尾形藤吉 |
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尾形藤吉(おがた・とうきち) 北海道出身 |
生没年月日・1892年3月2日−1981年9月27日 |
所属団体・東京競馬倶楽部→日本競馬会→国営競馬→日本中央競馬会 |
調教師通算成績・9390戦1690勝(中央競馬発足の1954年9月以降) |
主な勝利・桜花賞5回、オークス5回、皐月賞3回、日本ダービー8回、菊花賞5回、天皇賞・春4回、天皇賞・秋7回、有馬記念2回(天皇賞は日本競馬会発足によって年2回施行となった1937年以降) |
重賞勝利・189勝 |
■コメント |
■尾形藤吉(大尾形、日本ダービー8勝、通算1670勝) 尾形藤吉調教師は、日本ダービー8勝をはじめ、旧8大競走(桜花賞、オークス、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞・春、天皇賞・秋、有馬記念)を39勝しています。 通算勝利数1670勝(記録は中央競馬発足の1954年9月以降)など不滅の記録を築きました。 重賞勝利は、189勝。 最多勝調教師12回(1954年以降の創設)、1959年には未だ破られぬ年間121勝の大記録をうちたてました。 ■履歴 尾形藤吉調教師は、1892年、北海道生まれ。 1911年、調教管理者資格を取得しました。 尾形藤吉調教師の偉大な足跡を簡単に振り返って見ます。 1932年に第1回東京優駿(日本ダービー)に管理馬のオオツカヤマに自ら騎乗し2着。(当時は、調教師が自ら管理馬に騎乗することもありました) 1934年にフレーモアで初めての東京優駿(日本ダービー)優勝をします。 しかもこのレースは、管理馬が1着から3着までを独占する快記録も達成しています。 1938年に記念すべき第1回京都農林省賞典四歳呼馬(後の菊花賞)をテツモンで、第1回阪神優駿牝馬(後のオークス)をアステリモアで制します。 以後も東京優駿(日本ダービー)、阪神優駿牝馬(後のオークス)、京都農商省賞典四歳呼馬(後の菊花賞)を勝ち日本競馬史上最強馬にも挙げられる名牝・クリフジ、日本ダービー、天皇賞・秋、有馬記念を制したハクチカラ、日本ダービー、菊花賞、天皇賞・春を制したハクリョウ、皐月賞、日本ダービーを勝ったメイズイなど数多くの名馬を管理馬として輩出しています。 前述のように、日本ダービー8勝をはじめ、旧8大競走(桜花賞、オークス、皐月賞、日本ダービー、菊花賞、天皇賞・春、天皇賞・秋、有馬記念)39勝しています。 通算勝利数1670勝(記録は中央競馬発足の1954年9月以降)など不滅の記録を築きました。 重賞勝利は、189勝。 最多勝調教師12回(1954年以降の創設)、1959年には未だ破られぬ年間121勝の大記録をうちたてました。 調教師成績は、馬房制限のない自由競争の時代もあるとはいえ驚異の成績です。 また、先に挙げたハクチカラと騎手の保田隆芳とともに1958年に日本馬初の海外遠征を敢行しました。 アメリカ滞在2年目、ハクチカラにとって11戦目にアメリカンバースディハンデに優勝(この時、保田隆芳騎手はすでに帰国しており、騎手はレー・ヨーク騎手でした)し、日本馬初の海外重賞制覇を達成しました。 1981年9月27日逝去。 ■評価 生涯現役の調教師であり、生涯最期の日は、管理馬のメジロティターンがセントライト記念を勝っています。 資料でわかる限り騎手成績は、373戦148勝。 数多くの門下生を輩出しましたが、主な門下生として、保田隆芳氏、野平祐二氏、伊藤修司氏、伊藤正徳氏などがおり、現在まで競馬界に大きな影響力を残しています。 その影響力の大きさから「大尾形」と尊称されました。 また、息子の盛次氏、孫の充弘氏も調教師となりました。 尾形藤吉調教師は、相撲界でいえば、一代で出羽一門を築き、「角聖」、「御大」と尊称された出羽ノ海(元横綱・常陸山)を思い起こさせます。 出羽ノ海はわずか8年で死去しますが、尾形藤吉調教師は長く大きな影響を競馬界に与え続けました。 |
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