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西沢道夫
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■西沢道夫■野球選手■初代ミスタードラゴンズ

右投右打

身長182センチ、体重73キロ

1921年9月1日−1977年12月18日



西沢道夫(西澤道夫、にしざわ・みちお)は、15歳でプロ入りし初代「ミスタードラゴンズ」といわれ大谷翔平投手のように同時進行での投打二刀流ではないが最初は投手としてシーズン20勝やノーヒットノーラン、その後打者に転向し本塁打王になっていないがシーズン46本塁打を打つ活躍をした(シーズンで20勝以上と40本塁打以上を記録したのは唯一)、ほかに首位打者、打点王を獲得した

また、当時としては、身長が182センチで長身だったことから、大相撲の巨人力士・出羽ヶ嶽文治郎から「文(ブン)ちゃん」とも呼ばれた


■履歴
▼プロ
15歳で名古屋軍に投手としてテスト入団

最終学歴は、旧制小学校卒業となっているが、プロ入り後、旧制鹿児島総合中、日大に在籍

年齢不足のため、当初は養成選手(練習生)として、過ごし、9月5日に、満16歳と4日で公式戦初登板

この公式戦初出場は、現在も日本プロ野球史上最年少記録

この時の背番号は「0」
(正式登録後は「5」)

1939年には、6勝、翌1940年には、20勝

しかし、2桁勝利は、この年だけ

1942年5月24日の大洋戦では、野口二郎と投げ合い、延長28回を311球完投

同年7月7月18日にノーヒットノーラン達成

1943年のシーズンを最後に兵役

1946年に復員し、中部日本軍に復帰

肩を痛めていたため、活躍できず、元同僚で先輩の坪内道典に誘われシーズン途中でゴールドスターに移籍し、一塁手転向

1948年から背番号「15」

打者転向に3年を費やし、打者転向で協力してもらった坪内とともに、1949年に中日に復帰するとスラッガーとして活躍

1949年に37本塁打、翌1950年は46本塁打を打つが、51本塁打の小鶴誠に及ばず本塁打王を逃す

しかし、同年の5本の満塁本塁打は、シーズンのプロ野球記録

1951年・1952年は打撃コーチ兼任

1952年に、打率3割5分3厘、98打点で、首位打者と打点王

再び打撃コーチ兼任となった1954年に、主将として初のリーグ優勝・日本一に貢献

1955年の外野コンバートの要請に、失踪で抵抗し、引退まで一塁のポジションを守ることに

1956年に助監督兼任、1958年に打撃コーチ兼任で同年現役引退

▼現役引退後
引退後は、解説者を経て、中日のヘッドコーチ、監督

1958年も務めるつもりが、十二指腸の手術で休養し、キャンプイン直前に辞任

同年から解説者に復帰

1971年に脳出血で倒れ、車いす生活に

1977年に野球殿堂入り(日本)

同年12月18日死去、56歳没。

■エピソード
西沢の背番号「15」は、中日の永久欠番

中日では、服部受弘の背番号「10」と西沢の背番号「15」が永久欠番なのは、両選手を辞めさせる時の「妥協点」という杉下茂の談話が中日の球団史に掲載されている

投手・打者の両方で活躍

大谷翔平のように、投手・打者の同時進行での活躍でないが、投手で20勝(1940年)、打者で40本塁打(46本塁打・1950年)は、日本プロ野球史上で西沢のみ



打撃成績 
20年、打率2割8分6厘、212本塁打、940打点

首位打者1回、打点王1回
最多出塁数1回
ベストナイン3回
オールスターゲームMVP1回(1955年第2戦)
野球殿堂入り(日本)(1977年)


投手成績
9年、、60勝65敗、防御率2.23

ノーヒットノーラン1回


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監督成績
4年、480試合、253勝217敗10分、勝率5割3分8厘
※成績は実際に指揮した試合



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