身長189cm、体重169kgのアンコ型の巨漢で、色が白く、目が細かったといわれます。 錦絵でも上記の特徴がはっきりわかります。 ▼「負けない相撲」の具現者 雷電が「勝つ相撲」の具現者なら、谷風は「勝つ相撲」の要素も少し感じながらも「負けない相撲」の具現者だと思います。 勝利を目指す点では「勝つ相撲」も「負けない相撲」も同じですが、より綿密に勝利を目指すのが「負けない相撲」です。 谷風が現役死するまでの35連勝をした最晩年は、「負けない相撲」の完成に最も近づき、安定した「円熟期」といっていいかもしれません。 それだけに谷風の現役死は惜しまれます。 もちろん63連勝が始まる安永7(1778)3月から、小野川に敗れ、再び43連勝をし、連勝がストップする天明6(1786)年11月までの「全盛期」の強さも他の追従を許さぬ凄さがあったと思います。 ▼成績と記録 通算成績 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 49場所で優勝相当21回 この成績を記録で分析してみます。 ▽勝率〜9割4分9厘〜史上3位 幕内勝率9割4分9厘は、雷電為(9割り6分2厘)、梅ヶ谷藤太郎(初代)(9割5分1厘)に続く史上3位の記録です。 なお、横綱在位勝率は、9割6分5厘(55勝2敗5分1預2無勝負36休、勝率9割6分5厘、11場所で優勝相当3回)で、1場所のみで勝率10割の陣幕久五郎を除けば、太刀山峰右エ門の勝率9割6分6厘に次ぐ史上2位です。 ▽優勝相当〜21回〜史上8位 優勝相当21回は、年2場所の時代にあっては、雷電為(28回)に続くもので、年6場所の時代も含めては、白鵬(42回、令和元年秋場所終了現在)、大鵬(32回)、千代の富士(31回)、雷電為(28回)、朝青龍(25回)、北の湖(24回)、貴乃花(22回)に続くものです。 (白鵬は、史上1位の42回優勝(令和元年=2019年の秋場所終了現在)していますが、現役中で変動の可能性あり) ▽連覇〜6〜史上5位タイ 安永8(1779)年3月から天明元(1781)年10月にかけての6連覇は史上5位タイです。 この6連覇は、63連勝をしている間にあたり、この期間は負け知らずでした。 谷風は6連覇のほかに天明2(1782)年10月から天明4(1784)年3月までの4連覇、さらに安永6(1777)年10月から天明元(1781)年10月の間に全休を挟んで出場場所8連覇を記録しています。 (白鵬は、史上2位タイの7連覇(2019年9月終了現在、技量審査場所などを含む)していますが、現役中で変動の可能性あり) ▽連勝〜63〜史上2位タイ 双葉山(69)に続く史上2位タイで、この記録は約150年間破られませんでした。 谷風は、ほかに43連勝、35連勝(現役死まで継続)を記録しています。 こと連勝記録に関しては、3度にわたる大きな連勝があり、他の追従を許さぬ実績を残したといえます。 (白鵬は、史上2位タイの63連勝(2019年9月終了現在)していますが、現役中で変動の可能性あり) ▼ライバル 谷風のライバルといえば、やはり谷風の連勝を63でストップし、後に同時に横綱免許を受けた小野川だと思います。 (対戦成績は谷風から見たものです) 小野川喜三郎 滋賀県出身、身長176cm、体重135kg 幕内通算成績 23場所 144勝13敗4分10預3無勝負40休 勝率9割1分7厘 優勝相当7回 最高位・大関(横綱免許) 谷風の63連勝をストップさせた小野川は、後に谷風と同時に横綱免許を受けた古今の強豪力士でした。 体格、地力で上回る谷風に対して駆け引き、技術で対抗したといわれます。 対戦成績 6勝3敗2分2預3無勝負 ○○○●○無分預●○預●分無○無分 初戦、3戦目、4戦目は小野川が幕下(現在の十両)にいる時に幕内の谷風と対戦したものです。 谷風の63連勝がストップした一番は4戦目の対戦で、天明2(1782)年2月7日目のことです。 小野川喜三郎についての更なる詳細は、史上最強力士RANKINNG内の小野川喜三郎を参照 ■横綱のあるべき姿 谷風は、実質上最初の横綱としてその強さのみならず、人物のスケールの大きさでその後の横綱のあるべき姿を示したと思います。 横綱の手本、基準、横綱中の横綱といえます。 |
■通算成績 | |||||
場所 | 番付 | 成績 | 星取表 | 優勝 | 備考 |
明和6(1769)年4月 | 西大関 | 4勝3休 | 休○○休○休?○ | ※ | |
明和6(1769)年11月 | 西大関 | 1敗7休 | 休休休休休休休● | ||
明和7(1770)年3月 | 西大関 | 3勝5休 | 休休休休○○休○ | ||
明和7(1770)年11月 | 西前1 | 7勝1敗 | ○○○○●○○○ | 同 | |
明和8(1771)年3月 | 西前3 | 8休 | 休休休休休休休休 | ||
明和8(1771)年11月 | 西小結 | 5勝1分2預 | ○○預○○預分○ | ||
安永元(1772)11月 | 西小結 | 6勝2休 | ○○○○○休○休 | (1) | |
安永2(1773)閏3月 | 西前1 | 5勝1敗1分1預 | ○○○○預○●分 | ||
