関根潤三 |
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■関根潤三■野球選手■50勝以上&1000安打以上 左投左打 身長173センチ、体重65キロ 1927年3月15日−2020年4月9日 関根潤三(せきね・じゅんぞう)は、東京府(現・東京都)出身 大谷翔平投手のように同時進行での投打二刀流ではないが最初は投手として活躍し、その後打者に転向し、活躍 投手で50勝以上(65勝)、打者で1000安打以上(1137安打)を2リーグ制後でプロ野球史上唯一の選手 オールスターに、投手と外野手で出場した最初の選手 (後に、大谷翔平投手も記録) 防御率ベストテン入りと打撃ベストテン入りをした史上唯一の選手 2003年、野球殿堂入り(日本) ■履歴 ▼プロ入り前 旧制日大三中時代(藤田省三監督)は、甲子園出場ならず 法大へ進学 この法大時代に、3年生時の1948年秋季リーグ戦でチームを戦後初の優勝に導く 4年生では、春季に主将を務め、秋季にリーグ2人目の通算40勝達成 その年の秋は、来日したサンフランシスコ・シールズ相手に好投 リーグ通算79試合登板、41勝(リーグ歴代5位)30敗 打者としても93試合に出場、350打数93安打、打率2割6分6厘、0本塁打、38打点を記録 当時は大学野球がプロ野球より人気があり、関根は六大学野球のスターだった ▼プロ 当初は、プロ入りを望んだわけではなく、社会人野球の八幡製鉄(後の新日鉄八幡硬式野球部)に内定が決まっていたが、恩師・藤田省三が2リーグ制で誕生した近鉄の監督に就任したこともあり、プロ野球・近鉄に入団 プロ1年目の1950年は4勝にとどまるも、4年目の1953年から3年連続10勝以上(10勝・16勝・14勝)を記録 1954年には自己最多の16勝を挙げ、防御率2.44でリーグ10位を記録 1957年には、2試合に登板するも打者に転向し、1958年以降、登板機会なしで外野手で活躍 1962年には、打率3割1分0厘で打撃成績リーグ8位を記録するなど活躍 オールスターには投手で1度、打者で4度出場 (ファン投票選出は、1953年に投手、1963年に打者) オールスターに投手と打者で出場した最初の選手 (後に大谷翔平も記録) 防御率リーグベストテン入りと打撃リーグベストテン入りの両方を達成した史上唯一の選手 打撃リーグベストテン入り5度 1965年に巨人に移籍 この年のチームの日本一を最後に現役引退 2リーグ制後の選手で、50勝以上、1000安打以上は史上唯一で、1リーグ制経験者を含めても西沢道夫と二人だけ ▼現役引退後 現役引退後は、解説者を経て、1970年に広島の1軍打撃コーチ(ヘッドコーチ格)に、山本浩二、衣笠祥雄らを育てた 1975年に長嶋茂雄監督の元でヘッドコーチになるも、球団初の最下位で、翌1976年は2軍監督、この年限りで退団 1982年から「長嶋茂雄監督が実現したら退団する」の条件で大洋の監督に就任 高木豊、屋敷要らを育てた しかし、「大洋・長嶋茂雄監督」は実現せず、1984年に辞任 解説者を経て、1987念からヤクルトの監督に就任 池山隆寛、広沢克己らを育てる 1989年退団 1990年に解説者に復帰 2003年に野球殿堂入り(日本) 2020年4月9日死去、93歳没 ■エピソード 広島コーチ時代に門限を破った衣笠祥雄を待ち伏せ、日課だった素振りに朝まで付き合ったエピソードは有名 大洋の監督に「大洋・長嶋茂雄監督が実現したら退団する」条件で就任し、実現寸前までいったが、結局実現しなかった 投手成績 8年、244試合登板、65勝94敗、勝率4割0分9厘、防御率3.43 打撃成績 16年、1417試合、4078打数1137安打、59本塁打、424打点、打率2割7分9厘 プロ野球で「エースで4番」は成功しないのか 知られざる二刀流選手列伝 二刀流は、難しい挑戦だが、二刀流が存在しなかったわけではない 二刀流選手列伝から二刀流の可能性に迫る 監督成績 6年、780試合、331勝408敗41分、勝率4割4分8厘 (アクラス1回、Bクラス5回) |
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