宮田征典 |
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■宮田征典■野球選手■8時半の男 右投右打 身長173センチ、体重70キロ 1939年11月14日−2006年7月13日 宮田征典(みやた・ゆきのり)は、リリーフ専門投手の草分け的存在で、午後8時半頃になると、登板し、「8時半の男」と呼ばれた ■履歴 ▼プロ入り前 子供の頃は、水泳好きで、小5から中学までは水泳部に所属 中学でいとこに誘われ、野球を始める 前橋高では、王貞治の所属の早実との練習試合で完封し、注目されるが、病気により、3年ではあまり投げることが出来なかった 日大に進学し、2年生の1959年の秋季リーグ戦で7勝0敗で最高殊勲選手になるなど、東都リーグで3度優勝 4年生の1961年は主将となり、全日本大学野球選手権大会で東都リーグとして初に優勝 リーグ通算54試合登板、24勝16敗、防御率1.56、194奪三振 最高殊勲選手には、2度選ばれている ▼プロ 1962年に巨人に入団 1962年は、開幕メンバーに漏れるが、2軍のイースタン・リーグで6勝を挙げ、6月に1軍に昇格し、4試合の先発登板も経験し、2勝を挙げる 同年オフに心臓疾患を患い、長いイニングの登板が困難のため、監督の川上哲治は、リリーフ専門で使うことを決める 1963年は46試合に登板し、6勝4敗、防御率1.88 そのフル回転ぶりは、「ON砲に、一発がない日があっても、宮田がブルペンにいたいときはない」といわれるほど 当時はセーブ制度がなく、先発中心の時代で、リリーフ投手が登板する試合が敗戦試合の時もあったが、宮田は同点試合・勝利試合で多く投げた 1954年は、先発投手の不調もあって、リリーフで投げる傍ら、先発も しかし、5月22日の阪神戦で右肩を亜脱臼し、戦線離脱 肩回りの鍛えるトレーニングで復帰と抜群の制球力につながる 1965年は故障もいえ、リリーフで獅子奮迅の活躍で8月半ばまでに17勝2敗、オールスターにも選出され、この年は、69試合に登板し、20勝(5敗)(うちリリーフで19勝、さらに現在の規定なら22セーブ)、防御率2.07(リーグ4位) 現役晩年で400勝を目指す金田正一の後を受けロングリリーフすることも多く、登板数、勝利数の多さにつながった面も 宮田が登板するのが、午後8時半頃が多く、「8時半の男」と呼ばれるように この年のセ・リーグMVPは、本塁打王、打点王の王貞治だったが、宮田の活躍も凄かった リリーフ投手が注目された年で、同年の日本シリーズで宮田は3試合のリリーフ登板を無失点に抑え、最優秀投手賞に選ばれている 1966年は、前年の酷使から15試合登板で5勝止まり 以後も、28試合、30試合、15試合の登板で、1965年の輝きは戻らず、1969年に現役引退 ▼現役引退後 現役引退後、1970年から1974年はラジオの解説者 1975年は、巨人の1軍投手コーチに就任するが、チームの最下位で解任 翌1976年に、2軍投手コーチを務め解任 その後も、卓越した投手指導で、日本ハムのコーチ、解説者をはさみ、西武、巨人、中日でコーチを歴任 投手の再生などに腕をふるった コーチ業の合間をぬい、解説者、少年野球の指導を行うなど、野球界の発展に尽力 2006年7月13日死去、66歳没。 投手成績・・・ 8年、267試合登板、45勝30敗、勝率6割0分0厘、防御率1.04 一流投手を育てる 投手指導に定評のある宮田征典の一流投手の育て方 |
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村山実 |