安永2(1773)10月 | 西前1 | 5勝2敗1預 | ○○○○○預●● | 同 | |
安永3(1774)4月 | 西前1 | 6勝2休 | ○○○○○○休休 | (2) | |
安永3(1774)10月 | 西小結 | 5勝2分1休 | ○○分休分○○○ | ||
安永4(1775)3月 | 西小結 | 4勝 | ○○○○ | (3) | |
安永4(1775)10月 | 西小結 | 5勝1敗2預1休 | ○○●○○預預○休 | ||
安永5(1776)1月 | 西前1 | (記録不明) | (記録不明) | ||
安永5(1776)10月 | 西小結 | 7勝1無勝負 | ○○○○○無○○ | (4) | |
安永6(1777)4月 | 西関脇 | 2勝1敗5休 | ○●○休休休休休 | ||
安永6(1777)10月 | 西小結 | 5勝1敗1分1預 | ○○○預○○●分 | (5) | |
安永7(1778)3月 | 西関脇 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (6) | |
安永7(1778)11月 | 西関脇 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
安永8(1779)3月 | 西関脇 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (7) | |
安永8(1779)10月 | 西関脇 | 9勝1分 | ○○○○○○○○分○ | (8) | |
安永9(1780)3月 | 西関脇 | 6勝 | ○○○○○○ | (9) | |
安永9(1780)10月 | 西関脇 | 8勝2預 | ○○○預○○預○○○ | (10) | |
安永10(1781)3月 | 西大関 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (11) | |
天明元(1781)10月 | 西関脇 | 9勝1休 | ○○○○○○○○○休 | (12) | |
天明2(1782)2月 | 西大関 | 6勝1敗3休 | 休○○○休○●○○休 | ||
天明2(1782)10月 | 西大関 | 7勝1預1無勝負1休 | ○○○預○○○○無休 | (13) | |
天明3(1783)3月 | 西大関 | 5勝1無勝負4休 | 休○○○○○無休休休 | (14) | |
天明3(1783)11月 | 西大関 | 8勝1分1休 | ○○○○○○休○分○ | (15) | |
天明4(1784)3月 | 西大関 | 6勝2預2休 | ○○○○○○休預預休 | (16) | |
天明4(1784)11月 | 西大関 | 3勝7休 | ○○○休休休休休休休 | ||
天明6(1786)3月 | 西大関 | 10勝 | ○○○○○○○○○○ | (17) | |
天明6(1786)11月 | 西大関 | 3勝1敗6休 | 休○○●○休休休休休 | ||
天明7(1787)5月 | 西関脇 | (不作のため中止) | (不作のため中止) | ||
天明7(1787)11月 | 西関脇 | 6勝1敗1分1預1休 | ○○○○○○預分●休 | ||
天明8(1788)4月 | 西関脇 | 7勝1分1預1休 | 預○○○○○○分○休 | (18) | |
天明8(1788)11月 | 西関脇 | 7勝1分1預1休 | ○○休○○○分○預○ | ||
寛政元(1789)3月 | 西関脇 | 7勝1敗1分1休 | ○○○○○○○●分休 | ||
寛政元(1789)11月 | 西関脇 | 6勝1分3休 | ○休○○休○○○分休 | 横綱 | |
寛政2(1790)3月 | 西大関 | 4勝1分1預1無勝負2休 | 休○○預○分休○無 | ||
寛政2(1790)11月 | 西大関 | 7勝1敗1分1休 | ○●○○○○○分○休 | ||
寛政3(1791)6月 | 西大関 | 6勝1敗1無勝負2休 | ○休○○●○○○無休 | ||
寛政3(1791)11月 | 西大関 | 10休 | 休休休休休休休休休休 | ||
寛政4(1792)3月 | 西大関 | 8勝2休 | ○○○○○○○○休休 | (19) | |
寛政4(1792)11月 | 西大関 | 3勝 | ○○○ | (20) | |
寛政5(1793)3月 | 西大関 | 7勝2休 | ○休○○○○休○○ | (21) | |
寛政5(1793)11月 | 西大関 | 5勝2分3休 | ○分休○○休○○休分 | ||
寛政6(1794)3月 | 西大関 | 5勝5休 | 休○○○休休○○休休 | ||
寛政6(1794)11月 | 西大関 | 4勝6休 | 休○休休○○休○休休 | ||
通算成績 49場所 258勝14敗16分16預5無勝負112休 勝率9割4分9厘 優勝相当21回 |
※7日目の星取表不明 |
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