土井淳 |
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■土井淳■野球選手■秋山登とバッテリー 右投右打 身長170センチ、体重74キロ 1933年6月10日− 土井淳(どい・きよし)は、高校(岡山東高)→大学(明大)→プロ野球(大洋)と約18年間に渡り、同学年の秋山登とバッテリーを組み続けた 打撃は、非力だったが、ほぼ「守備力」だけでレギュラーに ■履歴 ▼プロ入り前 1949年4月、岡山東商に入学 8月31日に、岡山産業高と合併し、岡山東高となり、秋山登と出会う それまで遊撃手だったが、1950年から捕手に転向 以後、秋山と約18年間バッテリーを組み続ける 1951年に夏の甲子園に出場するが、1回戦で中西太のいる高松第一高に敗退 1952年、住友金属から内定をもらっていたが、明大商学部商学科入学 2年秋、3年春、4年秋にリーグ優勝 3年秋、4年春とベストナイン 4年の12月には、マニラでのアジア大会に出場 6勝1分で優勝 この時のチームには、同じ明大の秋山登、近藤和彦、立教の長嶋茂雄らがおり、メンバー16人中14人がプロへ 厳しいことで知られる明大・島岡吉郎監督に「土井と高田繁と星野仙一だけは殴っていない」と言わしめた島岡門下の優等生だった ▼プロ 大学卒業後の1956年に大洋に入団 1960年からコーチ兼任となり、同年の大洋のリーグ優勝、日本一に貢献 土井は、日本一になった時の三振のウイニングボールをスタンドに放り投げ、ボールが行方不明に (土井は、島田源太郎の完全試合のウイニングボールも同様に行方不明に・・・) 同年にはベストナイン 打撃が非力ながら卓越した「守備力」で「グラウンドの指揮官」と呼ばれた・・・ 1954年からレギュラーを奪われ、1968年の開幕戦で、満塁本塁打を金田正一から打ったのが最後の本塁打 同年に現役引退 ▼現役引退後 引退後は、大洋のバッテリーコーチ、解説者、大洋のヘッドコーチを経て、1980年から大洋の監督 1年目4位、2年目シーズン途中に休養、最下位で、2年目の1981年で退任 その後は、解説者、阪神のヘッドコーチ兼バッテリーコーチを務め、1985年のリーグ優勝と日本一に貢献 1987年退任 ラジオのパーソナリティやTVCMなどに出演 秋山登の死後、大洋の後進球団・DeNAのOB会長も務めた ■特徴 土井は、今ではほとんど見ない「あんパンミット」を使っていた ぐるりと土手があり、今のミットのように閉じられないが、それでいて逆シングルでもびしっと捕球する土井 土井によると、あんパンミットには利点があり、ほぼ360度土手があるので、少々低めの投球でも、構えたところで動かさず、下側の土手に引っかけて引き上げることができた 「昔の審判は大きなプロテクターをつけて、上からのぞき込む形。(高低が判断しにくく)あんパンミットをうまく使えばボールもストライクになりました」・・・捕飛の処理もユニークで、腹の前でポケットキャッチをする。閉じないミットならではの技術で「顔の上にミットを差し上げて捕るよりも、ファンブルのあとの対応がしやすい」という理由があった お盆で球を受ける格好なら、はじいても球が上がり、地面に落ちる前に捕れたという ちなみにミットを差し上げて捕るときは、肩の上に平らに置く「出前スタイル」をとっていたそうだ 不便な道具が個性を生んだ 打撃は非力ながら「守備力」が土井を支え、「ダンス式リード」という配球術が要 「スロー、スロークイック」は、ワルツのリズムで変化球、変化球、ストレート 「スロー、スロー、クイック,クイック」はブルースのリズムで変化球、変化球、ストレート、ストレートといった具合 また、「棒立ちタッチ法」も多用 バックホームの返球が目の前に迫ってくるまで知らぬ顔して棒立ちとなり、ランナーがスピードを緩めると、いきなり捕球体制をとりタッ チアウトにした その他では、マウンドに顔を向けたまま、矢のような送球で一塁ランナーを刺すのも得意とした 打撃成績・・・ 13年、1138試合、2364打数508安打、23本塁打、176打点、打率2割1分5厘 ベストナイン1回 大洋ホエールズ川崎慕情(ベースボールマガジン別冊新緑号) 大洋ホエールズ特集 監督成績・・・ 2年、246試合、97勝133敗16分、勝率4割2分2厘 |
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